魚のアトリエ”うおとりえ”

新鮮な魚を美味しく食べたい!!
 「魚っ食いの365日

魚の買い方・食べ方・下ろし方・・・時鮭・ときざけが美味しい!!

2012年06月19日 | 魚談義
 初夏に獲れる鮭が「ときざけ」。このころ沿岸に近づき・定置網に入る。

          

 焼くと脂がしたたるほど乗っているが、さらりとしてしつこくない。
これが、美味さの源泉となっている。

         
   
 鮭は秋、川に上ることから秋鮭と呼ばれるが、今頃の鮭は「ときしらず」とも
呼ばれる。時をわきまえていないということか。あるいははぐれ者ということか。
いずれにしても、鮭の多数派ではないが、必ず初夏のころ沿岸に近づいたところを
網にかかる。

     

 
 先ずは、焼いて食べる。

     


 つづいて、フライにする。
これが、堪らなく美味い。

   


 照焼きにする。

   
     
 中落ちを焼いて身をほぐす。

      


 ハンバーグならぬ鮭バーグに            お好み焼きのトッピングにした。

       


 内臓も甘辛く煮てみた。うまい!

      


 さらに半身が残って、それがいま、粕漬けとなって静かに熟成を待っている。

     

 そうそう、ルイベを作りそこなったしまった。
 次回、時鮭に出会ったときの楽しみにする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魚談義――漁業と魚食の近未来

2011年03月22日 | 魚談義

    
左:セリ場のマグロ                   右:三崎市場のセリ場

 東北関東大震災
 この魚談義シリーズを、「魚の安定生産と安定消費」の項まで書いたところで
東北関東大震災に見舞われた。中でも世界の三大漁場に近い三陸沿岸が壊滅的な被害を
受けた。大災害ではあったけれども、私たちは絆の尊さを見た。身にまとう雪を振り落
として立ち上がる寒竹でありたいと思う。被災地の皆様とともにありたいと思う。

 世界の海から
 シリーズ最終章に、「漁業と魚食の近未来」を書きかけていた。
わが国の漁業は、地域的に見れば沿岸から沖合いへ、沖合いから遠洋へと世界の海に
拡大した。しかし、古くは北洋漁場から、アラスカ漁場から、南氷洋から締め出されて
きた。近年は資源保護の観点からマグロへの規制がかけられている。抗し難い趨勢だ。

 近海に戻る
 再び、遠洋から沖合いへ、沖合い漁業から沿岸漁業へと転換する時が来たように思う。
わが国の旺盛な食需要と嗜好に対応して、世界の海に拡大してきた。これをを転換する
とき、こんどは漁業生産に合わせて消費需要と嗜好を変化させなければならない。

 嗜好の変化
 マグロばかりではない。アジもサバも、イカもタコも、サケ・マス・タラも世界の海
から調達してきたが、その多くは加工食品として、また回転寿司に代表される外食産業
需要を賄ってきた。一方鮮魚が家庭の食卓に上ることは年々少なくなってきている。町
の魚屋さんの減少が如実に物語っている。大型流通の台頭に負けたのではなく、消費者
の需要と嗜好の変化について行けなかった結果と考える。

 世界調達からの転換
 世界の海から調達してくれば、冷凍保管技術の発達により、季節に関係なく調達・流
通させて需要を賄えた。しかしそれも、世界的な魚需要の増加から、いわゆる買い負け
現象からままならないという。一方で、食の国内自給率の引き上げが議論されているが、
消費需要を変化させなければ実現できないし、議論がかみ合わない。
 

 鮮魚を食卓へ
 端的にいえば、頭も骨もある魚を鮮魚として食卓で食べるようにしないと生産に見合う
消費が生まれてこないと考えている。生産に見合った消費とは、季節々々に獲れた魚を
食べる食習慣・食生活にに転換することである。そのためには鮮魚が鮮魚として、新鮮
に提供できる流通に変らなければならない。同時に漁業生産も、消費動向を見据えた形
に変らなければならない。単純に獲れる時獲れるだけ獲るというあり方を変えなければ
、獲った魚を消費することはできない。資源もますます枯渇するばかりだ。

 獲れたものを食べる
 幸いわが国は、長い海岸線とともに恵まれた漁場に囲まれている。この環境の中で魚
の需要を賄えないはずはない。賄わなければならない時代が来ていることを肝に銘じな
ければ、いずれは胃袋を満たすことができなくなる日が来る。
 生産と需要は産業の両輪だ。消費に見合って生産するか、生産に見合って消費するか
だ。魚は天然資源であることを考えれば、獲れたものをいただくことの方が理に叶って
いる。食べたい魚を獲ってくるというのは不遜と言うしかない。このことが言いたくて
このシリーズを長々と書いてきた。


 重複するところもあり、意を尽くせないところもあるが、既述のシリーズのテーマを
列挙してこの稿の終わりとしたい。雑駁な論だがご一覧いただければ幸いです。

 1.鮮魚難民
 2.my魚屋開業:アンテナショップ
 3.家庭における「魚食力」について
 4.後継者問題
 5.魚調理技術者を惜しむ
 6.漁業:それは生産計画のない生産業
 7.魚の安定供給と安定消費
 8.漁業と魚食の近未来

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魚談義――魚の安定供給と安定消費

2011年03月10日 | 魚談義
 前回までに、魚食をめぐる諸問題を、生産から流通・消費に至るまで
自分なり観察してきた。 

 ・家庭における「魚食力」、つまり、調理して食べる力が落ちてきていること。
 ・町に魚屋さんが少なくなって、買えない・調理してもらえない状況が出現していること。
 ・漁業生産者の老齢化・後継者難と同時に、消費側も魚食年齢の高齢化・後継者難の状況にあること。
 ・生産計画のない漁業生産の特殊性に問題があること。

ここから、導き出せることは、
 計画的漁業生産に対しては、一方で安定的な消費が確保されなければならないこと。
 計画的生産の必要性については、関係者の間で議論・検討がされるはじめていると
 聞き及ぶ。
 
 安定消費の方は、消費者個人の問題だから「魚食の啓蒙・促進」に尽きるのでは
 ないかと考えられるが、それを支える前提には、「魚は美味しい」と思われなけれ
 ばならない。美味しい魚を実現するには、生産の「量から質への転換」が欠かせな
 いと考える。

 量から質への転換は、計画的漁業生産と関わると同時に、
 生産者→消費者を結ぶ流通の変革がなければならない。

 この関係を整理すると、
 計画的生産には・・・・・・・・・安定的な需要・消費が必要であり
 量から質への転換をして・・・・・魚は美味しいと思われなければならない。
 両者を結ぶ新しい魚屋の出現により・・消費者の需要にこたえる魚を提供しなければ
                   ならない。
 
  生産者も消費者も、高齢化しているから、後継者作りを急がなければならない。

 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魚談義――漁業:それは生産計画のない生産業

2011年02月19日 | 魚談義


”獲れるだけ獲る”時代ではない!! 
食糧の生鮮3品のうち生産計画を持たない生産業は漁業だ。農業は作付けの段階で、
ある程度の収量が見通せる。また出荷調整も若干できる。
畜産業も計画的であるといえる。
もちろん、天候や予想外の事態で変動要因はあるが、概ね見通すことはできる。

 漁業は、養殖事業を除けば、魚そのものを生産しない「資源採集業」だ。
明日の漁獲の保証は何もないから、獲れるときに獲る。もちろん資源保護の観点から
魚種ごとの漁獲量や期間の規制はあるが、漁獲計画=出荷計画はないと理解している。
一部に例外的に計画的生産・計画的出荷をしているものがあるかも知れないが・・・。

 魚の成育・回遊次第、天候次第で漁獲量は変動するから、漁獲量=供給量となって
市場に出荷される。その増減の振幅は大きい。概ね需給関係が市場価格に反映するから
常に価格が安定しない。
その結果は、生産者にも消費者にも何の恩恵ももたらしていない。せっかく豊漁となっ
ても一時的に消費者は喜ぶかも知れないが、漁業者は豊漁貧乏という結果となる。

 消費量も若干多くなるかも知れないが、一人ひとりの「食べる量」はほぼ一定である
から必要以上のものは不要となる。時には廃棄されているものと推量する。
魚も安定供給の方策を探らないと、漁業は衰退し、消費者もますます魚離れするものと
考える。

 いま、市場に余った魚はどうなるかというと、産地市場や消費地市場で出荷・販売調
整されることとなる。魚の鮮度を落とす要因になる。価格を下げて魚をさばくことになる。
どこかで、誰かが不味い魚を食べることになる。
魚は不味いものと思わせている一つの要因になっているやも知れない。

 この問題を解決しなければ、漁業の明日も、魚食の未来もない。
解決手段の一つは、計画的な漁獲生産である。魚種ごとにあるいは総漁獲量を定めた
漁業に転換すべきである。関係者からもそのことが提起されているやに聞くが、早急に
実現することが望まれる。

 それでも漁獲量の変動は、漁業の性格上避けられない。もう一つの解決策は流通機構
がどこかの段階で、余剰品を二次加工し、付加価値をつけて商品化することである。
余剰産品を二次加工するということは、その時だけ稼動するという非効率な事業となるから、
問題なしとはしないが、そういうところにこそ、政策的・制度的に解決すればよい。
 


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魚談義――魚調理技術者を惜しむ

2011年02月19日 | 魚談義
  

 町の魚屋さんが、だんだん少なくなって行くということは、それだけ魚調理技術者がいなくなって
しまうということになります。 魚屋さんは、むかしから魚をさばいてお客さんに渡していました。
その時、食べ方をアドバイスしながら売っていました。今風に言えば、コンサルティングセールスを
してきたのです。

 以前は、今よりも家庭で魚をさばける主婦が多かったとはいえ、イワシ・アジなどの小魚は別として
サバより大きな魚は、店頭でさばいてくれていたように記憶しています。特にお刺身などは、大皿に盛
り合わせてもらっていました。

 町の魚屋さんがなくなってしまうと、いわば、町の調理師がいなくなってしまうことになります。
われわれ家庭の魚調理を支えてくれていた人たちの力を借りられなくなるということは、家庭における
「魚食力」の低下につながります。

 デパ地下の魚屋さんでも、スーパーの魚屋さんでも、頼めばさばいてはくれますが、そこにはあまり
会話がありません。いつも同じ店員さんとは限らず、顔見知りになるということは不可能です。専業の
魚屋さんとはキャリアも違うと思います。

 魚をさばくという技術は、理屈より経験ですから、何百、何千さばいて習得するものです。一朝一夕
に得られない技術なのです。それは、自分がいまさばいていてよく分かります。魚屋さんの廃業ととも
に、この社会から貴重な技術・技能を失ってしまうわけですから、大変惜しむべきことであり、大
いなる損失であります。その損失は、われわれが蒙るわけです。

 肉屋さんで肉を買って、持ち帰って再び魚のように切り分け・さばくようなことはありません。陳列
もそうです。牛が豚が鶏が店頭でぶら下がっていることはありません。ところが魚は、海で泳いでいた
ままの姿で、店頭に並んでいます。肉と大きな違いですね。魚は、現在の住環境、台所事情に合わない
ですね。いきおい魚(鮮魚)は、切り身で売る、切り身で買うということになります。

 そうすると、われわれに身近な沿岸・近海の小魚は敬遠されることになります。わが国は長い海岸線
を持つ国ですから、近くで獲れる魚は新鮮で美味しい魚が多いのです。ところがこうした魚をさばいて
くれる魚屋さんがなくなるということは、われわれは新鮮で美味しい魚を食べられないということにな
ります。そこに「鮮魚難民」が生ずるわけです。

 時代にあった「魚屋」でなければならないと思います。今やその危機にあります。飛躍しますが、
世界の食糧問題は、われわれの足元にある日々の問題として捉える時ではないでしょうか。
町の魚屋さんの現状と、家庭の「魚食力」の低下とが、リンクしていることは間違いありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする