マシュマロ’sエンディングノート

~At the end of a marshmallow-like life~

食器を間引きできるようになるまでの道のり

2019-08-20 | 日々の暮らし
使わない食器やキッチン用品の処分を、少しずつ続けていました。
捨てる予定だったキッチン用品や食器は、あと1回の家庭ごみ収集日に全部出せそうです。

しかし、使うと決めていた食器の中で、1か月以上もまったく使っていない食器がありましたので、この食器は間引き対象になりました。

間引きできるくらい、食器の管理がしやすい状態になるまで、結構時間もかかり労力も使いました。
今回は、その話などをしつつ、現在の食器棚の現状をお話します。

使っていた食器
食器棚の中を大々的に整理する前は、かなりの数が所狭しと食器棚に収まっていました。
整理して、使う食器だけを残して、あとは全部捨てよう!と決めて取り掛かりましたが、直前まで使っていた食器は、決して使い心地がよかったわけでも、お気に入りでもありませんでした。

常に使っていた食器は、常に手前にあった食器。
たまたま、手前にしか置けなかった食器です。
食器の数が多すぎるので、同じ種類の食器を高く積み上げて、奥から順番に押し込める感じで、食器棚に収めていた母。
奥にある食器を出すには、手前に置いている食器を避けて、棚板の上ギリギリまで積み重なった食器を引っ張りだし、使う数だけ取り出し、食器の位置を戻すという、非常に面倒くさい方法で食器を出し入れしていました。

加えて、ドーナツ店やファストフード店で飲食した際にもらったノベルティの食器が、少しずつ増えては食器棚の手前に収納され、いつの間にか手前の食器がノベルティの食器に入れ替わっていました。

結局、整理する直前に使っていた食器のほとんどがノベルティになっていましたが、所詮は数千円の飲食でもらえるレベルの食器です。
色ムラがあったり、バリが取れていなかったり、釉薬の付き方が不均等だったりします。
その上、デザインが微妙だったり、使い心地がよろしくなかったりすると、モヤモヤした気持ちで食事する羽目になります。

奥に追いやられて出し入れが難しい状態の食器には、自分が気に入って買ったモノや使い心地がよい食器もあり、いつも私は思っていました。

「好きな食器で食事がしたいのに」

しかし、母が家事をしていたころは、食器にケチをつけると、大体
「その食器は出すのが大変。こっちでも十分でしょ?」
と返ってきていました。
半ばあきらめ状態で、好きな食器に思いを馳せながら、好きでもない食器で食事していました(苦笑)

使わない食器
数年前から母が家事をすることが難しくなってきて、私がキッチンに立つようになりました。
そして、食事の用意をするたびに、食器の出し入れにイライラする日々が続きました。
食器が多すぎることや、取り出しにくい状態で収納していたことが原因です。
しかし、私が仕事をしていたころは、食器棚の食器を全部把握して、整理整頓、片付け、使っていない食器の処分など、時間をかけて取り組む暇がありませんでした。

ところが、私の心境に変化が出て、生活はぎりぎりになるけれど仕事は思い切ってやめてしまおう、と決心するときが訪れました。
仕事をしなくなれば、これまで着手してこなかった場所を片付けて整理する、絶好のチャンス。
食器棚も、もちろんターゲットでした。
仕事を辞めてしばらくは、他のことをやりつつ食器棚や押し入れを、どういう手順で片付けていこうか、処分するモノはどれにしようか、いつ取り組むことがベストか、などを考えていました。

そして、いよいよ食器棚を片付け始める日がやってきます。
まずは、この先絶対に使わない食器を確認。

使わない食器の基準は、

 ・自分では買わないデザイン
 ・重たい
 ・大きすぎる
 ・セット食器
 ・デザイン重視の形で実用性が低い
 ・過去10年間で全く使っていなかった
 ・模様やイラストが大人向けではない

などに設定しました。
実用性が低い食器とは、デコボコが多すぎて汚れやすく洗いにくい特徴があるモノや、金を部分的にあしらっていて、食器乾燥機にも電子レンジにも入れられない素材のモノです。
こういう食器は、収納も難しいですよね。

使わない食器の基準を決めたら、やっと使う食器の取捨選択です。

使いたい食器
数年前に家族が2人になり、使う食器の数はかなり厳選されてしかるべきの我が家。
2人分の食器とは、一体どのくらいが適正なのだろうか?
と考え始めると、意外と曖昧なことに気が付きます。

毎日、毎食、形式にこだわって食事を摂るのであれば、さまざまな食器を2つずつ持っておく必要があります。
和食であれば、ご飯茶碗、汁椀、小皿、中くらいの皿、魚を盛り付ける皿、小鉢、豆皿、丼などは欠かせない。
お客様が訪問してくる頻度が多い場合は、湯呑、コーヒーカップとソーサー、デザート皿、各種グラスなどを5セット、10セット単位で揃える必要があるかもしれません。
逆に、和洋中伊仏、どのような料理でもワンプレートで主食やデザートのみ別皿、という場合は、大き目の皿を2枚、小さ目の皿やサラダボウルを2つずつ、ご飯茶碗を2個、あとは飲み物に使うコップとカップがあれば十分です。

さて、我が家は普段どうやって食事をしていただろか?と考え始めると、たまに凝った料理を作ることもあるので、やはり“最低限必要な食器”が見えてきません。
ですから、まず適正数のことは忘れて、絶対に使いたい食器を選びました。
まさに、食器棚の奥に追いやられていた、使いたい食器です。
絶対に使いたいと言っても、私個人が使いたい食器ですから、母の意志は関係ありません(笑)

絶対に使いたい食器を選んだあとは、使ってみたかった食器を選びます。
これまで、用途が重複していた別食器を使っていたりしたので、片付けのときに思い切って入れ替えました。

次に、いままで使っていて使い心地もいいし、デザインもシンプルで視覚的にうるさくない食器を選びました。
これらの中には、ノベルティもいくつか含まれているのですが、ノベルティには珍しく、使いやすい大きさで質感もよいモノで、ずっと使い続けてもモヤモヤしない食器です。

必ず使う食器
使いたい食器の中でも、間違いなく使う食器がありました。
我が家の場合は

 ・ご飯茶碗
 ・丼椀(麺類や丼ものを入れる)
 ・大きめの皿(カレー、パスタなどが盛り付けられる大きさ)
 ・小さめの皿(パンやケーキなどに使う大きさ)
 ・小鉢やサラダボウルなど深さが多少ある食器(汁気があるおかずを入れる)
 ・シリアルボウル(マルチに使う)
 ・グラタン皿
 ・マグカップ
 ・ガラスコップ

以上でした。
これらは、現在フル稼働している感じですが、それぞれの個数は現在見直し中です。

残したけれど使用頻度が低い食器
使うだろうと思って残したのは以下の食器です。

 ・汁椀(そもそも味噌汁やお吸い物をほとんど飲まない)
 ・スープ用マグカップ(現在、スープの季節ではない)
 ・湯呑(飲み物は基本全部マグカップで飲む。来客用に残したが来客がほぼない)
 ・豆皿(本当にたまにしか使わないが、使うときもある。微妙な食器)

汁椀に関しては、大き目のお椀と普通の味噌汁椀があり、味噌汁椀の出番がほぼありません。
大き目のお椀は、麺類、汁物、ご飯ものと、結構マルチに使っています。
丼椀もあるのですが、陶器製なので熱々を盛り付けると、手を添えたり持ったりできなくなるので、料理の温度で使い分けている感じです。

スープ用マグカップは、スープと温かい飲み物を一緒に頂く場合があるので取っておいたのですが、今の季節はスープを飲まないので、涼しくなったら使うかもしれませんし、使わないかもしれないし、まだジャッジできない状態です。

湯呑は、思い出したら使ってみたりするのですが、実際なくても困らないアイテムです。
来客もないし、もし来客があったとしたら、きれいめなマグカップでコーヒーを出してもいいかな、と思っています。
たまにしか来ない人に気を遣って、わざわざティーカップのセットを用意するのは面倒に感じます。

豆皿は、お寿司や刺身用の醤油をさすときに使うのですが、それだけだと使用頻度がとても少ないので、たまに小さいおやつを盛り付けたり、香の物を盛り付けたりして、気分を出しています(笑)
なくても大丈夫そうですが、あったら使うときもある、微妙な立ち位置です。

意外にも大活躍している食器?
食器ではないのですが、耐熱ガラス製のフタ付き保存容器が、現在大活躍しています。
大、中、小と数個ずつあるのですが、フタを外したらそのまま食卓に出しても違和感がない、シンプルなモノです。

作り置きの保存はもちろん、ちょっとしたデザートを作って冷やしておいたり、サラダを入れておいたり、葉物野菜を一枚ずつに分けて保存したり、浅漬けやキムチを作ったりと、マルチに活躍しています。
ガラス製なので、匂いが器に移らないのもいいですね。
以前は、これを使ってケーキやプリンを作ったこともあります。

ご飯の冷凍もできますし、自分でもびっくりするほど使っています。

間引きする食器
処分する食器も決まり、それらもやっと捨て終ろうとしています(少しずつ捨てていたので、数ヶ月かかりました)
食器棚の中は、一目見ただけで何が入っているかがわかる状態になりましたし、見た目もスッキリしています。

所有している食器が一目瞭然でわかるので、余分な食器もすぐにわかります。
いつも同じ場所から動かない食器は、整理したあとに一度も使っていない食器です。
片付けた当初は必要数が把握できていませんでしたが、この一度も使っていない食器は間引きしても大丈夫ですので、少しずつ捨てます。

数日前に間引きした食器に、小さめのお皿があります。
パンやケーキを盛り付けるために残した皿です。
小さいので、数枚同時に使うことを想定して、12枚くらい残しておいたのですが、常に使う枚数は3~4枚でした。
予備も考えて、必要数は6枚と判断し半分間引きして捨てました。

これから間引きしようと思っている食器は

 ・湯呑(来客用に2客と自分のお気に入り1客を残す)
 ・味噌汁椀(他で代用できそう)
 ・スープ用マグカップ(普通のマグカップで兼用できる)
 ・小鉢とサラダボウル(数を減らしても大丈夫そう)
 ・豆皿(なぜか7枚あるので4枚に減らすつもり)

数も少ないし、大きさも大したことないので、すぐに捨てられると思います。

現在の食器棚
我が家の場合なのですが、母はワンプレートが好きなので、基本1回の食事で食器ひとつとマグカップしか使いません。
大きめの丼椀やお皿に、主食とおかずを盛り付けて食べています。
私も基本ワンプレートにマグカップかガラスコップですが、温かくして食べる料理と冷たくして食べる料理は分けて盛り付けたいので、食器を数個使うときもあります。

食器棚の中は、現在上半分に収まる種類と数にしています。
しかし、例えば一日中食器洗いをさぼったとしても、まったく困らない数を収納しています。
家族2人で基本ワンプレートで食事をするならば、茶碗、大きめの皿、マグカップ、の3アイテムが2人分あれば十分かもしれませんね。

もちろん、誰かをご招待して食事を振舞う場面があるかもしれませんが、そういう場合は外食へ誘うか、出前を頼んで紙皿や紙コップで対応してもよさそうです。
常識のない家庭だと思われても構わないので、食器は徐々に間引きして、所有している食器全てを使いこなせる数まで減らすのが、今の私の理想です。


今回は、食器のことを少し掘り下げて考えてみました。
老後は、食器を洗ったり片づけたりすること自体が、しんどくなってくると思います。
しんどくなる前に数を最小限にしておけば、少し楽に暮らせると思うので、頑張って間引きを繰り返していこうと思います。

不要品が増える原因を考えてみた

2019-08-19 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
少しずつではありますが、日々不要品を処分しています。
不要品が家中に溢れていたころに比べれば、すべての部屋の床が見えますし、余裕で歩く空間もあります。
しかし、まだまだ不要品が目に付きます。

父が生きていたころは、父も母もモノを増やしても不要品は処分しない人たちでしたから、父が使っていた部屋と、母が衣裳部屋にしていた部屋は、床が見えない状態でした。
私の部屋は、基本的には床にモノを置いていなかったので、一見片付いた部屋ではありましたが、所有するモノが多すぎて、収納家具で面積を圧迫していました。

今でこそ、かなりのモノを減らし、入ってこようとするモノを遮断し、徐々に不要品は減ってきていますが、いつの間にか増えているモノもあります。

今回は、今だに不要品が増える原因を考えてみました。

不要品が増える原因その1
断るタイミングがわからない。

何かが私の手元に入ってこようとするときに、はっきりと断れる状況だったらいいのですが、いつ言い出していいのかわからないタイミングがあります。
例えば、イベント会場へ入場するときに配られるノベルティ。
配られることを事前に知っていたら、断ることもできるのですが、配布物があることを知らずにいくと、うっかり受け取ってしまうことがあります。
受け取った後に、あ、要らないのに、と気が付きます。
結果、受け取ったノベルティと一緒に入っていたチラシ類も手元に入ってくるため、意図していない場面で、不要品と古紙が増えています。

また、友人宅や知人宅へお邪魔したときに、不要品を差し出されて
「これ、まだ全然使ってないの。よかったら、持って帰って」
と、不要品を押し付けられることがあります(苦笑)
消耗品だったらいいのですが、飾るモノだったりこじゃれたキッチングッズだったりすると、使い方もわからないし、そもそも要らないので断ると
「遠慮しなくていいの。もう、私は使わないから、マシュマロちゃんが使って」
と、満面の笑みで手渡されてしまいます。

いやいや、あなたに不要なモノなら、私にも不要なモノだと思うのですが?
と、心では思っていても、相手はよかれと思って私にくれると言っているのだから、むげに断ることもできず、受け取っていました。

以前は、相手の気持ちを踏みにじってはいけない、と思い込んでいて、欲しくもないけれど一応受け取って使ってみよう、使った感想を聞かれたりするかもしれないしと、捨てずに持っておきました。
けれど、結局自分が欲しくて手に入れたモノではないため、使い勝手が悪かったり似合わなかったり、邪魔になってしまったり、いいことはほとんどなかったです。

今であれば、そのような申し出(不要品の押し付け)をされたら
「ああ、この人は不要品を処分したいけど、捨てることに罪悪感があるのだな。だから、他人に処分を委ねようとしているのだな。だったら、ここは私が受け取って、私の家にあるごみ箱へ捨ててあげよう」
と、捻くれた気持ちを持ちつつ、作り笑顔で受け取ることにしています。

これまで、気持ちのこもった不要品(笑)は多々ありましたが、もうどれも手元には残っていません。

不要品が増える原因その2
思っていたのと違う。

身の回りで、毎日あるいは定期的に使うモノを買う時、選ぶ基準がそれぞれあります。
色、形、使い勝手、装備されている機能、手抜きができるモノか、時短に役立つか、毎日使っても使い心地が変わらないか。
自分では、しっかり吟味して、何度も何度も確認して、手に入れるべきかどうかを考え、よし、これは買いだ!と思って買ってみたら、ちょっと違った、結構違った、かなり違っていた!ということが、何度もありましたし、今でもあります。

いいと思って買ったはずなのに、気に入らない部分に意識が向いてしまい、自分が求めていた基準を満たすモノを新たに買いたくなります。
実際、似たようなモノを繰り返し買っていた時期もありました。
バッグと靴は、まさにその代表でした。
私の場合、ファッションとしてよりも、バッグと靴は機能性重視でした。
しかし、機能性を重視すると、いつまでたっても気に入るモノに出会えません。
なぜなら、売っているモノは私の希望を聞いて作っているわけではないから(笑)

結局、気に入らない部分があるモノを繰り返し買ってしまうわけですが、先に持っていたモノを捨ててしまえば、減ることはなくても、増えることもありません。
しかし、いつの間にか重複して所有してしまっている。
理由は、新しいモノを買ってはみたけれど、やはり前に使っていたモノの方がいいと感じて、使い続けたり、持ち続けたりしてしまうからです。
何度買っても、どれも似たような不満を持つことになるのだから、諦めて先に買ったモノを捨てるか、新しく買ったモノをリサイクルショップで買い取ってもらうかして、処分すればいいだけのことなのに(苦笑)

最近は、靴については同じ種類で色違いを買うようにしました。
バッグも、今所有しているモノを使い倒すことにしました。
使い勝手の悪さや、履き心地の悪さはもちろんありますが、もう理想の1品に出会える気もしないので、現状を受け止めることにしました(笑)

不要品が増える原因その3
葬儀や法事の返礼品。

こればかりは、要らないからと言ってお断りするわけにもいきません。
最近急激に増えた、不要品の入手経路です(苦笑)

日持ちのする食品や、日用品の消耗品であれば問題ありません。
しかし、タオルや薄墨の筆ペンと香典袋のセットは、正直必要ありません。
タオルは売るほどあるし、香典袋はありがたいですが、筆ペンはまだインクがたくさん残っているモノがあるので、不要です。

返礼品にも流行や定番品があります。
父の葬儀では、半家族葬でしたので、甥っ子姪っ子までが葬儀に参列してくれました。
血縁者以外は参列しなかったこともあり、香典返しはカタログを渡しました。
香典返しの品を、自由に選べるカタログです。
この時、余分に用意していたので、余ったカタログ分で私も好きなモノを送ってもらいました。

しかし、好きなモノを選べると言っても、本当に欲しいモノはカタログには載っていません。
あったら便利かもしれないな、という商品はありますが、心の底から欲しい商品は見当たらず、結局お菓子のセットと調味料のセットにしました。
といっても、父の葬儀の返礼品ですから、自分で買ったも同然なのですが(苦笑)

結局、返礼品カタログで好きなモノを選んだとしても、本当に必要なモノが載っていなければ、不要品カタログでしかないのだな、と実感しましたが、お香典を頂く以上は返礼品はお渡しするのが礼儀。
受け取る方も、必要ありませんとは言いにくい状況ですから、どうしようもありません。

ただ、最近では葬儀のあり方を自由に選択する方もいて、お香典を頂かない代わりに返礼品もお渡ししない旨を、参列者に前もってお知らせする方もいらっしゃるようです。
葬儀も、多様化の時代なのですね。

ちなみに、もし不要な返礼品を頂いた場合は、最悪の場合捨てますが、リサイクルショップへ持ち込んでも問題なさそうな品は、買い取ってもらいます。

え?罰が当たる?
別に気にしません。
不要なモノを持ち続けて、モヤモヤする方がよっぽどの罰ゲームですから。

不要品が増える原因その4
増えそうなモノを買う。

私の場合は、好きなアーティストのCDとDVD、漫画がそれに当たります。
少し前までは、グッズ系の収集もしていましたが、もう入手するような行為(購入する、ノベルティを狙った買い物、譲ってもらう、交換する、懸賞応募する)をやめることにしたので、グッズは今後増えることはないと思いたいです。
鉄壁の意志があれば、大丈夫なはずです。

それよりも、CD、DVDは、アーティストがもう何十年も活躍していて、最低でも年に1回から2回は新しいアルバムやシングルを発売します。
好きな漫画も、100巻超え確実なので、いつ最終回になるか...

しかし、私の楽しみのひとつであり、ストレス解消だったり、癒しだったりするので、ここだけは自分で自分に見て見ぬふりをしています。
いつか、飽きるときがくるまで、増え続けること確実です。

視覚で感じる不要品
所有品を増やさず、処分を繰り返せば、普通ならどんどんモノが減っていき、最終的には必要なモノだけが残るはずです。
しかし、減らすことを繰り返しても、モノの量が変わった印象がないことがあります。

増える原因もさることながら、日々必要としている日用品や飲食料品のストックが常に同じ量あると、減った感覚になりにくいかもしれません。
そのあたりの量への認識は、長年積み重ねた感覚なので、多すぎると感じることはありませんが、減らした感覚も持ちにくいです。

また、カベや棚のディスプレイも、減らした感覚がない場合があります。
減らした日は、確かにスッキリした感じがするのですが、ディスプレイをやめない限りはディスプレイの状態に慣れてしまって、まだまだ不要品がたくさんあるな、と感じてしまいます。
カベや棚のディスプレイも、老後は家中の壁が見える状態にするために、すべて取り除こうと考えていて、徐々に捨ててはいるのですが、どうも見た目をよくしたいという気持ちを捨てきれません。

よくよく考えたら、私のディスプレイはアマチュアの自己満足ですから、誰にも評価されないし、誰に見せるわけでもありませんから、なくてもいいはずです。
では、なぜディスプレイをやめられないのか?

答えは、好きなモノを眺めながら生活することが中毒になっているから。
毎回、ディスプレイを処分しようとすると、見ているだけで心が落ち着いたり、楽しい気分や幸せな気分にしてくれるモノは、まだそのままにしておこう、となってしまいます。
生活に必要ないとわかっていても、気持ちが必要としているわけです。

しかし、もしディスプレイに対する気持ちが変わったら、それこそ捨て時です。
その感情が生まれる瞬間を見逃さないようにしないと、いつまでたってもモノは減りません。
ディスプレイが減ることは、モノに対する感情が減った証です。
モノへの感情が減ったら、たとえ美品良品であっても、手放すことができるはず。

今は少量ずつ処分していますが、気持ちがすっかりなくなったら、すべてのディスプレイを手放せるはず。
そうなったときに、初めてモノを減らした感覚が味わえるのかもしれません。
その感覚は、もしかしたら、今ディスプレイを眺めている気持ちよりも、幸せを感じるかもしれないです。


結局のところ、不要品が増える原因は、減らす作業と増やす作業のバランスが取れていないからです。
捨てても、手放しても、入ってくるモノが上回っていれば、いつまでも同じ物量を所有します。
私の場合、雑貨や服は増やさずに減らすことを考えていますが、CD、DVD、漫画(たまに小説)は増えていくばかりですし、ディスプレイしているモノは停滞しています。
おそらく、そこで増減のバランスが崩壊しているのでしょうね。
このバランスをうまく取りながら、いずれは減らすことにウエイトを置けたら、理想の老後である必要最小限の暮らしへ近づけそうですが、なかなか難しいですね。

使うタオルと使わないタオル

2019-08-18 | 日々の暮らし
大量の使わないタオルがあります。

以前片付けをしたときに、使うタオルと使わないタオルに仕分けたのですが、使わないタオルを雑巾にしようと思い、ざっくりとカゴに入れていました。
しかし、雑巾以外の使い方がないだろうか、とネットで検索してみました。

使うタオル
私が現在使っているタオルは、ハンドタオルとフェイスタオルとバスタオルですが、それぞれの使い方が少しズレています。

一般的なハンドタオルはフェイスタオルとして使い、フェイスタオルはお風呂上がりに身体を拭くために使います。
バスタオルは、枕カバー代わりにしています。
ハンドタオルは、全部で5枚をローテーション。
フェイスタオルは、8枚くらいをローテーションしています。
バスタオルは2枚をローテーション。
それぞれ、ヘタってきたり汚れたりパイルの糸が出てきたりしたら入れ替えです。

ちなみに、母は母で使うタオルがあります。
それは、私が管理していないので、どんな種類が何枚あるかは把握していません。

使わないタオル
仕分けしたときに、本来のタオルの使い方をしないタオルはすべて捨てようかと思っていたのですが、やめました。
理由は、万が一に備えてです。
万が一とは、母を自宅介護する日が来るかもしれない可能性です。

自宅で介護や終末期患者の看病をした人の経験談を聞くと、それなりに床や身の回りを汚してしまうそうなのです。
食事や飲み物をこぼす、トイレを失敗する、食べ物を直接つかむなど、ほぼ乳児や幼児と一緒に過ごしているような状態だという印象です(もちろん、汚さない人もいます)
また、家の中でのケガも多いようで、なにかとタオルや雑巾が必要のようなのです。

私の母は、まだ介護を必要としませんが、握力が衰えており白内障と糖尿病で視力が悪いため、手に持っていたモノを落としたりこぼしたりしがちです。
今は、たまにしかそういう事態になりませんが、将来はわかりませんから、ある程度のタオル類は残しておくべきだと判断しています。

ただ、持っておくにしても限度があります。
頭の中では、使わないタオルは掃除するたびに雑巾にしてあちこち拭けばいい、と思っていたのですが、実際はなんとなくサイズが大きすぎて拭きにくい。

何かいい方法がないか、ネット検索してみました。

タオルの切りっぱなし
検索してみると、使わないタオルを雑巾にする人は、当然ながらたくさんいます。
子どもの学校用に、きちんと縫い合わせてストックしている人もいます。
そのままの形状で、掃除や洗車に使う人もいます。
動物と暮らしている人は、動物の身の回りの清掃に使っている人もいます。

そのような中で、使用済みタオルや古着を好きなサイズに切って、切りっぱなしで使う方々がいました。
四角に切り、四辺をかがったり縫ったりせずにそのままで。
そして、基本それらはすべて使い捨てで、繰り返し使うことはしていないようです。

パイル地のタオルは、切ると繊維クズが出てしまい、使った周辺に掃除機をかけるか、粘着式の床カーペットクリーナーで取らなければならないので、いままでそのような使い方をしようとも思いませんでした。

ただ、いろいろな方の使い方を知ると、実にあらゆる場所を拭くために使っていて、繊維クズを気にするよりも、切りっぱなしのタオルを使って拭く方が、実際はきれいになるのかもしれない、という考えに至りました。

切りっぱなしタオルの活躍場所
拭けばきれいになる場所は家中にありますが、そこに使用はしないだろう?と思った場所が、便器の内側です。
便器の内側は、専用のブラシやスポンジを使って掃除するモノだと思い込んでいましたが、切りっぱなしのタオルやTシャツを使って、専用洗剤を含ませて擦りながら拭き、一度使ったら捨てます。
次に清掃するときは、また新しい清潔な状態の切りっぱなしタオルを使います。

なるほど、一度使ったら思い切って捨てられるような使い方をすればいいのだな、と開眼しました(笑)
これまで、便器の内側を清掃するのに、専用のスポンジやブラシを使うことに抵抗を感じていました。
なぜなら、それなりにバイ菌や尿の成分や大腸菌が付いてしまい、つど消毒しないと使えない性格だったからです。
ですから、もう何年も使い捨て用のトイレ掃除シートを使って、周りを拭いた最後に便器の中を拭いて、捨てていました。

しかし、いまいち汚れが落ちているか自信がなかったし、1枚でトイレすべてをカバーすることはできません。
1枚でOKと謳っている商品でも、破けたりすると2枚3枚と使うことになります。
また、1パックに20枚~30枚程入っていますが、一度に複数枚使うと、結局1か月もしないうちに買い足す必要が出てきます。
経済的にも痛いし、使い捨てるならタオルだろうがトイレ掃除シートだろうが同じこと。
であれば、現在持て余している使わないタオルを使えばいいのだと、気が付きました。

コンロ回りの油汚れも、私は専用の使い捨てシートを使って拭いていました。
普通の台拭きなどで拭くと、他の部分を拭けなくなってしまうからです。
私は、料理をしたらすぐにコンロ周りを拭きたい性格です。
3回料理したら、3枚の使い捨てシートを使うことになりますが、1回使っただけで破けるし汚れが裏側にも滲み出すので、1回使うごとに捨てなければいけません。

しかし、切りっぱなしタオルを使えば、破けることはないし裏に汚れが染み出ることもありませんので、裏表を有効活用できるし、1回で捨てずに何度か使ってから、一日の終わりに捨てればいいだけ。
同じ使い捨てでも活躍できる幅が広いですよね。

それから、汚れのひどい鍋やフライパン。
これまでは、キッチンペーパーやティッシュや材質の柔らかい古紙を使って、汚れをこそぎ落としてから洗っていましたが、これも切りっぱなしタオルで拭いている人がいたので、試す価値ありですね。

早速試してみました
いままで自分のこだわりが強すぎて、タオルの切りっぱなしを使うアイデアがありませんでしたが、いろいろな人が活用しているので、私も早速、いくつか真似してみました。

まずは、鍋の汚れを拭き取ってみました。
米を炊いた鍋と油炒めを作ったフライパンです。
さほどひどい汚れではありませんでしたが、タオルの切れ端で拭いてみたところ、思った以上に油汚れが取れますし、米を炊いた鍋肌に付いたデンプン質も、きれいに取れました。
そして、意外にも紙やキッチンペーパーで拭くよりも、油汚れがきれいに落ちました。
この後、洗剤を含ませたスポンジで洗いましたが、油戻りがなく楽に洗うことができました。

鍋とフライパンの汚れを拭いただけで捨てるのは、少し気が引けたので、洗い物がすべて終わってから、排水口の掃除に使ってから捨てました。
ただ、排水口は柄の長いスポンジを使う方が、きれいに汚れが落ちる気がしています。

それから、コンロ周りとレンジフードにも使ってみました。
こちらは、鍋とフライパンを拭いたタオルとは別に1枚使いました。
コンロ周りの油汚れを拭く前に、油汚れのない箇所を拭いてから、コンロ周りとレンジフードを拭いて、任務完了(笑)
しかし、コンロ周りとレンジフードを拭いた後に、同じ切れ端で鍋の汚れを落としても、問題ないような気がします。
なぜなら、同じ料理から出た油ですからね。
鍋やフライパンは、最後に洗剤を使って洗いますから、問題ないように思います。

お掃除シート系は活動休止します
とりあえず、今日は10枚分のタオルを切りました。
1枚は4等分にしています。
切りっぱなしタオルを活用している人は、いろいろなサイズに切って使っているようですが、サイズごとに管理する手間がいやなので、4等分オンリーです。

現在、各種お掃除シート系がまだ残っているので、使い切ってから切りっぱなしタオルにシフトします。
使わないタオルの枚数がかなりあるので、使い出したら当分はお掃除シート系は必要ないはず。
また、月日が経てば今使っているタオルも切って使うことになりますから、お掃除シート系は買わずに済みそうですね。


こういうの、ナチュラルライフとかシンプルライフとかミニマムライフとかって言うのかもしれませんが、あくまでも、私の場合は“不要品の処分”なので、もし切るタオルが無くなれば、あっさりお掃除シート系を使う生活に戻ります(笑)
最終目的は、旅立つときに余計なモノを残さないこと。
これも、終活の一環なのです。

おひとり様の外食

2019-08-17 | 日々の暮らし
おひとり様で外食できる?できない?
女性同士の雑談で、たまに出る話題です。

ひとりでは飲食店へ入ることができない、恥ずかしい、という人もいれば、まったく気にせずに、おひとり様で食事やカフェタイムを楽しむ人もいます。
私は後者。
ひとりで飲食店へ入ることに、抵抗はありません。

ただ、焼肉屋やファミレスだと4人席が一般的なので、混雑時に1テーブルを私だけが座るのは申し訳なく感じてしまい、お店の混雑具合をみてから、おひとり様を決め込むか入らずに帰るかを判断しています。

そんな私に、少し気楽におひとり様をさせてくれるサービスが、拡大されつつあるようです。

『ファミレス「おひとり席」拡充 ついたてなど視線配慮 ガストや大戸屋』(日本経済新聞 電子版 2019年8月17日)

現在、無料記事としてアップされています。
要約すると、ファミリーレストランや定食チェーン店などで、おひとり様用のテーブルを設置する店舗が増えている、という内容です。
設置したことにより、売り上げが伸びたり、回転率が良くなったりしているようです。

おひとり様テーブルの特徴としては、前後に座った人の顔が見えないよう、また、横からの視線も遮られるように囲っていたり、対面式のロングテーブルは前に座った人と視線が合わないようにしたりと、各店舗で工夫しているようです。
何かしらの作業をしながら、コーヒーを飲んだり、軽食を摂ったりする人もターゲットにしているとのことで、コンセントが1テーブルごとに使えるようになっているところもあるようです。

おひとり様席で最初に有名になったのは、ラーメンチェーン店の「一蘭」です。
もともと、ひとりで集中してラーメンを味わい食べてほしい、というコンセプトだったと記憶していますが、最近のおひとり様事情を考えると、時代の先取りだったような気がします。

今回、私が取り上げた記事のように、おひとり様専用席が増えると、非常にありがたいです。
私は、地元に何軒かお気に入りの飲食店があるのですが、ほとんどのお店がテーブル席なので、混雑時を避けて行くか、カウンター席があるお店の場合は、なるべくカウンターへ座るようにしています。
ですから、カウンター席があるお店は結構好きです。

おひとり様で外食できるか、という話題の時、私は全く問題なく外食できる、というと「信じられない、私には無理!」という方が必ず存在します。
理由のほとんどが“恥ずかしいから”というものなのですが、私はデリカシーがないのでしょうかね?
食事をすることが恥ずかしい、と思ったことがありません。
ひとりで外食することが恥ずかしいなら、集団でも恥ずかしいのではないでしょうかね?
その辺は、私には理解できかねる心理です。

いつも疑問に思うのですが、おひとり様で外食できないと美味しい食事を食べ損なってしまわないのだろうか?と。
せっかく目の前に、美味しい食事を出してくれる飲食店があるのに、恥ずかしいから入れないなんて、もったいないな、と感じてしまいます。

おひとり様での外食が恥ずかしい人でも、ファストフード店だったら入れるという人もいます。
ハンバーガー店やドーナツ店やカフェチェーン店ですね。
有名なカフェチェーン店は、囲いはありませんが1人用の席を置いている店舗もありますし、カウンター席もあります。
ファストフード店は、テーブル席が多くても、おそらく客の回転が速く、人のことを気にする雰囲気ではないから、入りやすいのかも知れません。

50歳を過ぎて思うのは、年寄りがおひとり様でも快適に過ごせる飲食店は、案外少ないということ。
おしゃれなお店や、若い人、働き盛りの人をターゲットにしている飲食店は、年配の方が利用しようと思うと、カウンターや椅子が高すぎて座るのが難しかったり、注文の仕方が複雑で食べたいメニューを注文出来なかったりというハードルがあり、気楽に利用できていないのではないかと懸念しています。
椅子の形状も、座りにくいモノがあり、足腰が弱い方は座るのが大変かもしれないな、と思ったりします。

最近、少々気になりだしたのは、母と一緒に畳席のある飲食店へ入ると、必ずと言っていいほど畳席を案内されそうになることです。
母は足腰が弱く、畳に長く座っていると立つのにかなり苦労しますし、座っている間にあちこちが痛くなってくるようです。
私も、幼い頃からテーブルで過ごしており、畳の生活をしていなかったので(和室は寝るだけの部屋だったりしました)、畳席がとても苦手です。
掘りごたつ席も、母には少し難しいです。
立ち上るときに、足をスムーズに掘りごたつから出せないのです。

しかし、年寄りは畳の方がいいのではないか?という固定観念があるのか、気配りのつもりで勧めてくれるので、どうにも困ってしまいます。
そういう場合は、テーブル席がいいですとハッキリ言いますが、畳席しか空いていない場合を除いて、年寄りに畳席を勧めるのは、必ずしも気配りにはなっていないのだということも、世間に広く認識してもらいたいと思います。

もし、おひとり様席の設置が今後増えていくのならば、幅広く年齢層のことを考えて設置してくれたらいいのにな、と思います。

フリマで不要品を売るバラエティー?ドキュメント?

2019-08-16 | 日々の暮らし
数日前の深夜番組で、実家にモノがあふれている女性タレント(以下:彼女)が、フリマで不要品を売るといくらになるか、というチャレンジをしていました。

フリマで不要品を売り上げるまでの流れをご紹介しながら、フリマについて考えてみたいと思います。

フリマに参加することになった理由
まずは、番組の概要から簡単にご紹介します。

この番組は、世の中にあるウマい話を検証するバラエティーです。
例えば、ユーチューバーは儲かるのか?とか、浜辺に打ちあがっている流木がお金になるらしいとか、そういった、普通の労働とは違う形でお金を稼ぐことが本当にできるのかを、タレントの方々が実際に試して検証します。

今回の彼女は、以前フリマアプリを利用してどのくらい売れるか(売り上げがあるか)を検証するために、実家にある自分と母親の不要品を出品して、期間を決めて検証を行いました。

番組の企画主旨としては、売り上げ額をメインに、以下に挙げるフリマアプリの問題点を、実際のフリマではクリアできるかもしれない、という仮定でスタートしました。

フリマアプリでの出店の問題点
 ・値下げ交渉や質問のやりとりがメールになってしまい、タイミングが合わずに買い手を逃してしまう
 ・出品したモノを梱包する手間と梱包材の費用
 ・送料の負担
 ・送付が完了するまで不要品が家にある

などなど。
これらの問題点が、実際のフリマであれば出店料はかかるものの、送料はかからないし梱包もする必要がない、買い手と直接交渉ができるし、売れた瞬間に不要品がなくなるので、アプリ利用より良さそうですね。

売る不要品の選別と売値設定
最初は不要品の選別から始まりましたが、以前のフリマアプリで買い手が付かなかったモノも、リベンジすることになりました。
売値は、リベンジ品も含めフリマアプリで設定した売値よりも高めにします。
理由は、値下げ交渉の際に売り手の損を少なくするためです。
アプリでは数百円にしたモノも、今回は正規の金額にしたり、ジャンク品でも強気な売値設定にします。

視聴しているこちらは、それは高すぎるのでは?と思いましたが、まあ番組の企画ですし、彼女は初めての出店ということで、常連さんが強気に出てくることを想定すると、ありなのかな?と思います。

値札書き
売るモノが決まったら、決めた売値の値札を作ります。
値札にできるような厚紙と、POP書き用のペンを買い足して、せっせと値札を作っていきます。

値札の書き方については、彼女曰く「目を引くように、色を付けた方がいい」とのこと。
前もって下調べをして、値札が重要だと学習したようでしたが、実際はPOPを書くセンスがなかったようで、黒マジックで金額を書いたら、ピンクのマジックで囲っただけの値札が出来上がっていました(笑)

今回売ることにした不要品の数は、よく覚えていないのですが200点を超えていたと思います。
そのひとつひとつの値札を用意するのは、かなりの労力です。
服に関しては1着ずつだと手間がかかるので、1000円、2000円、3000円など、先に売値を決めてから、それぞれの金額で売るモノを仕分けていました。
この方法、同じカテゴリーで大量に売りたいモノの場合には有効かもしれないので、参考になります。

搬入と陳列と値札付け
いよいよ、フリマ当日。
今回参加したフリマは、駐車場を利用しての開催で、ブースの広さは駐車場の1台分です。
もう少し広いブースもありますが出店料が高いので、今回は車1台分の方を選択しました。
開催日数は、2日間。
出店ブースは、当日に振り分けられるシステムで、入口に近い場所が理想的ですが、彼女は入口から一番遠いエリアでの出店となってしまいました。
搬入は、番組スタッフと一緒にしていきます。

実際、フリマに参加する場合は搬入方法や搬入時の人員を考える必要があります。
自分ひとりで出店できる量であればいいですが、彼女のようにモノが多く、しかも大きなモノも結構ありましたので、搬入を手伝ってくれる人は絶対に必要です。
その点では、視聴しているフリマ初心者には参考にならないですね。
もっとも、そのような主旨ではないので、参考にしなくてもいいのですが(苦笑)

陳列については、洋服ハンガーを2台か3台か用意して下げていきます。
これも、彼女の事前調査により得た陳列方法です。
あとは、平置きできない小物や雑貨は、折り畳みの長机(会議などで使うような机)に陳列し、大きなモノやバッグは平置きしていきます。

最後に、搬入時に付けられなかった値札を付けていき、準備が完了するのですが、そのフリマは業者の方が掘り出し物を求めて、フリマスタート時間より前に買い付けにくるとのこと。
陳列している最中にもかかわらず、品物を手に取ってみていく人がいました。

いよいよ売ります
陳列も値札付けも終わり、いよいよ売りの態勢に入っていきます。
業者さんが買い付けにくるので、売りのピークはスタート時間前から9時半くらいまでとのこと。
その時間帯に、いかにお客様を引きつけて売るか、がポイントとのこと。

初出店の彼女は、お客様とのコミュニケーションが上手くとれずに、何人か逃してしまいます。
それでも、ジャンク品である携帯電話だかスマホだかの充電器、古本、バッグ、ポーチ、ネックピローなどが売れました。
値下げ交渉をする人もいましたが、交渉なしで提示金額で購入してくれる人も結構いました。
おかげで、1日目で出店料分の元手は取れましたが、期待していたほどには、お客様も足を止めてくれず、売り上げも午後には頭打ちとなっていました。

1日目を終えた時点で、やはり値札POPに問題があるということで、POP書き名人にレクチャーを受けて、値札を書き直します。
1日目は、業者が早めに買い付けにくることを知ったので、2日目はもっと早い時間に準備。
また、助っ人が来てくれて、陳列方法にアドバイスをくれます。
例えば、最も売りたい服はラックから外し、駐車場の天井部分に下げ、縦の空間を利用すること。
立てかけられるものは、平置きせずに立てかけて陳列。
いくつかは値下げして、2日目のスタートです。

前日に知り合った親切な他の出店者が来てくれたり、前日に買ってくれた客がリピートしてくれたりして、2日目は、かなりのモノが売れました。
彼女も、1日目と比べるとフリマならではのコミュニケーションが身について、交渉も楽しそうでした。

売り上げ結果
最終日の2日目が終了。
売れ残ったモノはあるものの、見た目では半分以上が売れていました。
売り上げは6万円くらい。
フリマアプリと比べると、倍以上にはなったようです。

番組を見た私見
再度言いますが、私は不要品処分の方法でフリマは選択肢にありません。
アプリも、実際のフリマもです。

アプリの利用については、これまで何度も書きましたが、画像を撮り、サイトへアップして、商品説明を入力して、買い手との交渉含むやりとりをメールでして、梱包して配送手配をして...という流れが面倒だからです。
実際のフリマについては、売値設定、値札作り、搬入するまでの労力と人員の確保、陳列、小銭(お釣り)の用意、紙袋やレジ袋の用意などが、面倒に感じてしまいます。

しかし、今回番組を見ながら、今からフリマにチャレンジしてみようかと思っている方には、参考になる部分が多かったように感じます。
値札の書き方、売値設定、陳列の工夫、当日の開店準備は早めに...どれも、常連の方なら当たり前に熟していることかもしれませんが、初心者は値札を付けてただ並べるだけで精いっぱいなはず。
もしも、この先私がフリマにチャレンジしてみる気になったら、実践したい内容でした。

ただ、気になった点がひとつ。
それは、搬入方法です。
今回は、番組スタッフの手伝いがあり、車も用意してくれていたようなので、搬入に関しては苦労が少なかったと思うのです。
しかし、一般人の場合は車が用意できず、公共交通機関で売りモノを運ぶ場合もあります。
その場合、洋服ハンガーや折り畳み長机や大きなモノを運ぶのは、かなり無理に近い。

今回、番組主旨がフリマアプリとの売り上げ比較で、フリマ初参加入門的な内容ではありませんでしたから仕方ないのですが、本気でフリマを始めようと思っている方は、搬入時点でくじける可能性もあるな、と思ってしまいました。

しかし、フリマアプリ利用時とフリマ出店では、後者の売り上げの方が良かったという結果は、フリマアプリを使っている人にとっても、有益な情報になったのではないでしょうか。


フリマアプリ利用にしろフリマ出店にしろ、不要品を誰かに譲ることは、有償無償にかかわらず、モノを処分する側にとっては納得しやすい手放し方なのだと思います。
私は、捨てるということに未練や罪悪感を持たないように努めていますから、不要と思ったらすぐに捨てますが、そういう気持ちになれない方で、まだフリマに参加したことがない人は、一度頑張ってチャレンジしてみたらいいのかもしれませんね。

母の服を少しだけ処分した

2019-08-15 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
台風の被害はなかったのですが、天気も悪いし、デパートは臨時休業、公共交通機関は間引き運行のため、本日は一日中家の中で過ごしました。

天気が悪いにもかかわらず夏用の敷きパッドを洗い、掃除機をかけ、不要品ハントを実施。
母の服を、少しだけ処分することになりました。

母のモノ所有数は無限
母は、いくつ身体があるのか?と思わせるほど、服を持っています。
着数だけなら、小さなブティックを開けるくらいは持っていると思います。

彼女の溜め込み癖は服だけにとどまらず、何かと買っては
「子ども(私マシュマロのこと)がいつか使えるかもしれない」
といい、使わずにあちこちへ仕舞いこんでいました。

現在も、かなりの“何か”を溜め込んでいる様子ですが、既に何を手放して何を所有し続けているのかを、覚えていません。
覚えていないのは年齢のせいばかりでもなく、とにかく所有しているモノが多すぎるため、記憶の中だけでは整理できない状態なのです。

現在進行形で、キッチングッズや食器を少しずつ処分していますが、母はどのキッチングッズや食器が家の中から消えたのか、まったく覚えていません。
例えて言うと、いつも通る道の一角が更地になっているのをみて、ここにどんな建物が建っていたかな?
と思い出せないことがありますが、まさにその状態です。
確かに何かが建っていたが、どんな建物で、店だったのか会社だったのか思い出せない。
確かに食器はたくさんあったが、どんな食器をいくつ持っていたのか思い出せない。

道端の建物がなくなっても、私たちの生活に影響することはごく稀です。
行きつけのお店であれば話は別ですが、ただ毎日見ていた(ような気がする)建物が、記憶に鮮明に残ることはありませんし、なくなっても何ひとつ困りません。
ただ、そこに建っていただけの存在です。

不要品も同じで、なくなっても生活に困ることはありません。
持ちすぎているキッチングッズも食器も、そして今回お話する母の服にしても、家の中から消えてしまえば、色も形も大きさも用途も思い出せない、なくても全く困らない、ただそこに存在していただけのモノ。

なくても一切困らないモノを、母は何十年も持ち続け、増やし続け、最後はモノが多すぎるせいで怪我して入院までしています(『私がモノの処分を繰り返した話』参照
まるで、自治体がハコだけ作ってみたけれど、誰も利用しないまま時だけが過ぎていく施設と一緒です(言い過ぎですか?)

そんな母も、ケガと入院をきっかけにモノをむやみに買うことが少なくなり、今では衝動的にテレビショッピングを利用することもなくなりました(笑)
もっとも、出かけるとすぐに疲れてしまうこともあり、買い物という行為そのものができなくなりつつありますが...

母の服への執着変遷
私が小さい頃は、まだそんなに服やモノを買い込み溜め込むようなことはありませんでした。
母の買い物依存症ともいえる行為が始まったのは、おそらく祖母(母の母)が亡くなったころからです。
彼女は、祖母のことが大好きでしたが、正直依存していたと思います。
生活面では独立していましたが、何気ない祖母の思い出話をすると、依存していたことが感じ取れます。

その、大好きな母親(祖母)が亡くなったショックと、ちょうど更年期に入って更年期症状も重かったため精神的バランスが崩れ、買い物に依存するようになったのではないかと思っています。
生活便利グッズや身の回りのモノのストック、新商品、子どもだった私でも「それ要らん」と判断できるようなモノまで買い込み、服に関してはどれだけ買えば気が済むのか?と思うほど、頻繁に購入していました。

結果、何百着もの母の服で一部屋が埋まっていたわけですが、モノが片付けられず整理整頓ができない人が言いがちなセリフの数々

「高かったから、すぐ着るのがもったいない」
「まだ着られるから、捨てるのもったいない」
「好きで買ったのだから、そのうち着る」
「誰か使うかもしれないから」

服を溜め込む根拠にもならない理由を並べては、服を“大事”に“保管”していました。
本当に「服屋さんでも開店するんですか?」と、冗談抜きで何度も母に言いましたね。
少し高い値段で買った服は、ビニールや不織布のカバーが付いていることがありますが、そのカバーを付けたまま、何十年も所有していました。
手放すこともたまにはありましたが、大体が自分が着られなくなった服を誰かに譲る、といった感じなので、服を減らすという感覚はありませんでした。

そんな母が、服を買うのを控え始めたのは、ケガして入院したことがきっかけではありましたが、私が自分のモノを処分しているのをみて、少し触発された感じもありました。
比較的良い状態の服を、自分でリサイクルショップへ持ち込むようになったのです。
服以外の不要品は、私がリサイクルショップへ持っていったり処分したりしましたが、やっと“手放す”ことに意識が向き始め、片づけのときに何か見つけると
「これは売れるかな?」
と言うようになりました。

とはいえ、服もモノもとにかく多いので、売っても処分しても一向に減った感じはありませんでしたが、十数年かけて、今はやっと、何をどれだけ所有しているのか、なんとなく把握できるくらいまでには減らすことに成功しています。

服への執着の変化
これまでは、高かった服やまだキレイで着れる服を捨てることは、頑なに拒否してきた母ですが、最近は機嫌がいい時に
「これは、処分してもいい?」
と尋ねると
「いいよ」
と言ってくれるようになりました。

母が所有している“値段が高かった服”は、リサイクルショップでは購入して5年以内(チープな服は1~2年以内)のモノしか受け付けてくれません。
母がいくら高い値段で買ったモノであったとしても、いくら保存状態が良くても、リサイクルショップにとっても不要な服でしかないのです。

その話をしたころから、私が処分を促すと同意してくれるようになり、本日も母に着ない服を捨ててもいいか?と聞いたところ、OKが出ました。
まだ残っている服を改めて見渡して
「随分たくさんあるね」
と、まるで他人事(笑)
でも、それでいいと思いました。
服を溜め込んだ張本人のくせに、と思わないでもないですが、他人事のように言えるぐらい、服への執着がなくなったのだと思えば、やっとこの心境になってくれてよかったと思っています。

処分する服は、今週中に無料のリサイクルボックスへ入れに行きます。

今回処分する母の服
母は、ここ10年くらいスカートやワンピースを着ていません。
パンツルックの方が着ていて楽なようなので、改めてスカートとワンピースは今後着るか?と聞いたところ、着ないとのことでした。
捨てるというと、母はいまだに少し気持ちがモヤモヤする様子なので、リサイクルボックスへ持っていくことを伝えてビニール袋へ。

ちなみに母の服は、チェスト2台分、洋服ダンス1竿分、和ダンス1竿分、小さ目のクローゼットに収納している他に、収納しきれていない、おそらく洋服ダンス3竿分くらい?が洋服かけにかかっています。
こうやって書き出してみると、かなり減らした割には、いまだに服を持ちすぎですね(苦笑)

今回は、収納しきれていない洋服かけにかかっていたスカートとワンピースを処分することにしましたが、洋服ダンスにもまだ数着のワンピースが入っているので、それは後日着手しようと思っています。

処分する服の仕分けを始めると、タグが付いたままのワンピースが2~3着ありました。
母に、服は買ってほったらかすのではなく、買ったら着てください、と思わず言ってしまいました。
そして、そのワンピースは買ってからいったいどのくらいの月日が流れたのだろう?と思わずにはいられないくらい、今の母の年齢では着ないようなデザインでした(苦笑)

母の年齢で着るのは厳しいデザインでも、私の年齢であったらまだ大丈夫そうなものは、ちゃっかり頂いてしまおうと思うこともあります。
しかし、私と母ではデザインの好みが全く違っていて、色の好みもサイズも違うため、私のクローゼットに移動してくる服はほとんどありません。

今回も、ほとんどは時代遅れだったりサイズが大きすぎたりして、私も着れない服ばかりでしたので、躊躇なく45リットルのビニール袋へ。
一着だけ、私が今後買い揃えようと思っていたワンピースに近いデザインがあったので、私のクローゼットに入れましたが、一度着てみて何か違うな、と思ったら処分します。

服以外に処分するモノ
家庭ごみ回収日の前日なので、キッチンの保存容器を少しと、使わなくなったバッグを捨てます。

それから、かわいいので飾っておいた小さなぬいぐるみと、サヨナラすることにしました。
買った時に一目ぼれだったので、なかなか捨てることができなかったのですが、手に取って抱きしめるでもなく、毎日話しかけるでもなく、ただ飾ってあるだけのぬいぐるみ。
なんだか、持っている意味も飾っている意味もないような気がしてきました。
気に入っている分、私の死後に捨てられてしまう可能性を考えると悲しくなるので、私がぬいぐるみに引導を渡すことにしました(大げさ)
まだ、小さいぬいぐるみが数個残っていますが、未練なく手放すことができる気持ちになるまで、もうすこし時間がかかりそうです。

他は、万能ナベ蓋、クリーニング店のハンガー数個、グッズ系数個、マットレス用ボックスシーツを処分。
シーツは、服と一緒にリサイクルボックスへ入れてもいいので、ありがたいです。

マットレス用のボックスシーツ、今日までずっと必要なモノだと思っていたのですが、私がマットレスの上に敷きパッド(夏はパイル地、冬は起毛)を敷いて寝るので、摩擦でシーツがずれるようなのです。
サイズがあってないのかもしれないですが、長い間ずっと毎晩シーツのずれを整えて、朝にはまたずれて、の繰り返しは、正直ストレスでした。
ただ、慣習化してしまうことって恐ろしいですね。
シーツを使うのは当たり前で、毎晩シーツを整えて寝ることは、世の中のベッド派は皆していることだと思い込んでいました。

しかし、今朝起きたときにシーツのずれを見た瞬間、また整えてから夜寝るのかと思ったらうんざりしてしまい、捨てようと決心しました。
よくよく考えたら敷きパッドを重ねているから、シーツがなくても寝るのに支障はないことに気が付き、ボックスシーツは、取替用も含めてすべて処分することにしました。

時短や手抜きの観点からも、シーツのずれを整える行為は無駄です。
なぜ今までそこに気が付かなかったのか、我ながらぼーっとしているな、と思いました(苦笑)


今回、母の不要な服を仕分けているとき、母が発した言葉。

私「洋服ダンスに入っている服も要らないよね」
母「この中は全部要るけどね」
私「要るけど、着ないよね?」
母「着ないね」

要るけど着ないって、なんでしょう?(苦笑)

母の服をスッキリ片付けるには、まだまだ時間がかかりそうです。

台風コロッケをしてしまった

2019-08-14 | 日々の暮らし
台風コロッケ、知っていますか?

台風が近づくと、なぜかスーパーやお惣菜屋でコロッケの売り上げが伸びるそうです。
根拠も理由もなにもなく、本当に偶然台風が接近している前日にコロッケが売れるらしいのです。
スーパーなどに問い合わせた記事では、店主が改めて調べてみると、台風の前日のコロッケ売上が良かったそうです。
店主は、むしろ取材されるまでコロッケの売上には注目していなかった様子(笑)
本当に、偶然コロッケが売れているだけの現象のようです。

明日、この辺りは台風10号の暴風警戒域に入る進路予想となっているので、今日の段階で明日は営業しないと告知している店もあります。
事前に告知していなくても、もしかしたら営業を取りやめるかもしれませんから、今日はとりあえず食料の買い足しへ行ってきました。

そして、コロッケを買ってしまいました(笑)

情報に洗脳された気がします。
コロッケ、いつもより美味しかったです(気のせいです)

コロッケと台風の因果関係は、今のところ科学的根拠はなにもなく、調査もされていないようですが、天気がいい日と悪い日とで、食べたいものが変わることは、たまにあります。
翌日に作る料理を考えていても、天気が悪くなると違う料理が食べたくなり、メニュー変更することもしばしば。
もしかしたら、湿度や気圧の微妙な違いで、身体が欲する栄養が変わってくるのかもしれませんね。

余談ですが、幼いころは肉屋で売っているコロッケを、買い物ついでに母に買ってもらうのが楽しみでした。
あのコロッケ、美味しかった記憶しか残っていないけれど、本当はどうだったのでしょうね(苦笑)
母が作るコロッケとは、違う味わいなのですよね。
おそらく揚げ油が関係していると思うのですが、肉屋のコロッケは大体ラードがブレンドされているので、その差が味の差になっていたかもしれませんね。

最近は、幼いころに食べたようなコロッケは売っていません。
衣に特徴を出したり、少し高級な具を入れていたりして、それぞれのお店で個性が違っていて、おしゃれな感じさえします。
それぞれ美味しそうに見えますし、実際美味しいですが、肉屋の昔ながらのコロッケが無性に食べたくなる時があります。
衣が細かく、揚げ色も黄金色よりもブラウンに近いのですが決して揚げ過ぎではなく、ポテトは形が残らないくらい潰されていますが、肉屋なのでひき肉が多めに入っていて、揚げたてが非常に香ばしい。
『昔ながらのコロッケ』というふれこみのコロッケもたまに見かけますが、私が食べた懐かしいコロッケは、もう絶滅してしまったかもしれません。

本日の買い物は、コロッケ以外にも袋に入った調理パン(消費期限が明後日まで)、ブナシメジ(安かった)、豆乳(買い足し)、バナナ(食べたかった)、豆腐(今夜のおかず)、めんつゆ(なくなったから)などを購入。
明日はきっと、台風接近で頭痛の予感がするので、食事を手抜きできるようにパンを買いました(笑)
バナナも、栄養があるから食事代わりになりますし。
なるべく、明日は火を使わないで食べられるメニューにするつもりです。

さて、台風で外出ができないかもしれないので、明日はいつもより多めに不要品を処分しようと思います。
明後日が家庭ごみの日なので、がんばるぞ!

冷凍枝豆と無洗米

2019-08-13 | 日々の暮らし
最近、冷凍の枝豆にハマっています。

冷凍食品は基本的には買わないのですが、熱を一度加えて冷凍している食材に関しては、たまに購入します。
主に買うのは冷凍野菜。
ゆで時間の短縮目的や、普段あまり使わない野菜を少量使いたいときに買っています。

ここ最近、青果売場の枝豆を買って家で茹でていたのですが、先日水道代の請求が届き使用量が増えていたので、水代を少しでも浮かせようと、冷凍枝豆に変えてみました。
結構おいしいです(笑)
しかも、量も結構入っているので満足できます。

青果売場で買うと、枝から外すところから始めるか、あるいは枝から取った状態の枝豆を洗うところから始めなければいけません。
しかも、ヘタもひとつひとつ取る作業がありますから、労力、洗う水量、茹でる水量を考えると、冷凍の方が総合的に得なのでは?と思いました。

冷凍枝豆は、自然解凍ができるタイプです。
霜を取るために、水にさらすことはありますが、基本的には自然解凍で大丈夫。
生の枝豆は、どうしても茹でるか電子レンジで温めるので、水道代に加えてガス代か電気代がかかります。
しかし、冷凍であれば、買ってきてしばらくほったらかしておけば、食べごろになります。

いままで、あまり枝豆を食べようとは思っていなかったのですが、現在お菓子は週に1回だけにして、食事をしっかり摂るようにしているので、枝豆は小腹が空いたときに、ちょっとだけつまむのに最適。
しかも、お菓子を食べるよりかなりヘルシーです。
夏の間は、ブームが続きそうです。

水道代を浮かせるための食材として、無洗米も買い始めました。
無洗米は、炊く分量の水しか使いませんから、時短と手抜きもできるので私好みです(笑)
これまで、無洗米は高いというイメージだったのですが、近所のスーパーでは普通の米との差がほとんどなかったので(セール品は除く)、しばらく使ってみようと思います。
ちなみに、味も大丈夫ですよ。

節約はしなければいけないのですが、時短や手抜きと引き換えにすることはよくあります。
冷凍野菜、無洗米のほか、顆粒出汁、めんつゆ、缶詰、ビン詰、真空パックの惣菜...
金額や添加物の心配はありますが、ある意味清潔な場所で製造されたモノなので、安心感はあります。
特に夏場は、この時短手抜き食材や惣菜が重宝します。

将来、私一人の生活になったときは、調理は今よりももっと手抜きにしようと考えていますから、もしかしたらガスコンロや鍋が必要なくなる日がくるかもしれませんね(笑)
でも、そういう老後もいいと思っています。
調理にも食事にも、厳格なルールは存在しませんから、自分のやりたいようにしていきます(笑)

親戚付き合い

2019-08-12 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
一昨日、伯父の法事が終わりましたが、昨日は遠方から来てくれた叔母と久しぶりに会った従姉と食事へ行ってきました。
暑さと法事の疲れが出て、帰宅した時はぐったり疲れていてブログの更新もできませんでした。
しかし、久しぶりに食事をしながらいろいろな話ができたので、老後にしておくべきことを少しですが整理できたような気がします。

おひとり様に残された宿題
3人で話す中で出てきたのは、不動産の話。
現在、母と母の兄弟姉妹が共同名義にしている不動産があるのですが、もともとは祖父から譲り受けた不動産です。
その不動産、共同名義にしているからといって何かのメリットがあるわけではありません。
正直に言ってしまうと、利用用途が決まっていて持っている意義がない不動産なので、誰も管理所有をしていたくなく、皆手放したいのです。

以前から、親戚の一部は手放すことで意見は一致していて、そのことについては問題がないのですが、共同名義のため法律上の手続きが複雑なのです。
母は兄弟姉妹が多く、その子どもたち(私のいとこたち)も多いです。
親の代で共同名義にしていたため、既に亡くなっている母の兄弟姉妹(いとこの親たち)の子ども全員と、現在残っている私の母、母の妹(今回食事を共にした叔母)全員が手放すことに同意したという書類を用意する必要があります。
また、共同名義であるため、一度名義を一人に絞ってから手放す必要があるとのこと。
手放し方も、共同名義人になっていない親族へ譲るのか、第3者へ売却するのかで違い、現在はとりあえず共同名義人と共同名義の不動産相続人による、正式な同意を確認するところで話し合いが止まっています。

食事をした3人(私、叔母、いとこ)は、現在おひとり様で子どももいません。
もし、共同名義の不動産処分を後回しにすると、私たちが旅立った後、現有している財産にプラスして共同名義の不動産の処分を、親戚の誰かにしてもらうことになります。
たった1つの不動産の相続手続でも煩雑で面倒なのに、共同名義の不動産など残っていたら、手続きだけで何か月もかかってしまいます。

私たちが残す財産(たとえ数十円でも)を、一番簡単な手続きで処分できるように、生きている今のうちに準備しておかなければならず、その準備のひとつとして不動産の整理と処分は必須なのです。

時代の変化についていけなかった価値観
祖父が子どもたちに不動産を残した理由は、おそらく祖父が生きた時代背景があります。
もともと、農家の跡取りだった祖父は、祖母と結婚する前からある程度の不動産を所有していたのですが、祖父は不動産の売買をする能力が高く戦後にその能力を発揮して、一時期はかなり広大な土地を所有していたこともあるそうです。

その不動産の一部は、母たちが成人するころに売却していましたが、残った不動産は子どもたち(母とその兄弟姉妹)へ残すために所有を続けていました。
不動産を持っていれば、将来子どもたちがお金に困らないだろうと思っていたようです。
売ったり貸したりすれば、収入には困らないはずだから、と。

しかし、現実はそう甘くなく、使用用途に汎用性がない不動産は収入を得るには程遠く、孫の代(私といとこたち)には無用の長物と化してしまいました。
理由はいくつかありますが、一番は日本の現法で定められているため、運用できない点。
使用用途が縛られているため、誰かに格安か無料で貸す、あるいは放置したままにするしか方法がありません。
しかも、売却したとしてもほとんどお金になりませんし、貸すとしても利用できる知識と技術がある人に借りてもらう必要があり、借りてくれる人までも限定されています。

他の理由もあります。
それは、その不動産を使用する技術や知識を持った者が、共同名義人の中にもその相続人にも居なかった点。
いくら土地を持っていても、利用できないならば意味がありません。
ましてや、毎年固定資産税だけは取られてしまう、お金が出ていくだけの不動産など、誰も所有したくありません。

祖父は曾祖父の稼業を継いだので、不動産も孫やひ孫の代まで引き継げるものだと思っていたのでしょう。
また、祖父が継いだ時代は、それで財を増やすことができたのも確かです。
しかし、今は法律が改正され、相続や生前贈与に関する手続きの煩雑さから、財産相続問題に見て見ぬふりをしている人も多いはず。
私たちも、一時期は問題があると思いつつ放置していたこともありました。
若い頃は、自分たちの生活を安定させることに必死で、将来に残る遺産のことなど考える余裕はありませんでした。

歳を重ねてやっと問題に向き合えた
いとこたちの生活はそれぞれで、子どもが独立していたり、孫がいたりする家庭もありますし、まだ子どもが学生で卒業して就職するまで、金銭的にも生活的にも大変な時期だったりもします。
共通しているのは、その子どもたちが将来幸せに暮らせているように、今できることを精一杯してあげたいという思いです。
最近、弔事や法事に参列することも増え、私たちが次の世代へ残すモノのことについて考えるきっかけや機会が増えてきました。

これまでも、祖父母の回忌法要で顔を合わせる機会はいつでもあったのですが、自分たちの将来にとどまらず、その子どもたちの将来も考えて話をできるようになったのは、今の年齢に達したからこそだと思います。
いとこたちそれぞれは、実を言うと財産と呼べるほどのモノは持っていません。
せいぜい、金融機関へ預けた預貯金残と、今住んでいる家程度。
生命保険や学資保険などを除いて、ほとんどが非課税枠に収まる程度の財産しか持っていないと思います。
もっとも、私の知らないところで財を成している可能性はあるかもしれませんが(笑)

子どもたちに残せる有益な財産は少ないかもしれませんが、不利益を被る可能性のある財産は残してはいけないと、個人的には思っています。
私には子どもがいませんが、いとこの子どもたちが私の遺産を相続する可能性があるわけですから、その子たちがいざ私の遺産をどうしたらいいのかと揉めたり悩んだりしないように、自分のことだけはきちんとしておきたいのが本音です。
そのためにも、今私が所有している不要なモノや利益にならないモノは、一日でも早く手放せるようにしたいです。


老後に身軽で居ることは、私の希望でもありますが、後に残される者に余計な荷物(自分にとって価値のない不要品すべて)を背負わせないことも、私の希望です。
いつか迎える最期までに、できる限りのことをしていこうと思うお盆なのでした。

法事に参加して思うこと

2019-08-10 | 終活(モノの整理、心の整理、社会的整理)
伯父の3回忌法要がありました。
西日本のお盆は8月、町中に袈裟姿のお坊さんを見かける季節です。
関東周辺のお盆は7月ですが、お盆の季節になった途端に猛暑や豪雨や台風で天候が荒れるの、やめてほしいですよね。
まあ、気象なので、こちらの希望を聞き入れてもらうことはできませんが(苦笑)

法事に参加してぼんやり考えたこと
私が初めて葬儀、法事に参加したのは、祖母がなくなったときです。
中学生でした。
祖父が、その1年後に亡くなったので、当時は毎年のように葬儀、法事が続きました。

祖父母の家では、毎回自宅で法事をしていたのですが、親戚が多すぎて30人くらいが入れ代わり立ち代わりで参加しているような状態でした。
たまたま広い家でしたからいいのですが、いまどきの家では絶対に実施できない規模の法事です。
30人も来るなら、葬儀社に頼む方がいいですよね。
振舞いの食事も、近親者全員総出で前日から準備していました。
私も、よく手伝いをさせられました。

成人してからは、同僚のお宅や友人のお宅の葬儀へ出席することが増えました。
一時期病院関連施設に勤務していたので(看護師や看護補助員ではありません)、その関係で葬儀に出ることもありました。
現在、また身内の葬儀、法事が増えてきました。
伯父伯母が立て続けに亡くなったり、友人の親が亡くなったりして、葬儀や法事がより身近に、より頻繁になってきました。

毎回、葬儀や法事に参加するとき、お坊さんのお経を聞きながら、いろいろなことを考えます。
考える内容は、実は故人を想うだけではありません。
正直に言いますと、故人との思い出や家族の想いを考えていることもありますが、半分以上は全く別のことを考えています。

今回の法事ですと、家に帰ったら母の昼食の準備をして、薬を飲ませたら予定していた外出をして、その前に汚れ物を洗っておいて...と、一日の段取りを考えたり、お経って何言ってるかわからないけど、リズムがいいから眠くなるよね、など(笑)
他所様の葬儀やお通夜に参列しても、祭壇の細かい部分を見つけて、どうやって作るのかな?とか、お坊さんの袈裟をみては、袈裟ってたしか法要内容で変えるんだったっけ?とか。

読みかけの本のことを考えたり、明日の食事メニューを考えたり、とにかくいろいろなことを考えます。
お経を聞きながらウトウトするときもありますが、なぜか眠気が治まるとスッキリしているのは何故でしょう?(苦笑)

お経を聞く時間
中学生、高校生のときは、お経を聞く時間が苦痛でした。
意味が解らないし、そのおかげでいつお経が終わるのかもわからない。
無限に正座していなければいけないような気がして、気をそらすために参列している人たちを観察したりしていました。
あの人、故人とはどんな関係の人かな?
こっちの人は、見たことあるな。
向こうの人は寝ちゃってるな(笑)

成人してからは、宗教の違いで見たことのない葬儀が新鮮だったり、参列者のフォーマルスーツやワンピースをみては、あれは可愛いな、こちらは無難でどの年齢でも着れそうだなと、心の中でフォーマルスーツの買い替えを検討したり。
身内の法事では、仕事のことやレジャーの予定を考えたり、故人を偲ぶのはほんの数分です(苦笑)

葬儀法要のときに読まれるお経は、故人へ向けた内容であると同時に現世に生きている我々へのメッセージも込められています。
勉強しないと内容は理解できませんし、言葉も文章も独特ですが、そこに込められたメッセージがなんとなく気持ちに入り込んでくるのかもしれません。
いろいろな考えが巡るのと同時に、心や頭の中を整理する時間としてゆっくり過ごすことができるような気がします。
お経を聞くのは、心身をリセットするためでもあるということを、この年齢になってから考えられるようになりました。

そうは言っても法事の準備は大変
心身のリセットと考えることで、お経を聞くことには抵抗がなくなりましたが、法事の準備は正直大変で、日常生活にプラスして法事のことを考えたり時間を割いたりしなければいけません。
宗教によって違うかもしれませんが、段取り、祭壇関係の準備、関係者への連絡、法事参列者へのお礼品、振る舞う食事の準備...かなりの一大イベントです。
きちんとすればするほど、費用もそれなりにかかります。

私の親戚は皆きちんとしているので、今回も法事があったわけですが、我が家に関しては全くきちんとしていません。
年忌法要もしていません。
理由はいろいろあるのですが、我が家はマンションなので、人を呼ぶ法事は会場を借りないとできない状態です。
また、母と私だけですので、準備全般をするのもむずかしい。
そうなると、葬儀社に依頼するという選択になるのですが、費用がかかります。

では、人を呼ばずに私と母だけでお坊さんを呼び、お経だけでも読んでもらったらどうだろうか?と考えることもあるのですが、母の具合が安定しないので、人を招くことそのものが母の精神的負担になっている現状があります。

そして、何よりも私自身が、お経はCDや電子音源ではだめですか?という気持ちでいます。
そういう気持ちがある理由は、おそらく菩提寺を持たないからです。
正確には、ご先祖様の菩提寺はありますが遠方で、現時点での我が家と菩提寺との関係が薄いのです。
檀家と名乗るのも恥ずかしいほど、お寺との関わりがありません。

実を言うと、父と兄の納骨もお経なしで淡々と入れる作業だけを石材店へお願いしました。
お坊さんへはお経の依頼をされているか?と聞かれて、母と私は頼んでいないとあっさり答える始末。
納骨は、単なる作業でしかないような状態でした。

現状とこれから先(私の老後)を考える
このような家ですから、これまで年忌法要は一度もしていません。
これからも、おそらく年忌法要は行いません。

私自身が、故人を偲び思い出すことが大切だと思う反面、法事は面倒くさいイベントだと認識していて、どうしても法事を行う気が起きないし、お坊さんが読経をしなくても、家族の想いは故人へ届くだろうと思っています。
そして何より、自分の子どもも配偶者もいない私には、母を看取った後に父母兄の年忌法要をしていく体力も気力も残ってはいないでしょう。
そもそも、私が旅立った後は誰が法要の段取りをして実行してくれるのか?
そう考えると、特に法要をすること自体は重要ではないような気がしています。

今は、私の勝手で年忌法要をしていませんが、この先に紙媒体のエンディングノートを残す場合は、私の死後は法要を行う必要はない、ということも一言添えておく必要があると思いました。
納骨の際も、納骨する場所(現時点では父が建てたお墓)だけ指定して、お坊さんは呼ばないでください、と書いておきましょう。
私の死後の世話をしてくれる人の時間を、私の法要や納骨で使わせたくはありません。
専門業者へ依頼するにしても、最小限の事だけしてくれるようにしておくつもりです。

そういえば、我が家には分不相応な仏壇があります。
仏壇も、私が生きている間にどうにかしなければいけません。
シビアな話をすると、処分する必要があります。
継ぐ人がいない状態の仏壇を、私の死後に遺品として整理させることは気が引けますから、どうにかして手放します。
もちろん、母が旅立った後で、ですが。


今回、法事を通じて自分がすべき終活の一部分を考えることができて、良かったと思います。
自分の死後は自分で決める、それが当たり前になった今だからこそ、見えてきたことなのでしょうね。
有意義な一日になりました。