いつの時代でも、人の感性はそれぞれで人間の悩みは尽きないものです。 私のブログに触れる機会のある人も、そういった中のほんの一部の人に過ぎません。 そしてその中で、似通った感性の人も数少ないと思うので実際に心を通じ合える人が世界中で見ても、果たして存在するのか推測さえ出来ません。
現実の社会を見ると、金や物に自分を支配され、自由だ権利だと主張してみても、本当の自由や幸せなどと程遠い単なる自己満足、自己暗示の中で生きている人がほとんどです。 物事の価値観でも、自分にとって本当に価値あるものが何なのか? というような事を考えたこともない人も多いようです。
人間が造り上げた地位や名誉、肩書き、資格など私には何の価値も感じられないのです。 私にとっては、人様の為に何かをさせて頂いて、その人から”有難う”の言葉が一番の価値なのです。
私が、大阪の矢嶋女史に拘るのも、この辺に原因があるのだと思うのです。 きっと彼女も診察してさし挙げた、治療してあげた相手からの”有難う”の言葉に価値を見出して奉仕を続けて来られたのだと思います。
数少ない私たちのような感性の人たちにしか理解出来ない寂しい日常ですが、私たちにとっては寂しくも虚しくもありません。何の因果か知りませんが、そうでしか生きられない人間も、この広い世界には居るのです。
家族や、周囲の人たちからも中々、理解してもらえません。 それでも自分の人生です。 己を貫いて生きて悔いは無いのです。
現在、名古屋市や阿久根市で市長と市議会が対立して、混乱しているように見えるのですが、感性の違いで噛み合わない人同士の対立です。
問題は政治というものの考え方の違いです。 本末転倒して議員の職を生活の糧を得る場として考えるか、奉仕の場として考えるかの違いです。 議会活動を奉仕の場と考えれば、そこに過剰な対価を求めるのは無理な話です。 奉仕として受け入れることが可能な人が選択して務めれば良いのであって、一定の条件でなければ務まらない人は辞めれば良いのです。
議会を営利企業と同様で、より大きな対価を求める場とするなら、話は別です。 当然、より良い待遇を追及して、保身に走るのが道理です。 日本では、この職業の本質が曖昧ですから、こういった問題がいつまでも続きます。 曖昧をファジーとかグレーとかで表現して都合良く利用するのが日本社会です。
現実の社会を見ると、金や物に自分を支配され、自由だ権利だと主張してみても、本当の自由や幸せなどと程遠い単なる自己満足、自己暗示の中で生きている人がほとんどです。 物事の価値観でも、自分にとって本当に価値あるものが何なのか? というような事を考えたこともない人も多いようです。
人間が造り上げた地位や名誉、肩書き、資格など私には何の価値も感じられないのです。 私にとっては、人様の為に何かをさせて頂いて、その人から”有難う”の言葉が一番の価値なのです。
私が、大阪の矢嶋女史に拘るのも、この辺に原因があるのだと思うのです。 きっと彼女も診察してさし挙げた、治療してあげた相手からの”有難う”の言葉に価値を見出して奉仕を続けて来られたのだと思います。
数少ない私たちのような感性の人たちにしか理解出来ない寂しい日常ですが、私たちにとっては寂しくも虚しくもありません。何の因果か知りませんが、そうでしか生きられない人間も、この広い世界には居るのです。
家族や、周囲の人たちからも中々、理解してもらえません。 それでも自分の人生です。 己を貫いて生きて悔いは無いのです。
現在、名古屋市や阿久根市で市長と市議会が対立して、混乱しているように見えるのですが、感性の違いで噛み合わない人同士の対立です。
問題は政治というものの考え方の違いです。 本末転倒して議員の職を生活の糧を得る場として考えるか、奉仕の場として考えるかの違いです。 議会活動を奉仕の場と考えれば、そこに過剰な対価を求めるのは無理な話です。 奉仕として受け入れることが可能な人が選択して務めれば良いのであって、一定の条件でなければ務まらない人は辞めれば良いのです。
議会を営利企業と同様で、より大きな対価を求める場とするなら、話は別です。 当然、より良い待遇を追及して、保身に走るのが道理です。 日本では、この職業の本質が曖昧ですから、こういった問題がいつまでも続きます。 曖昧をファジーとかグレーとかで表現して都合良く利用するのが日本社会です。
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