私は、20年前の今日、単身赴任先で、目覚めた。
大きな揺れに起こされた。と云った方が適切であろうか。
そして、家族に、何の情報も把握しないまま、安否確認の為に電話した。
逆に「其方こそ大丈夫?」と言われた。
私の居る場所が、家族の居る場所より震源地に近かったのである。
食堂には仲間が集まって、TVのニュースを観ていた。
やがて、出勤時間となって出社した。
TVを勤務中にも点けるよう指示した。
都市直下の地震で、悲惨なニュースや被害の甚大さが次々と報じられていた。
震災後、1~2日後であったと記憶しているが、会社上部からの指示で「緊急支援」の為の人材を派遣することとなった。
過酷な環境下での作業であると予想されることから、指名するのではなく、希望者を募った。
そして、一人を選任した。
家族(奥さん)にも、事情を説明し了解を得た。
復興支援事業の側面に関わる最初となった。
あれから、20年が経過し、過酷な環境下で施設復興の業務を行った多くの仲間を思い、日記とした。
大きな揺れに起こされた。と云った方が適切であろうか。
そして、家族に、何の情報も把握しないまま、安否確認の為に電話した。
逆に「其方こそ大丈夫?」と言われた。
私の居る場所が、家族の居る場所より震源地に近かったのである。
食堂には仲間が集まって、TVのニュースを観ていた。
やがて、出勤時間となって出社した。
TVを勤務中にも点けるよう指示した。
都市直下の地震で、悲惨なニュースや被害の甚大さが次々と報じられていた。
震災後、1~2日後であったと記憶しているが、会社上部からの指示で「緊急支援」の為の人材を派遣することとなった。
過酷な環境下での作業であると予想されることから、指名するのではなく、希望者を募った。
そして、一人を選任した。
家族(奥さん)にも、事情を説明し了解を得た。
復興支援事業の側面に関わる最初となった。
あれから、20年が経過し、過酷な環境下で施設復興の業務を行った多くの仲間を思い、日記とした。