ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

☆古き記録 その5(梅干かトマトか)

2014年09月27日 | 日記
 「西日本サイクル・チーム・レース」に出場し、心ならずも”棄権”を余儀なくされた時の環境と心情を考えた時”極上”と評した食べ物は何であったのか?
 結論的に言うと、兄の記憶が正しいのではないかと考える様になった。
 父を私に置き換えた時、体力的に自転車走行は無理!と判断し差し伸べられたものが”梅干&トマト”だったとしてどちらを選択するだろうか?
 水分の補給と、空腹を満たすモノを要求しているであろう身体が”梅干”を欲しがるであろうか?
 そして、梅干をみた時の生理現象である”唾液”を出せる身体であっただろうかと考えと、疲労困憊で要求する気力も失せていたと考える方が正しいのではないだろうか?。
 軍配は”トマト”に揚げたいと思う。
 ”トマト”について少し調べてみた。
 日本に入ってきたのは江戸時代とされている。
 当時は、異様に赤い実が食用としては受け入れられなくて”鑑賞用”として「唐柿」と云っていた様である。
 明治になって以降、食用として用いられる様になった。
 そして、昭和に入って品種改良が進んだ、との歴史である。
 父は”トマト”の存在は知っていた。
 しかし、当時は、日常的に食する環境では無かったのではないかと推測する。
 棄権を決断し、自転車から降りた時に、地域の御婦人から受けた”施し”がトマトであった。
 空腹と水分補給を同時に満たす事が出来たのではないだろうか?
 身体の要求条件、そして始めて口にするかの様な感覚から「美味しい(極上の食べ物)」と言わせたものと考える。
 私の幼少期、夏の時期に独特な香りがしていたトマトは、一般的に家庭でも育てていた記憶がある。
 そして、路地モノを取って(悪戯で)食していたことを考えると、急速(20年程で)に栽培技術が確立し、普及したのだろう。
 それにしても、父が食した、昭和6年当時の”トマト”のお味は、現在と比べ、如何なものであっただろうか?
 青臭さ(トマト独特の臭い)の消えた現在にあって、食べ比べてみたいと思うのは、私だけであろうか・・・?
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☆古き記録 その4(昭和6年8月1日付け朝刊)

2014年09月26日 | 日記
 昭和6年(1931年)8月1日付けの「西日本サイクル・チーム・レース」の関する「大阪毎日新聞」朝刊の記事である。
 
三日目・第三区は下関市から広島市まで、208Kmの距離を走破する。
 写真は、スタート地点である下関駅前をスタートする様子である。
 前日、第二区間(熊本市から門司市)の競技終了後、早鞆瀬戸(関門海峡)を渡船で、下関入りを果たしている。
 海峡大橋やトンネルが無かった時代であって、唯一、交通機関を使った移動である。
 残念ながら、下関市から広島市に至る、第三区における父に関する記録はない。
 ゴール出来なかった様である。
 幼き頃に、父から聞いた「広島までは行ったが・・・・リタイアした」と言う記憶は、ゴール直前でのリタイアであった事が判明した。
 そして、父の「途中放棄=棄権」した無念さが、あらためて理解できた気がした。
 出来ることなら、広島の”ゴール”をさせてあげたい気持ちが、込み上げて来る思いである。
 広島のゴールは、広島市「西練兵場」となっている。
 現在の広島市民球場である。
 例え、広島県に入った直後であったとしても、160Km余りを走りきり、残すは40Kmであったことを思うと、残念でならない。
 父の、この時の無念さを、兄が記憶していた。
 炎天下のロード・レースで「精魂尽きて、生命の危険さえも感じ、棄権することを決断(選択)した」と言う事であった。
 この様な異常な精神状態の最中(さなか)「差し伸べられた食べ物が、極上の思いがした」と言うことにつながるのである。
 父の、鹿児島~大阪1000余Kmの壮大な自転車ロードレースへの挑戦は、鹿児島~熊本~門司の区間(記録上)をもって終焉することとなった。
 しかし、この記事を通じ、考えさせられることがある。
 何故・この様なロード・レースが計画され、実行されたのかと言う事である。
 大会規約に「医学的見地で、体力的・食事・飲料・ユニホームに至る検証を実施する」との記述がある。
 しかし、手元にある新聞記事の記録によってロード・レースが実在したこと、そして、父が参加していたと言う事実以外は、知る由もない。
 私にとっては、父から聞かされていた「鹿児島から大阪までの自転車ロード・レース」の歴史的存在と、父が参加していた事実を聴覚だけでなく視覚(新聞記事)からも理解する結果となった。
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☆古き記録 その3(昭和6年7月31日付け朝刊)

2014年09月26日 | 日記
 昭和6年(1931年)7月31日付けの「大阪毎日新聞」朝刊である。
 即ち、レース二日目の様子を報じるものである。
 二日目は、第二区間・熊本市から門司市まで214Kmである。
 父に関する二日目・30日(第二区間・熊本市から門司市まで214Km)の成績(所用時間)は11時間9分29秒である。
 そして、区間一着との時間差は、3時間53分32秒である。
 レース結果(所用時間)から、二日目に至って、父の体力の消耗が激しくなっていると推測できる。
  
 新聞記事は、全国紙のものである。
 写真は、熊本市をスタートして間もない頃と思われ、現在の日田街道・熊本県農業研究センター付近と想像する場所を駆け抜ける一団が捉えられている。
 炎天下のなか、一路、門司市を目指して・・・・!
 この一団の中に、父が居るのである。
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☆古き記録 その2(昭和6年7月30日朝刊)

2014年09月26日 | 日記
 昭和6年(1931年)7月30日付けの「西日本サイクル・チーム・レース」を主催する、大阪毎日新聞の朝刊である。
    
 ・・・地方版・・・   ・・全国紙・・    
 地表版に、父のスタート時点に関する記述が読み解ける。
 即ち、第一組で(前日の7月29日)午前7時にスタートを切ったと云う内容のものである。
 ここで父の第一区・鹿児島から熊本間、217Kmでのレース結果が明らかになっている。
 所要時間は9時間44分12秒と記録されている。
 因みに、一着との差は1時間58分15秒であった。
 なお、父のチーム成績は、第一区間で棄権者が出たことから、チーム成績は無くなっていた。
 この区間における一番の難所は、標高256mの峠で、上り1800m(傾斜角 約11/100)・下り800mとの、コース記録がある。
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☆古き記録 その1(昭和6年7月29日朝刊) 

2014年09月25日 | 日記
 母が残した、父の記録=新聞記事である。
 昭和6年(1932年)大阪毎日新聞社主催で開催された「西日本サイクル・チーム・レース」に、父は出場している。
 父の生前、幾度か聞かされていた、鹿児島から大阪に到る、過酷なロードレースであった聞かされていた。
 記録(記事)として、目にするのは初めてであった。
 昭和6年(1931年)7月29日~8月2日に開催された事が、記録(記事)から判る。
 ゴール地点である大阪市大阪城に向け、鹿児島市をスタートする7月29日付けの、大阪毎日新聞・朝刊である。
 この日、父は第一組として、午前7時にスタートした様である。
 スタートの模様は、先に日記「1000Kmの自転車ロード・レース」・「号砲一発、スタートを切る」の写真である。
 五区間(五日間)・1000余Kmの自転車ロード・レースが開始された。
 全国版 地方版





全国版

地方版
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☆昭和八年の新聞記事

2014年09月24日 | 日記

Photo

  母が残した、父に関する昭和8年(1933年)8月17日付け「大阪毎日新聞」の記事である。

  昭和8年9月9日・10日の両日、甲子園運動場(現在の甲子園球場か?)で開催される「大阪毎日新聞社主催・第三回西日本サ

イクル選手権大会」に関する地方版の記事である。

 この記事に接することで、母が語った”娘(長女)の死”の事実を、言葉でなく活字で知る事となった。

 古い新聞で画像修正を施したが、部分的に困難であった。

 参加選手の紹介で「一昨年(昭和6年)の県代表(注釈:西日本サイクル・チーム・レースの県代表)」を果たした父に関する

記述がある。

 「最近、愛児を失った悲しみまだ去めやらぬ・・・」と解読できる父の心境が記されている。

 母から幾度は聞かされていた”長姉の死”を実感した。

 母の「花火が揚がる中、あの子は逝った!」と言う言葉が今も思い出される。

 地域を挙げての夏祭り、そして最大の催しである花火大会で盛り上がる中での出来事であった、と聞いている。

 我家の裏庭に続く小学校の運動場が、花火大会の会場である。

 華やかな花火の音と光り、そして歓喜溢れる人々の声が交差する。

 言うに云われぬ、対照的な光景ではなかろうか?

 表現不足と卑下するが「(視界のなかに)”天国”と”地獄”が同居している光景」と云える。

 この様に考えると、気丈な母であっても、夏祭りの花火が揚がる度に、思い出されたのであろう。

 私に語った気持ちが理解できる思いがする。

 悲しい気持ちを制御する為には、経年を経ても語らずにはおられなかったのだろう!と思うである。

 因みに、長姉は私より14歳上であって、三歳でその生涯を”終”としている。

 この新聞記事を通じて、改めて父母の(娘を亡くした)思いを理解した思いがした。

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☆久し振りの帰省を果たして・・!

2014年09月23日 | 日記
 先週の土・日曜日に10ヶ月振りとなるであろうか、帰省を果たした。
 犬くん連れである。
 墓参に加え、姉が入院したとの連絡で見舞いが課題であった。
 入院はしているものの元気な姉の様子に接し、安心することが出来た。
 そして、気掛かりであった墓参もすることが出来た。
 土曜日の夜は、単身赴任中の甥(兄の長男)夫婦も交え、賑やかな夕食を頂いた。
 身も心もリフレッシュ出来た。
 この席で、父の鹿児島から大阪に至る自転車競技に関する「新聞記事」の存在について確認した。
 そして、帰宅に際し、母の”収集品”を預かって、整理する役目を仰せつかったのである。
 妹・曰く(日曜日に再会)「一番・暇なモノ(私)が整理したらええ!」と言い。
 姉(義姉)曰く「必要な時に(CDから)パソコンで観たらええ!便利でええなぁ!」と言う始末である。
 私の生前の時代の膨大な資料と、皆の期待を背負って、犬くんと帰宅したのである。
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☆時代を考える Part2

2014年09月23日 | 日記
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 母が残した父の記録記事(新聞記事)に面白いものを見付けた。
 先に日記とした「西日本サイクル・チーム・レース」に関するものである。
 西日本サイクル・チーム・レースに出場する県代表の三名を選別する予選会が、7月21日に開催されている。
 そして、一着所要時間を予想する”ゲーム”を主催者である「大阪毎日新聞社」が実施している。
 「応募総数は4,376票」であり、一着記録と一秒違いの予想をした人が商品である「自転車一台を獲得した」と言う記事の内容である。
 この時代の一般的な給与が約70円。 カレーライスやラーメンが約10銭であった様である。
 そして、自転車一台当たりの価格は、100円程度(70~200円という記録もある)していた様である。
 戦後に、私も関わる事になる、サイクル競技の娯楽性を垣間見ることが出来る。
 因みに、予選会の一着は父である。
 そして、父は鹿児島へと向うことになるのである。
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☆時代を考える

2014年09月23日 | 日記
 父が出場した「西日本サイクル・チーム・レース」の新聞記事から、興味をそそる記事が幾つかある。
 鹿児島市・照国神社でのスタートの様子を報ずる記述(写真の説明文)である。
 「号砲一発、スタートを切る=鹿児島照国神社前」と前文があり、続く文章に興味が湧いた。
 「鹿児島、太刀洗間大毎二十号機羽太飛行士、太刀洗、大阪間日本空輸会社萩野機空輸」とある。
 太刀洗は、福岡県に有った「旧陸軍航空基地」と思われる。
 鹿児島から福岡(太刀洗)まで、大阪毎日新聞社機が空輸し、福岡から大阪までは日本空輸会社機で空輸した事が記述されている。
 この記述の中で「日本空輸会社」というものが明確にならない。
 現在ある「日本空輸株式会社」の沿革には昭和30年創立とあるからである。
 現在ならディジタルカメラで撮影し、ネット経由で何処からでも送信出来る。
 確かに「写真電送機」は昭和天皇の即位時に設置された記録はあり、写真伝送機としては存在していた。
 しかし、当時の伝送路(電電公社の前身である逓信省時代)では品質(画質)の保障が出来なかったのであろう。
 伝送路もさることながら「接続(中継交換)」に接続を重ねなければならないことからも、不可能であったものと推測する。
 29日午前7時のスタートを撮影した「フィルム」を鹿児島から大阪本社までリレーで空輸し、翌日の朝刊で報じている。
 フィルムから写真に焼付け、写真製版化(鉛板に焼付け)して新聞として印刷。
 地方版となれば、輸送しなくてはならないだろう。
 もしも、大阪から四国方面に輸送するとなれば、海路となり、定期旅客船の最終便までという制約も、あるだろう。
 この様に考察すると、新聞社の努力が理解出来る。
 それにしても「フィルムの輸送方法が新聞記事になる時代であったのだ!」と気付かされた。
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☆1000Kmの自転車ロード・レース

2014年09月22日 | 日記
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 昭和6年(1931年)鹿児島市・照国神社をスタートし、大阪市・大阪城をゴールとする1000余Kmに及ぶ自転車競技が開催されている。
 今日の絵日記の絵(写真)は、大阪毎日新聞社主催「西日本サイクル・チーム・レース」の開催を報じる昭和6年7月28日付の(主催者の)新聞記事である。
 そして、7月29日午前7時にスタート地点の鹿児島市・照国神社を「号砲・一発スタートを切る」と報じる新聞記事である。
 大会規約の概要は以下のとおりである。
 ①走行距離は。鹿児島市をスタート、大阪市をゴールとする1000余Km
 ②5区間(鹿児島~熊本~門司~広島~岡山~大阪)とする。
 ③各県三名の選手による「チーム・レース」であること。
 従って、チーム内で棄権者が発生すると、チーム順位は無くなり、個人成績のみとなる。
 参加県は28府県、総勢84名によるロード・レースである。
 夏季の一日と言えども、1日(夕暮れを19時として)12時間中の10時間を未舗装のロードを五日間に渡る”戦い(競技)”である。 過酷な競技であったと想像する。
 記事の中に「数度のパンク修理を経て(区間)ゴールする」などといった記述があることからも過酷さが伝わってくる。
 本題に戻るが、この競技に私の父が参戦している。
 父・26歳と記録されている。 私が生を享ける12年前である。
 私は、幼少期に父から「鹿児島から大阪までの自転車競技があって、広島で心ならずもリタイアした」こと、そして、その時に農家の主婦から提供された「”食べ物”が極上であった」ことを聞かされていた。
 今日に至って、父の思い出話しを証明するが如く、切抜きの新聞記事を眼にすることとなったのである。
 先日、兄と、この話題になったが、父が”極上”と称した食べ物に記憶の違いが生じていた。
 私の記憶は「梅干」であって、兄の記憶は、当時は希少であったと言われる「トマト」である。
 私は、夏の時期に汗をかく事によって身体が求める”塩分”で理に適ったモノと記憶していた。
 しかし、父から話しを聞いた時代の兄との年齢差から、そして、兄の自信の程からも「トマト」かな?とは思うがスッキリとはしていない。
 電話なり、手紙で問合せたい気持ちはあれど、父の居るあの世とやらには届く手立ても無く、今となっては確かめる業はない。
 父が提供を受け”極上”と称した食べ物は未解決ではあるが、幸にも母が残した新聞記事があったことから、父への想い出として日記にしてみた。
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☆想えば涙もろくなったもんだ!

2014年09月18日 | 日記
 2014
 誕生祝いにもらった「海援隊コンサート」チケット
 会場は800人程を収容出来るホール(町民文化会館)である。
 開演前に入場し、指定された”席”に着席した。
 お隣さんは男性で、隣合せの好で「お願いします」と敬意を示し、一礼した。
 無言で組んでいた足を解いた。
 その後、右側に女性の二人組みが着席した。
 二人で三個の団扇を持っていた。
 よくよく見ると「海・援・隊」の文字が書かれている。
 舞台装飾は極めてシンプルで、三人を象徴する様に天井から床まで三本の布が垂らされていた。
 開演となって、拍手のなか三人が登場した。
 ライティングの演出もない。
 武田鉄也のトークから始まった。
 話に引き込まれ、涙が出て来た。
 「ヤバ! 暗くならないかなぁ!」
 コンサートと云う事で服装は”其れなりの格好”で臨んでいた。
 長袖がハンカチ代わりと成っていた。
 休憩無しの二時間もあっと言う間の出来事であった。
 ただ、音響設備に苦言を呈したい。
 言葉が、ハッキリと聞き取れないのである。
 残響時間が長いのではないかと感じさせられた。
 トークの時には感じられないが歌詞は不明朗であった。
 終演を向えて、何故にこれ程まで、涙がでるのだろう?と思った。
 何も悲しくて涙が出るのではない。
 面白・可笑しく聴かせる話を聞いて、何故か涙腺が刺激されるのである。
 加齢によるものだろうか、涙もろくなったものである。
 海援隊が演奏する「想えば遠くへ来たもんだ」になぞらえて今日の日記の表題とした。
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☆メダカ観察記

2014年09月17日 | 日記
 タマゴを抱えた個体が居たので急遽、産卵・孵化所を設えたことは過日、日記(「小さな”生命”」(2014.9.6))にした。
 そして、無事に”三つの命”の誕生を確認した。
 しかし、此処にいたる間に物語が存在する。
 水草に付着する2mm程の”粒状”のタマゴと思われるモノを確認していた。
 日付の経過と伴に変化してきた。
 表現に苦慮する。
 霧が濃い夜間、街灯の裸電球の様である。
 判るかなぁ・・!
 中心核が真っ白で、周辺は徐々に薄れている状態であった。
 日時は経過していくが、以降、変化が観られない。
 孵化に至らず、死んでしまったのではないか。
 それで、白濁したのかと心配になってきた。
 昨日(15日)の朝、前回と同様に、何か動くものが眼にとまった。
 「孵化したか!良かった!」と呟く私が居た。
 そして、虫眼鏡で確認すると、前記のとおり”三つの命”を確認したのである。
 当初、産卵し、孵化に向って準備中と思われたモノが無くなっていたことから、観察は正しかったと思っている。
 我家にメダカが来て、9匹(1+5+3匹)のメダカの子が誕生したことになる。
 親たちと”共同生活”が出来るタイミングを計っているが、当分の間は隔離してやることになるのでしょう。
 産卵・孵化も初めてなら、一緒にさせてやるタイミングも始めての経験となる。
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☆2014年 お誕生会

2014年09月16日 | 日記
 
 娘夫婦が「海援隊コンサート」のチケットを誕生日祝いにプレゼントしてくれた。
 1982年?の解散コンサートの”ライブ・レコード”を有している私としては、複雑な感情で、二ヵ月後の開演日を待った。
 そうなんです。開演日までの二ヶ月間も”誕生祝い”は続いたのです。
 コンサートの当日となった。
 鑑賞席も吟味してもらった様で前列から11席目のほぼ中央で、ステージを一望出来る好ポジションであった。
 海援隊・メンバーの三人がステージに現れた時から”(解散ということは)どうでも良い!”と思った。
 そして、「海援隊・トーク&ライブ2014」と言うとおり、二時間を越えるコンサートでありながら、11曲(アンコールを含む)を聴せる(武田・本人のコメント)ものであった。
 私は、コンサートとして(の構成に)満足している。
 海援隊+”武田節(トーク・話術)”に憧れる私である。
 子供たちよありがとう!
 私の誕生を祝ってくえた事に感謝し、幸多かれと願うことを日記としたい。
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☆我輩は、ふくちゃんゥチ(家)の犬くんである

2014年09月13日 | 日記
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 今日(13日)、私の”絵(写真)”付きの日記を書いてくれました。
 如何したことでしょうか? 気分でも良かったのでしょうか?
 私も、最近、気分も良く、食欲も出てきて、あれも・此れもと食べさせてもらって、体重も”少し太り気味”です。
 「ドッグ・フーズを食べだした!良かった!」と喜んでもらっています。
 ドッグ・フーズが食べられる様になって、先々週、一泊二日の自動車旅行にも行きました。
 今日は、月に一度の通院の日でした。
 少し”血”を採られました。 何時もの事ですが・・・・
 そして”ブーン”と音がする機械(電動バリカン)で耳の毛をカットされた。
 それも、二人の(動物)看護士に体と口を拘束される格好で、です。
 「嫌!やめて!」と云ったけどお構い無しです。
 可愛らしい人で、私は同性で何も思わなかったけど、付添い人は、私をじっと見つめて「辛抱しろ!」と云っている様で、少し腹立たしかったです。
 血液検査結果の説明を受けても、余り嬉しそうで無かった事から、検査結果が、芳しくなかった(前回と同等)のかな!
 診察や治療を受け「やれやれ!」と家に帰って来た。
 そして、病院に行った御褒美だろうか、包み袋に入った”食べ物”を食べさせてもらった。
 私には判らなかったけど、それはクスリだった様です。
 でも飲み込んでしまったものだから、今更「クスリを飲ませて!」と云って抗議してもあとの祭り・・・・
 私の身体を思って飲ませたもの(フィラリア予防)でしょうから、まぁ良いか!
 例年の様に、蚊が居なくなる11月頃まで続くのでしょう。
 美味しく食べられるモノ(クスリ)だから、意に沿わさせて頂きますよ!
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☆名月や・・!

2014年09月09日 | 日記
  
 今日は”中秋の名月”と云う事で、写真撮影にチャレンジしてみた。
 やはりディジタル・カメラは勝負が早い!
 直ぐにその場で確認出来る。
 フィルム・カメラでは味わえない感覚である。
 手持ちの、300mmの望遠レンズと、三脚を準備した。
 ベランダに出て、三脚をセットし準備を整えた。
 レンズの重量に対して三脚の強度に不安がある。
 シャッター・ボタンを押すとカメラが小刻みに揺れるのである。
 リモコン・シャッターを使うことにした。
 何はともあれ2014年度の”中秋の名月”をフォト・アルバムに記録出来た。
 この数年は、中秋の名月=満月では無いらしい。
 細かいことは、差し置いて降雨の日が続いた今年にあって、晴れ間の”観月日”となった。
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