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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く13 その3 「小館館跡です!!」

2015年01月14日 | 大洗巡礼記

 丘裾の細い道を進むと、前方に鹿島臨海鉄道の高架が見えてきました。大館館遺跡の丘においてはトンネルが設けられていますが、こちらの城館遺跡においては丘を掘りきって線路が通されています。


 前方に鹿島臨海鉄道の高架が見えてきた時点で立ち止まり、左の丘上を見上げると、緩やかな谷間地形が望まれました。その一番低い辺りが、城跡へのアクセスルートとされているので、迷わず登ってゆきました。


 すると、出入り口のような空堀状部分の端に突き当たり、奥の左手には空堀に囲まれた高い土塁郭が見えました。ここだな、と思って持参した資料コピーを再確認しました。
 この城館遺跡は、現地の字名である小館(コダテ)にちなんで小館館遺跡と呼ばれます。所在地は大洗町成田町で、南の大館館遺跡とは谷間をはさんで約50メートルほどの間隔で向かい合っています。同一勢力の城館遺跡と推定されます。規模の大きさに応じて大館、小館、というように呼ばれて字名に継承されたものでしょうか。


 空堀の底に降りて、東側を見ました。堀底からは約3メートルの高低差があるようですが、西に独立する土塁郭の方が高いので、元の地形は東へ緩やかに下る尾根筋だったのだろうと推定しました。西の尾根先端部にピークがあり、そこを空堀で囲んで独立させて中心的な郭としたのでしょう。


 空堀をぐるりとたどってみました。尾根を遮断する東側では、上写真のようによく形をとどめています。元の尾根筋の位置でやや高くなるので、空堀自体が地形の影響を受けて高い位置になったり、低い場所へと下ったりしています。
 こうした様相は、この城館の築造時期が古いことをうかがわせます。戦国末期の本格的な城郭になると、空堀や土塁などは地形に関わらず一定の高さを保って堀底面も平坦に整えられる傾向があり、尾根筋を断ち切る場所でもフラットに通されるので、尾根筋部分の空堀が最も深くなります。そうした戦国末期の城郭の特徴があまり見られないので、空堀の状況に関しては古い要素がとどめられているようです。
 その意味でも、調査報告書資料などが南北朝期の城と推定しているのは、示唆的です。しかし、その後は使用されなかったかというと、そこまでは分かりません。城館や城砦は、有事の際に繰り返して利用される傾向が一般的だからです。


 北側へと進むと堀底は緩やかに下り、外周土塁も低くなっていきました。北側にはあまり土塁が見えないので、もともと無かったか、後世に崩されて無くなったかのどちらかだろうと考えました。


 まもなく右手に土塁の切れ目があらわれ、そこから下へ続く細い山道がありました。後世の通り道の一種だろうと考えました。この城館遺跡の大手は北東側にあった可能性が発掘調査結果などから示唆されており、重要な防御空間である空堀内へ直接入れるルートがあったとは考えにくいからです。


 空堀に囲まれる中心の土塁郭へと上がりました。北側の帯郭状部分から約5メートル近い高い切岸の傾斜面を登ってゆくと、上写真のような立派な土塁の上に着きました。高さは1メートル前後で、郭を護る土塁としては高い方に属します。つまり、郭内からは外があまり見えないのです。


 土塁は東側で最も高さを示し、尾根筋を掘り残したうえに土を盛ったと推測されますが、そのほぼ中央に上写真のような切れ目が見えます。後世の破壊跡とする見解もあるようですが、それにしては土塁の高いところにあり、その位置からは空堀を隔てて東側の平坦面がほぼ同じ高さに見えます。丸太などで木橋を架ければ、東の郭と連絡出来ますから、城内連絡用の出入り口であった可能性も否定出来ません。


 郭内から南側の土塁を見ました。御覧のように2メートル近い高さを見せており、外があまり見えません。逆に言えば城外から郭内の様子を覗き見ることも不可能であるわけです。土塁だけでこれだけの遮蔽効果がありますから、土塁の上に柵または板塀などが巡らされていれば、遮蔽効果も防御効果もより高まったことでしょう。


 現状では、その南側土塁のほぼ中央が切れており、そこから下の空堀へと降りる小さな道があります。城郭用語で「折れ」と呼ばれる土塁の屈折部に切れ目があるため、一見して喰い違い土塁の虎口のようにも見えます。これを虎口とみる意見もあるようですが、個人的には違うのではないかと思います。「折れ」部分を後世に破壊して出入り口にしたのではないかと考えています。


 その理由としては、下の空堀も屈曲してクランクしている点が挙げられます。これに合わせて土塁を巡らせると、自然にクランクして「折れ」が出来上がります。この「折れ」によって防御効果も強化されますが、注目すべきは、南側から空堀内へと通じる堀状部分に対して「折れ」部分からの睨みが効いている点です。

 この小館館遺跡のある丘は、私自身も登ったように、地形的には南側が緩やかで登りやすいです。敵がここを攻めるならば、北側や西側の急斜面を無理して登るよりも、南側から迫るのが最も早道です。その動きを空堀内に導いて空堀内に閉じ込めて殲滅する、といった戦法が効果的と思われますが、その導入点の要にあたる堀状部分に対して「折れ」部分から弓矢または鉄砲での横撃を仕掛けることが出来るようになっています。
 これは自然にそうなったのではなく、防御上の意図的な構えであると考えられます。下の空堀のクランクと呼応して防御線を構成し、攻め込んでくる敵の何割かを減殺するという機能を担った「折れ」であったのではないかと考えます。
 その重要な部分に切れ目をつけてしまうと、遮蔽も防御もそこで切れますから、当然敵はそこを狙って攻め上がってきます。弓矢または鉄砲で切れ目に射撃を集中させれば、郭内への牽制効果も期待出来ます。これでは守備側が不利になります。

 以上の点から、この南側土塁の切れ目を後世の破壊跡ではないか、と考えた次第です。本来の虎口が設けられていたとすれば、それは北東部の切れ目の辺りではなかったかと思いますが、それを検証するには時間的余裕がありませんでした。再訪する積りでしたから、その際に北東部土塁の切れ目について考えてみることにしようと決めていました。


 南側土塁の切れ目から道をたどって南側の空堀内に降りました。ちょうどその位置に土橋状の部分がありました。人によってはこれも後世の追加ではないかと考えるかもしれませんが、個人的には堀内障壁の一種とみても良いのではないかと思います。先ほどの「折れ」部分からの防御効果に加え、空堀内での敵の動きを制約する効果が追加されるので、敵への打撃がより期待出来るからです。
 この場合、空堀内の敵は退却するか、東側の空堀へと逃れることになるでしょうが、東側へ進めば前述のように堀内に高さがあるので登る形になります。その段差のところに柵が設けてあったとしたら、敵は完全に袋の鼠になってしまいます。そこへ東西の郭上から挟み撃ちにする、というのが守備側の基本的な戦術となりましょう。
 以上の点をふまえると、南側から空堀内へと通じる堀状部分も遺構の一部で、その内部が一段深い窪地になっていることと合わせ、敵を誘い込んでやっつけるための罠のようなゾーンであったと考えることも可能です。実際にそこまで意図して空堀や土塁の構築を成しているのであれば、この遺跡は城館というよりは城砦であって、戦闘用の施設としての色彩が強く浮かび上がってきます。大館館遺跡を平時の屋敷跡とするならば、小館館遺跡は詰めの城、という位置関係で捉えても良いかと思います。


 南側空堀から、上の土塁の切れ目を見上げました。あまり虎口という雰囲気が感じられませんでしたが、その左右に防御の工夫が凝らされていないからでしょう。どう見ても、後世の破壊跡のように思えます。土塁郭の内部は戦後の食糧難の一時期に畑にされていたそうなので、その際の出入り口として土塁を切ったのではないか、と思います。 (続く)

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