
涸沼駅を10時10分に発車する水戸行きの列車で大洗駅に戻り、榎澤輪業商会さんへ直行してレンタサイクルを借り、そのまま登城遺跡へ向かいました。大貫商店街から旧街道筋に折れて浅間神社の丘へと登るルートをとり、10分余りで現地に着きました。

道路工事現場では、重機やダンプカーが動き回っていました。発掘調査範囲のトレンチもそのままでした。本当に埋め戻されるんだろうか、と疑問に思いました。

仮事務所に挨拶すると、前回の見学時にお世話になった現場監督の方が居られました。熱心に見学されるんですなあ、と言われました。もちろん工事現場への立ち入りも許可していただきました。トレンチを反対側から見たりして、堀切の規模の大きさを改めて実感しました。

前回、左衛門助佐に降臨いただいた空堀跡の農道も、そのままでした。

ですが、城館遺跡の郭群の平坦面の状況は、前回とは変わっていました。重機が地表面を削り均している範囲が広がっていて、計画される道路の幅に近い規模で基盤が構築されつつありました。

報告書ではⅡ郭とされる広い平坦面の、東側は道路部分にあたりますが、西側はそのまま残されるようでした。草刈りがかなり西側まで施されているので、郭内を歩き回ることも可能でした。登城遺跡の概要や郭の配置などについては、以前の記事に載せた二枚の概念図を参照下さい。

草刈りが行われていない所へは、草刈りされた笹竹や枝などが積まれて余計に入りづらい状態になっていました。このまま放置されるようであれば、遺構の残存部に入ることはさらに難しくなるでしょう。

Ⅱ郭と中心のⅠ郭とを分ける四号堀の二重部分の東の開口部を見ました。草刈りされたおかげで郭端の開口部はよく分かりましたが、その奥の二重堀の部分は草薮に包まれたままなので、少しかき分けて覗きこんだりしました。かなり深い堀が発掘で検出されましたが、その後放置されていたために流れ土などで半分ほど埋まってしまっていました。

Ⅰ郭の東端から西を見ました。郭内は平坦ではなく、段差によって幾つかの区画に分かれていたように思えます。奥の茂みの中には、Ⅰ郭の南を区切る土塁の盛り上がりも認められました。

Ⅰ郭東側の南では重機の作業道が作られて地表面が大きく削られていました。その断面を観察すると、地層の重なりが全く認められず、黒土の盛り上げが見られました。つまりⅠ郭の東側は自然の傾斜地に土を盛り上げて平らに均しての造成工事が施されていたことがうかがえました。

Ⅰ郭の南にはⅣ郭、Ⅴ郭とされる平坦地が続きますが、御覧のように完全な平坦地ではなく、東の谷間に向かって段差をともない、東端は切岸状の急傾斜面になっている様子が分かりました。この切岸を防御線としていたことがうかがえます。草刈りが実施されたおかげで、城域の地形がよく見えました。

Ⅳ郭とされる平坦面の東側を進みました。重機の作業道が東端をえぐるように設けられており、それをたどれば城端を楽に移動出来ました。Ⅳ郭は造成がしっかりしているようで、郭面の残存状況も良好でした。

Ⅳ郭の東側よりⅠ郭の方向を振り返りました。郭面の高さはⅠ郭がやや高いですが、これは前述のように盛り上げ造成によるもののようです。これに対してⅣ郭では重機で削られた断面に地層が見えるので、完全な地山を削りならして造成された平坦面であったことが分かりました。したがって、地盤の安定度ではⅣ郭の方が勝っていますが、建物などが配置されたのはⅠ郭の方であったようです。 (続く)