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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

けいおん!の聖地をゆく9 その4 京都修学旅行編 お抹茶とお菓子

2017年07月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 金閣寺は、京都観光の人気ナンバーワンだけあって、大勢の観光客で賑わっていました。その大部分を修学旅行団体と外国人が占め、かつその人数が劇的に増加しているため、ただでさえ狭い境内見学路が大混雑となっていました。折角の鹿苑寺庭園も、ゆっくりと鑑賞していられませんでした。けいおんスポットの撮影もあまり出来なかったので、時期を改めてもう一度来よう、と決めました。


 金閣のすぐ横では、たいていの見学客が立ち止まって撮影をするので、渋滞がさらに酷くなっていました。スマホの自撮り棒が外国人客を中心に流行っているようで目立ちましたが、人込みの中で長い棒を扱っているわけですから、邪魔ですし、うっかりすると接触しかねない危うさがあります。


 舎利殿の棟上に輝く鳳凰です。中国の伝説上の霊鳥で、「鳳」は雄鳥を、「凰」は雌鳥を表します。古くは「朋」と呼ばれ、中国では聖徳をそなえた天子の兆しとして現れると説かれました。
 しかし、日本においては仏教の守護神としてのイメージが先行して採り入れられたため、仏教建築の屋根に配されて堂塔伽藍の守護を担うものとされているケースが多いです。経典においては迦楼羅「かるら」とも訳され、その起源はインド神話に登場する神鳥ガルーダであるとされています。

 平安時代から鎌倉時代にかけての日本において、天竺の造物神と崇められた毘首渇磨「びしゅかつま」(ビシュヴァ・カルマンの和訳)が生んだ奇跡の鳥として鳳凰が挙げられ、崇拝されたため、当時の仏教建築には鳳凰が飾られていたと記録類にありますが、その大部分は失われました。現存する当該時期の建築遺構は、平等院鳳凰堂と銀閣寺舎利殿の二件のみとなっています。


 見学路を北へ回ると、足利義満北山殿の前身であった藤原公経北山第の推定範囲に入ります。藤原公経は承久の乱後の朝廷で活躍した公卿で、正二位大納言、東宮大夫を務め、西園寺家の祖となりました。それで一般的には西園寺公経とも呼ばれますが、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経、関白二条良実の祖父にあたり、四条天皇、後深草天皇、亀山天皇の曾祖父でもあるため、その権勢は大変なものでした。
 その藤原公経が、もとは皇室御料地であった北山野を神祇伯仲資王より譲り受けて、菩提寺の西園寺を建立したのが、現在の鹿苑寺庭園の起源です。

 その西園寺は、足利義満の北山御所建設にともなって移転し、現在は上京区の高徳寺町に境内を構えますが、その本尊阿弥陀如来像は、かつての北山西園寺創建時の本尊像です。他にも幾つかの遺品が知られますが、現地鹿苑寺庭園においては、上図の石仏群などが西園寺の関連遺品ではないかとされています。しかし、本格的な調査が行われていませんので、真相はいまだに明らかになっていません。


 西園寺の跡地は、このように金閣を下に見下ろせる高台に位置し、鹿苑寺庭園よりも眺望がきく好地です。ただ、面積的には狭いので、足利義満の北山御所の建設には適しなかったようです。


 奥には安民沢「あんみんたく」と呼ばれる古池が静かに水を湛えます。西園寺の庭園の園池であったもののようで、現在は池の中島に石造五層塔が祀られています。


 石造五層塔を望遠機能で引き寄せて撮影しました。俗に「白蛇の塚」と呼ばれ、藤原公経以来の西園寺家の鎮守とされています。その史的価値を鑑みれば、国重要文化財クラスの石造遺品でありますが、未指定のままです。京都にはこんな凄い石造遺品も沢山あるので面白いです。


 見学路の終点には売店や茶店などが並びます。大混雑の中にもまれて疲れたので、休憩することにしました。劇中に出てきた場所でもあります。


 このシーンですね。細部がやや異なりますが、全体的にはほぼ一致します。


 で、この縁台に座りました。


 位置や周辺の状況からみて、劇中でHTTの四人が座っていた縁台にあたるとみられます。


 そしてHTTの四人は、劇中でお抹茶とお菓子をいただいています。


 実際に同じものがいただけますので楽しいです。菓子の浮絵と金箔までそのままです。琴吹紬のアドバイス通り、菓子を少しかじって口に含んで味わいつつ、抹茶をゆっくりとすすりました。茶道の基本ですね。 (続く)

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