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ゆるキャン△の聖地を行く4 その2  光前寺の早太郎

2018年06月01日 | ゆるキャン△

 光前寺三門の石段下に進みました。ここで境内地が一段高くなります。本堂を中心とする伽藍の境界であることが地形でも示されています。
 このように中心伽藍域を一段高く造成することで、仏教空間の神聖さを表す考え方は、奈良時代までの古代寺院ではあまり見られず、平安時代からの天台宗および真言宗の拠点寺院に多く示されます。とくに真言宗では「壇場」という呼称を用いて明確に定義づけていましたが、天台宗ではそういった呼称はなく、むしろ根本教理の「一念三千」において概念として位置づけていたようです。

 

 アニメでもほぼ同じアングルで出ていますが、石段が実際より長くなっています。より伽藍境界の高さが強調される結果になっていますが、伽藍域の高さがあればあるほど、聖域としての概念も高められます。
 ただ、アニメ制作陣がそこまで意識していたかは疑問です。単に石段の数を増やしただけでしょう。

 

 左手には、鐘楼が見えます。昭和35年に当山開基千百年を記念して再建されたものです。大梵鐘は1340キロを測ります。

 

 アニメでも登場しています。細部まで忠実に再現されています。木柵のロープなどもちゃんと描写されていますので、写真画像をもとにしてアニメ画を起ち上げているのかもしれません。

 

 三門に至りました。何度見ても見事な組物です。伊那谷を含む南信地域においては最大規模の三間二重門で、入母屋造、杮葺とします。もとは二階建の鐘楼門でありましたが、江戸期の文政元年(1818)に焼失し、嘉永元年(1848)に再建されました。棟札によれば、造営にあたったのは、美濃国中津川の工匠横井和泉藤原栄忠とその一門でありました。

 この三門は、光前寺においては中心伽藍の正門と位置づけられています。同時に、本堂への参道を区切る結界線上の重要な建造物であり、参道から本堂本尊を直接見ることが出来ないようになっています。つまりは視覚的な障壁の役目を持っており、元の建物も現在の建物も二階建てであるのはそのためです。

 

 三門下の寺務所売店は閉まっていました。

 

 アニメでは、ここで志摩リンがおみくじの早太郎を買っていました。

 

 三門をくぐって中心伽藍域に入りますと、中池の石橋を渡りますが、その右手の林間に上図の弁天堂があります。数度の罹災で主要建造物の建て替えを余儀なくされた光前寺において最古の建造物です。
 江戸期の天保十二年(1841)の「寺徳分限帳」の記載により、寛文元年(1661)の造営と分かります。もとは向かい側の十王堂の位置に建てられていましたが、その後に現在地に移されています。

 

 小さい一間四面の建物ながらも造りは正統的手法を示します。柱は円柱とし、正面に格子戸、側回りは落板壁と板戸でまとめています。柱上に組まれた斗栱や木鼻は最低限の形で屋根を支え、全体として室町期の手法が表れています。こういった建築遺構は全国的にも稀で、国の重要文化財に指定されています。

 

 屋根は、もとは杮葺でしたが、昭和38年に銅板葺に改められています。保存措置の上では、仕方のないところでしょう。
 内部に厨子入りの弁財天と十五童子を安置しており、格子戸ごしに拝む事が出来ます。

 

 経蔵です。江戸期の享和二年(1802)に建てられたものです。霊犬早太郎の供養のために旅僧が奉納した大般若経が所蔵されています。

 

 経蔵の前から本堂を見ました。

 本堂は江戸期嘉永四年(1851)の再建になります。おそらく三門とセットで再興事業が行われたもののようで、細部の建築意匠に幾つかの共通項が見られます。内陣には秘仏本尊の不動明王像および八大童子像を祀ります。
 この寺の秘仏本尊は七年に一度の開帳が行われており、最近は一昨年2016年に開かれています。したがって、次の開帳は2023年であることになります。写真を見る限り、本堂と同じ江戸期の作と思われます。

 

 本堂に向かって左側の高台には、三重塔が建ちます。南信地域に現存する唯一の三重塔建築として貴重です。江戸期文化五年(1808)の再建で、諏訪の宮大工、立川二代和四郎冨昌と弟の四郎治らによる造営です。内陣には五智如来像が安置されますが、普段は非公開です。

 

 三重塔の建つ高台の下には、上図の霊犬早太郎の石像があります。

 

 いわゆる狛犬ふうではなく、実際の動物の姿かたちにかたどってあります。ただ、犬にしては吻に段がないので、キツネかオオカミのようにも見えます。
 早太郎に関しては、寺の記録や諸文書において「山犬」と記されます。江戸期までの日本において「山犬」といえば、普通はニホンオオカミのことを指したようで、近畿地方でも奈良県の吉野、和歌山県の熊野などでもニホンオオカミを「山犬」と呼んで畏怖し信仰した歴史があります。

 ニホンオオカミは、いまこそ絶滅して久しいですが、かつての日本においては百獣の王者として君臨し、生態系における頂点に位置した最強の獣でありました。柴犬とかのイヌとは全然違いますので、江戸期までの人々もそのことはよく分かっていて、普通のイヌは「犬」といい、ニホンオオカミは「山犬」と呼んで区別していたそうです。同時に「山犬」とは「山の神」であり、山の自然の守り神という認識がありました。
 いわゆる神社の狛犬も、古くは山犬と同義であったといいますから、そのモデルはニホンオオカミであったと推測されますが、まだ諸説があって史的位置は定まっていません。

 なので、いわゆる早太郎伝説において、老ヒヒを倒した早太郎とは、普通の犬ではなく、ニホンオオカミであった可能性が考えられます。犬ならばヒヒに負けるかもしれませんが、ニホンオオカミならば、獰猛な土佐犬も猛牛も怯んで逃げるほどの不気味な迫力と強さを誇っていましたから、狡猾なヒヒを圧倒し倒しても不思議はありません。
 そして何よりも重要なことは、長野県がかつてはニホンオオカミの生息圏の中心であったとされている点です。中世期の人々が「信濃の早太郎」と呼んだその存在は、ひょっとすると、ニホンオオカミの中でも最強クラスのボスだったのではないか、と思います。

 そしてさらに重要な事は、ニホンオオカミは人間に対しては絶対に危害を加えない、むしろ人間を山の脅威から守ってくれる神のような存在である、という認識を江戸期までの日本人が持っていた、という点です。
 とくに光前寺のような山岳寺院系の拠点においては、背後の山に普通にニホンオオカミが生息していたことは想像に難くなく、むしろ寺の住僧たちがこれを崇めるなどの接点があったのだろう、と個人的には推測しています。
 早太郎伝説において、早太郎は光前寺の和尚さんにヒヒ退治を報告して息絶えます。おそらく、早太郎は中世期の光前寺の裏山に棲んでいたニホンオオカミであり、光前寺の和尚がこれを敬い、食物を与えていたのではないかと推測します。

 奈良県に住んでいた頃に、東吉野村のニホンオオカミ伝説に興味を持って色々調べて、古老に話を聞いて回った事があります。
 ニホンオオカミが自然のなかで生きて行くにあたってどうしても不足するのが塩分であったので、時々人里に塩を求めて降りてくる、それを人間たちも分かっていて、山犬が吠えた夜には戸の外に塩を積んだそうです。そしてニホンオオカミはそれを舐めて山に帰り、後日、イノシシやシカなどを倒したのをそのまま人里に持ってきて、御礼代りに置いて立ち去る、ということだったそうです。

 昭和の初め頃までは、木こりや山師や猟師たちの戒めにも「山犬には刃を向けるな、山犬には逆らうな、山で道に迷ったら、山犬に頼れ」というのがあったそうです。
 なぜかというと、ニホンオオカミの習性として、人間がニホンオオカミの縄張りに入った場合、それを遠巻きに監視し、人間が縄張りの外に出るまでずっと後をついていく、というのがあったそうです。人間が道に迷っていると、一度姿を現したうえで、正しい方向に導いて、縄張りの外に出るまで引導する、というのがニホンオオカミの習性だったそうです。だから、「山で道に迷ったら、山犬に頼れ」ということであって、「送りオオカミ」という言葉の本来の意味もそれであったということです。
 ニホンオオカミは絶対に人間を襲わない、しかし人間が縄張りに入ると邪魔に感じるらしく、出て行くまであれこれと動きます。これを人間の側からみますと、ニホンオオカミに山で出会ったら、まず安全である、道に迷った時にはちゃんと麓まで案内してくれる、という認識になります。後ろにニホンオオカミがついてきていれば、まだ山の中であって、いなくなれば、無事に帰れたということです。そういう関係が、昔は日本人とニホンオオカミとの間に続いていたわけであり、各地に山の神として「山犬」を崇める風習が点在するのも、その歴史によるものだろう、と思います。

 なので、個人的には、「信濃光前寺の早太郎」というのは、当時の信濃国内で最強の老剣士ならぬ老ニホンオオカミだったのだろう、と強く思っておる次第てす。
 ちなみに、現在、東京の国立科学博物館に所蔵されているニホンオオカミの剥製、早太郎の石像によく似ているんですね・・・。 (続く)

 

コメント (1)
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