イチローが球団特別補佐になる。
来季からは選手としてもまた出ることもあるかもしれないがとのことだが、事実上の選手引退だ。
シーズン最多安打、通算安打、記録ずくめの彼の偉業を、今更ここに並べ立てても仕方がない。
日本及びメジャーリーグにて数々の記録を打ち立てたバッティングもフィールドプレーも、幾多の人が目撃し酔いしれ、知っているだろうから。
でもね、これだけは言いたい。
それまで「長島はすごかった」「王のホームランは」と言ってた中年野球ファンは、イチローをなかなか認めなかったのよ。(未だに張本だけは認めてない気がするが)
イチローが本当に認められたのはメジャーリーグに行ってから。まさか日本人野手がメジャーで活躍できるとは思ってなかったからな。
これは野茂が海を渡った時もそうだった。
1995年に彼が近鉄との確執からいきなりメジャーに挑戦し、ロサンゼルス・ドジャースと契約した時、日本のマスコミ、野球関係者、解説者、評論家、いや選手までが否定的だった。
「あのくらいの投手はゴロゴロいる」「通用しませんよ」
などと言ってたけど見事に外れた。トルネード旋風が全米に駆け抜けた時ちょうどロスに行ってて体感したが、すごかったよ。日本人として誇らしかった。
まぁ否定的だった奴ら、特にマスコミ・野球関係者どもは見事な手のひら返ししてたな。恥とかないのかね。
イチローの時もそうだったな。
「あの体では通用しません」「日本みたいにコツコツ安打を打つのは向こうでは受け入れられません」
まぁ好き勝手言ってたな。
大谷がプロになった時も
「投手か打者どちらかにしろ」「どっちつかずになりますね」と。
奴らは前例のないことをされると不安なんだろう。
もしそれが成功されたら、今までの価値観や歴史が全部吹っ飛んじゃうからね。それはスポーツに限らずどの職種でも日本に未だはびこる。いくら日本は変わった、働き方改革だ、男女平等だ、なんて騒いでみたところで、頭の固い年寄り、団体理事とか重鎮、各分野専門家、そしてマスコミ解説者(コメンテーター)、こいつらがいる限りあんまり変わらんよね。
野茂がいなかったら、その後の日本人投手のメジャー移籍はなかったと思う。
伊良部、佐々木、長谷川、石井、木田、松坂、ダルビッシュ、田中。
どんどんいい投手が海を越えメジャーにチャレンジするようになったのは、先駆者野茂のおかげだ。もちろん成功した者もいれば目が出ず戻ってきた者もいる。
そしてイチローがいなかったら、野手のメジャー移籍はここまで出来なかっただろう。
新庄剛志もここに俺は入れたい。
彼は2001年イチローが華々しくシアトル・マリナーズと3年総額1400万ドルで契約を結んだ時、ニューヨック・メッツと契約金30万ドル・年俸20万ドル(当時のメジャー選手最低保障額)プラス出来高払い50万ドルの3年契約を結んだ。
新庄はフリーエージェント(FA)、イチローはポスティングシステムでの移籍だから、正確にはメジャーリーグ初の日本人選手契約は新庄かもしれないよね。
イチローだけが活躍したとしても「彼は日本でも連続首位打者だし最多安打打ってるからなぁ」と評価され、かなりのレベルではないと日本人野手はメジャーには行けないだろうって、ハードルがかなり上がってたと思う。
しかし日本で2割五分くらいしか打たない、ホームランキングでもなければ首位打者でもタイトルホルダーでもない新庄が、メジャーでイキイキと活躍する姿を見て「俺もいけるんじゃないか!?」って、どれほどの選手が勇気付けられたか。
新庄の名言
「記録はイチロー、記憶は新庄」
のとおり、彼はメジャーに溶け込んでたね。もちろん新庄については専門家とか解説者は相変わらず的外れな批判してたが、イチローと新庄が同時にメジャーで活躍したことによって日本の野球も変わっていった。
田口、松井秀喜、城島、福留、松井稼頭央、青木、そして大谷(投手でもあるけどね)。
数々の選手が海を渡り活躍したことにより、日本のプロ野球も変わった。
Jリーグがワールカップや選手の海外移籍によってプレースタイルがどんどん進化したように、日本の野球もどんどん変わっていってるね。
観客の目が違うもの。「そんなプレーじゃ海外では通用しないよ」って。下手な解説者・専門家よりよっぽど厳しい目で見てる。
それまでステテコに瓶ビールでプロ野球中継をテレビ観戦してた親父らの世代から、衛星やケーブルテレビでメジャーの試合を見る時代に変わる。
巨人の試合がつまらなくなって民放ではTV放映されなくなった。(ジャイアンツは自分たちの都合のいいようにルールをコロコロ変えたのも反感を買った)
これは良かったと思う。そのおかげで「野球ってやっぱり球場で見なくっちゃ」って。
今じゃどの球場も結構満員。
阪神が弱かった頃、甲子園球場の年間ボックスシートを持ってる方から「欲しけりゃあげるよ」なんて言われてた時代が嘘みたいに今は取れない。
以前はパリーグの試合なんてガラガラだったのにね。大阪球場とか阪急スタジアムはまだマシだったが、それでも外野はガラガラ。日生球場とか藤井寺なんか悲惨だったね。
それが今じゃチケット取るのも難儀する。
この先駆者がオリックスだと思ってる。
1988年に阪急ブレーブスがオリックス・ブレーブスに変わり、1991年にオリックス・ブルーウェーブになって本拠地が西宮球場から神戸グリーンスタジアム(現ほっともっとスタジアム)に変わった。
お客様でこのオリックスの広報をされてる方がおられて1994年に「ぜひ一度球場に足を運んで」って言われて行ってみたの。
まずここは車で行けるのだ。ほとんどの球場は沿線駅前にあるため車では来るなというノリなのに、ここは辺鄙なとこにあるからね。地下鉄の駅からも行けるけど、ちょっと遠くても高速使えば楽勝。ただし当時は下道で神戸や芦屋の方から上がると絶対迷うくらいだったけど。
そしてこの球場は飯やお茶を飲みながら観戦できる席があったのよ。おっさんのダミ声やラッパの音(当時はOKだった)に煩わされることなく野球が観れる。デートにも最適。車で行ってるとビールは飲めないから残念だけど、それでもVIP気分で野球観戦。シーズン開始ごろの寒い日とか真夏の暑い日でもいいね。
そしてアナウンスも他の球場のように「一番、センター何々」では無いのよ。一塁手はファーストストップとか外野手はアウトフィルダーとか、まるで大リーグのスタジアムに来てるみたいな錯覚。「ファーストバッター、ライトフィルダー、イチロー」ってな感じでね。イチローって登録名は今では当たり前のように定着してるけど、当時は賛否両論あったのよ。オリックスは画期的だったよね。(新庄が日本に戻ってからの登録名をSHINJOにしたのも画期的だが)
実はこの1994年にイチローは1軍に昇格したばっかりだった。
その時買ったイヤーブック(選手名鑑)にイチローはまだ鈴木一朗で載ってて、昨年はウェスタンリーグ(2軍)で首位打者を奪って今年は期待するぞって感じで書かれてた。しかも1ページの半分。
全選手集合写真でも後ろの方で(後列右から4番目)控えめに写ってる。
でもこの1994年イヤーブックは今ではちょっと貴重な資料なの。
「投球フォームなんか変えなくていい」と野茂を育て、「鈴木一朗では平凡すぎるから覚えてもらえるためにイチローにしろ」と登録名を変更した名将・仰木彬監督。
2000年に阪神に移籍する星野宣之、1997年にエンゼルス(~マリナーズ)に移籍する長谷川滋利、
2002年にカージナルス(~カブス)に移籍する田口壮
などが載っている。阪神からこの年に電撃移籍した岡田彰布は締め切りギリギリだったのか、いかにも差し替え掲載しましたって感じで載っている。
不思議なことに将来共にメジャーに行く田口壮と鈴木一朗が選手寮の部屋紹介ページに見開きで紹介されてる。この二人は1991年のドラフト同期だ。
イチローの部屋にはラップのCDが流れ、メジャーリーグの防止やグッズが並んでる。田口がヒロ・ヤマガタの絵を額に入れて飾ってるのに対し、イチローはマリナーズのケン・グリフィーJr.のレプリカユニフォームを飾ってる。イチローはこのころからすでにメジャー視野に入れてたんだね。
この1994年にイチローは爆発。打ちに打ちまくった。俺が見に行った日の試合でも打ってくれた。
69試合連続出塁、年間210本安打、打率.385で首位打者を獲得。でもさ、球場はいつもガラガラだった。
次の年の1995年は阪神大震災で神戸が無茶苦茶になって、そんな時に神戸で野球なんかやてていいのかって感じだったけど、オリックスはがんばろうKOBEをテーマに、寮で被災したイチローも見事に活躍した。
首位打者、打点王、盗塁王、最多安打。しかも本塁打をあと3本打ってりゃ三冠王だったくらいだ。リーグ優勝もした。
神戸復興にイチローの活躍が後押ししたのは紛れも無い事実だ。
残念ながらオリックス・バファローズになって本拠地は大阪ドーム(京セラドーム大阪)になったけど、
あどけない笑顔の1994年の鈴木一朗。
数々の記録を残し、次の段階に進む2018年のイチロー。
ありがとう。
来季からは選手としてもまた出ることもあるかもしれないがとのことだが、事実上の選手引退だ。
シーズン最多安打、通算安打、記録ずくめの彼の偉業を、今更ここに並べ立てても仕方がない。
日本及びメジャーリーグにて数々の記録を打ち立てたバッティングもフィールドプレーも、幾多の人が目撃し酔いしれ、知っているだろうから。
でもね、これだけは言いたい。
それまで「長島はすごかった」「王のホームランは」と言ってた中年野球ファンは、イチローをなかなか認めなかったのよ。(未だに張本だけは認めてない気がするが)
イチローが本当に認められたのはメジャーリーグに行ってから。まさか日本人野手がメジャーで活躍できるとは思ってなかったからな。
これは野茂が海を渡った時もそうだった。
1995年に彼が近鉄との確執からいきなりメジャーに挑戦し、ロサンゼルス・ドジャースと契約した時、日本のマスコミ、野球関係者、解説者、評論家、いや選手までが否定的だった。
「あのくらいの投手はゴロゴロいる」「通用しませんよ」
などと言ってたけど見事に外れた。トルネード旋風が全米に駆け抜けた時ちょうどロスに行ってて体感したが、すごかったよ。日本人として誇らしかった。
まぁ否定的だった奴ら、特にマスコミ・野球関係者どもは見事な手のひら返ししてたな。恥とかないのかね。
イチローの時もそうだったな。
「あの体では通用しません」「日本みたいにコツコツ安打を打つのは向こうでは受け入れられません」
まぁ好き勝手言ってたな。
大谷がプロになった時も
「投手か打者どちらかにしろ」「どっちつかずになりますね」と。
奴らは前例のないことをされると不安なんだろう。
もしそれが成功されたら、今までの価値観や歴史が全部吹っ飛んじゃうからね。それはスポーツに限らずどの職種でも日本に未だはびこる。いくら日本は変わった、働き方改革だ、男女平等だ、なんて騒いでみたところで、頭の固い年寄り、団体理事とか重鎮、各分野専門家、そしてマスコミ解説者(コメンテーター)、こいつらがいる限りあんまり変わらんよね。
野茂がいなかったら、その後の日本人投手のメジャー移籍はなかったと思う。
伊良部、佐々木、長谷川、石井、木田、松坂、ダルビッシュ、田中。
どんどんいい投手が海を越えメジャーにチャレンジするようになったのは、先駆者野茂のおかげだ。もちろん成功した者もいれば目が出ず戻ってきた者もいる。
そしてイチローがいなかったら、野手のメジャー移籍はここまで出来なかっただろう。
新庄剛志もここに俺は入れたい。
彼は2001年イチローが華々しくシアトル・マリナーズと3年総額1400万ドルで契約を結んだ時、ニューヨック・メッツと契約金30万ドル・年俸20万ドル(当時のメジャー選手最低保障額)プラス出来高払い50万ドルの3年契約を結んだ。
新庄はフリーエージェント(FA)、イチローはポスティングシステムでの移籍だから、正確にはメジャーリーグ初の日本人選手契約は新庄かもしれないよね。
イチローだけが活躍したとしても「彼は日本でも連続首位打者だし最多安打打ってるからなぁ」と評価され、かなりのレベルではないと日本人野手はメジャーには行けないだろうって、ハードルがかなり上がってたと思う。
しかし日本で2割五分くらいしか打たない、ホームランキングでもなければ首位打者でもタイトルホルダーでもない新庄が、メジャーでイキイキと活躍する姿を見て「俺もいけるんじゃないか!?」って、どれほどの選手が勇気付けられたか。
新庄の名言
「記録はイチロー、記憶は新庄」
のとおり、彼はメジャーに溶け込んでたね。もちろん新庄については専門家とか解説者は相変わらず的外れな批判してたが、イチローと新庄が同時にメジャーで活躍したことによって日本の野球も変わっていった。
田口、松井秀喜、城島、福留、松井稼頭央、青木、そして大谷(投手でもあるけどね)。
数々の選手が海を渡り活躍したことにより、日本のプロ野球も変わった。
Jリーグがワールカップや選手の海外移籍によってプレースタイルがどんどん進化したように、日本の野球もどんどん変わっていってるね。
観客の目が違うもの。「そんなプレーじゃ海外では通用しないよ」って。下手な解説者・専門家よりよっぽど厳しい目で見てる。
それまでステテコに瓶ビールでプロ野球中継をテレビ観戦してた親父らの世代から、衛星やケーブルテレビでメジャーの試合を見る時代に変わる。
巨人の試合がつまらなくなって民放ではTV放映されなくなった。(ジャイアンツは自分たちの都合のいいようにルールをコロコロ変えたのも反感を買った)
これは良かったと思う。そのおかげで「野球ってやっぱり球場で見なくっちゃ」って。
今じゃどの球場も結構満員。
阪神が弱かった頃、甲子園球場の年間ボックスシートを持ってる方から「欲しけりゃあげるよ」なんて言われてた時代が嘘みたいに今は取れない。
以前はパリーグの試合なんてガラガラだったのにね。大阪球場とか阪急スタジアムはまだマシだったが、それでも外野はガラガラ。日生球場とか藤井寺なんか悲惨だったね。
それが今じゃチケット取るのも難儀する。
この先駆者がオリックスだと思ってる。
1988年に阪急ブレーブスがオリックス・ブレーブスに変わり、1991年にオリックス・ブルーウェーブになって本拠地が西宮球場から神戸グリーンスタジアム(現ほっともっとスタジアム)に変わった。
お客様でこのオリックスの広報をされてる方がおられて1994年に「ぜひ一度球場に足を運んで」って言われて行ってみたの。
まずここは車で行けるのだ。ほとんどの球場は沿線駅前にあるため車では来るなというノリなのに、ここは辺鄙なとこにあるからね。地下鉄の駅からも行けるけど、ちょっと遠くても高速使えば楽勝。ただし当時は下道で神戸や芦屋の方から上がると絶対迷うくらいだったけど。
そしてこの球場は飯やお茶を飲みながら観戦できる席があったのよ。おっさんのダミ声やラッパの音(当時はOKだった)に煩わされることなく野球が観れる。デートにも最適。車で行ってるとビールは飲めないから残念だけど、それでもVIP気分で野球観戦。シーズン開始ごろの寒い日とか真夏の暑い日でもいいね。
そしてアナウンスも他の球場のように「一番、センター何々」では無いのよ。一塁手はファーストストップとか外野手はアウトフィルダーとか、まるで大リーグのスタジアムに来てるみたいな錯覚。「ファーストバッター、ライトフィルダー、イチロー」ってな感じでね。イチローって登録名は今では当たり前のように定着してるけど、当時は賛否両論あったのよ。オリックスは画期的だったよね。(新庄が日本に戻ってからの登録名をSHINJOにしたのも画期的だが)
実はこの1994年にイチローは1軍に昇格したばっかりだった。
その時買ったイヤーブック(選手名鑑)にイチローはまだ鈴木一朗で載ってて、昨年はウェスタンリーグ(2軍)で首位打者を奪って今年は期待するぞって感じで書かれてた。しかも1ページの半分。
全選手集合写真でも後ろの方で(後列右から4番目)控えめに写ってる。
でもこの1994年イヤーブックは今ではちょっと貴重な資料なの。
「投球フォームなんか変えなくていい」と野茂を育て、「鈴木一朗では平凡すぎるから覚えてもらえるためにイチローにしろ」と登録名を変更した名将・仰木彬監督。
2000年に阪神に移籍する星野宣之、1997年にエンゼルス(~マリナーズ)に移籍する長谷川滋利、
2002年にカージナルス(~カブス)に移籍する田口壮
などが載っている。阪神からこの年に電撃移籍した岡田彰布は締め切りギリギリだったのか、いかにも差し替え掲載しましたって感じで載っている。
不思議なことに将来共にメジャーに行く田口壮と鈴木一朗が選手寮の部屋紹介ページに見開きで紹介されてる。この二人は1991年のドラフト同期だ。
イチローの部屋にはラップのCDが流れ、メジャーリーグの防止やグッズが並んでる。田口がヒロ・ヤマガタの絵を額に入れて飾ってるのに対し、イチローはマリナーズのケン・グリフィーJr.のレプリカユニフォームを飾ってる。イチローはこのころからすでにメジャー視野に入れてたんだね。
この1994年にイチローは爆発。打ちに打ちまくった。俺が見に行った日の試合でも打ってくれた。
69試合連続出塁、年間210本安打、打率.385で首位打者を獲得。でもさ、球場はいつもガラガラだった。
次の年の1995年は阪神大震災で神戸が無茶苦茶になって、そんな時に神戸で野球なんかやてていいのかって感じだったけど、オリックスはがんばろうKOBEをテーマに、寮で被災したイチローも見事に活躍した。
首位打者、打点王、盗塁王、最多安打。しかも本塁打をあと3本打ってりゃ三冠王だったくらいだ。リーグ優勝もした。
神戸復興にイチローの活躍が後押ししたのは紛れも無い事実だ。
残念ながらオリックス・バファローズになって本拠地は大阪ドーム(京セラドーム大阪)になったけど、
あどけない笑顔の1994年の鈴木一朗。
数々の記録を残し、次の段階に進む2018年のイチロー。
ありがとう。