徳丸無明のブログ

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ことわざ考

2015-09-18 22:57:17 | 雑文
良くできた文学作品に共通する特徴は何か。この問いに対するもっとも典型的な答えは「多様な解釈を可能とする」というものだ。
Aとも読めるし、Bというふうにも読める。様々な理解、様々な捉え方ができ、読者それぞれ「自分にとってのこの作品はこういうものだ」という、違ったイメージを抱くことができる――。それが良い文学の条件だ、と。
精神科医の名越康文が『毎日トクしている人の秘密』の中で、ことわざの「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に触れ、「一般的には年をとって成熟することにより、人に頭を下げることを覚える、という意味に取られると思うが、自分の解釈は少し違う。自分の実感としては、年を重ねるごとにいろんな人の世話になることが増えていき、心からありがたいという気持ちで頭を下げるようになった」という意味のことを書いていた。
また、お笑い芸人の千原ジュニアが、同じことわざについて、「偉くなればなるほど周囲に目をつけられるようになるから、狙われないように頭を低くしろ、という意味だと思っていた」と発言していた。
良くできた文学のみならず、良くできたことわざというのもまた、多様な読みを許すのかもしれない。(ことわざだって文学の内だ、と反論される方もおられるかもしれないが)
小生も、ことわざの本来の意味とは違う解釈に挑戦してみたい。
取り上げるのはこれ。「親の言葉と茄子の花には千にひとつの無駄もない」
あまりメジャーではなく、しかもツッコミどころの多いこのことわざ。
まず槍玉に挙がるのは「親の言葉」だろう。「親の言うことなんてムダだらけ。ムダというよりむしろ有害」とか「昔の日本人は立派だったから無駄口を叩く大人はいなかったが、それに比べて現代は…」といった意見が予想される。小生自身も、親の話がムダだらけだというのは納得のいくところである。
では「茄子の花」はどうか。茄子の花に無駄がない、とはつまり、すべて丸々とした実をならす、という意味になるだろうが、実際は「ムダ花」、つまり実をつけることなくポロポロ落ちる花がたくさんあるという。
では、このことわざは「親の言葉」も「茄子の花」も両方間違っている、出来損ないのことわざということになるのだろうか。そう断言して片付けるのは簡単だが、もう少し考えてみたい。
両方とも、本当にムダなのだろうか。
「親の言葉」に関してだが、親からムダなことを言われた子供はどうなるか。「自分は絶対こんなバカげたことを言う大人にはなるまい」と誓うだろう。すると親の言葉は反面教師となっているわけで、その働きがある以上、まったくのムダとは言えない。
ちなみに、昔の日本人は偉かった、式思考法だが、歴史を紐解けば、親が子供を――やむを得ずではなく、積極的な理由で――殺害したり、育児放棄したりといった事例はいくらでも出てくるので、そんな保守親父の繰り言めいた言い分には耳を貸す気にはなれない。
次に、茄子の花も検討してみる。ムダ花というのも、ただ落下したあと消えてなくなるわけではなく、時間をかけて土に還り、新たな養分となるのだから、まったくのムダとは言えない。
つまりどちらも「厳密にはムダとは言えない」ことになるが、そんな弱々しい結論は面白みに欠ける。
思い切って、論理を飛躍させてみよう。
親の言葉も茄子の花も、どちらもムダだらけであるとわかりきった上で、敢えて作られたことわざだとしたら、どうか。意図的に間違った内容のことわざとして生み出されたものだとしたら?
んなアホな、なんでそんな意味のないことするんだ、それこそムダじゃないか、と思われるだろうか。
しかし、あながちそうとも言えない。
世の中には、様々な常識があるが、間違ったことが常識になることがある。誤ったことを人々が盲信し、それに沿って社会を整備し、誰も逆らえないまま明後日に突き進む。気が付いてみると大事なものを失い、自分達も社会もボロボロになって「俺たちゃ何をしてたんだ」と呟く。
規模の大なり小なり、幾度となくくり返されてきた事だ。
それに対する教訓としてあるとしたらどうだろう。
間違った内容を含んだ言葉が、ことわざとして登録される。つまり、事実でないことが常識になる、ということだ。それは「このようにして、世の中は間違いが常識になることがありますよ、気をつけてくださいね」というメッセージを放つだろう。言葉そのものには意味がない。しかし、言葉の表面でなく、裏を読むことによって、立ち上がってくるメッセージ。言葉が、自分自身を否定することによって成立するメッセージ。
このメッセージこそが、このことわざの真の教えなのではないだろうか。
ちなみに、言葉の裏に隠されたメッセージのことをメタ・メッセージというが、これを織り込むことによって、「言葉には表面だけでなく、裏の意味があったりするので、それを読めるようにならねばならない」という教訓をも含んでいることになる。
そう考えると、ただの出来損ないと切って捨てるには惜しい、極めて高度なひねりを加えて作られたことわざだと言えるのではないだろうか。


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私的デジャヴ考

2015-09-18 15:39:05 | 雑文
デジャヴ――既視感――には、科学的合理的説明がなされているようだ。
曰く、過去に経験した出来事と重なる条件――人物、場所、状況、味、匂い、心理状態等――が、いくつか揃った場面において、過去の類似の記憶が蘇えり、「なんか前にこんな事があった」となる…と。
たしかに、その説明に当てはまる事例がほとんどではないかと思う。
しかし、小生はそれで全てカタがつくとは思えない。デジャヴとは、言い換えれば「既に体験していた現在」のことだが、そのように、元から記憶が存在していたことによるデジャヴがある、と思う。
というのも、小生自身デジャヴ体験が何度もあり、それは上の説明とはかけ離れたものであるからだ。
一番強烈だった出来事を紹介する。
多分、小学1,2年の頃だったと思うが、家族で山登りに行った。目的の山に到着する前だったか、山を登っている途中であったか、公衆トイレがあり、そこに立ち寄った。中に入り、小便器や個室が見渡せる位置に立った時、デジャヴが起こった。
その瞬間、「あ、これ前に見たことがある」と思ったのだが、そう思いながら、蘇った記憶の中で「あ、これ前に見たことがある」と思っていたことを思い出したのである。
おわかり頂けるだろうか。
文章でうまく表現できている自信がないのだが、デジャヴで蘇った記憶と、デジャヴになった瞬間の心の中の声が、まるでふたつのスピーカーから同時に音が出てくるように、ピタリと一致したのである。
呆然となった。
その日の前後の記憶はまったく残っていないが、その瞬間のことだけは忘れることができない。
科学的合理的説明だと、なんとなく「同じことが前にあった気がする」と感じる、ということだったが、本当のデジャヴはそんなにぼんやりしたものではない。映画のフィルムの、同じコマ同士がピッタリ重なる感じ。しかもそのフィルムはペラペラでなく、立体的なものだ。重なるのは視覚画像だけではない。その場を構成する原子、分子、電子、素粒子、クオーク、それらすべての位置関係までがひとつ残らずピタリと一致している…。そんな感じなのである。
すべてが一致している。実際「カチッ」と重なる音が聞こえるくらいだ。
小生の文章能力はさほど高くないので、うまく伝えきれてないのではないかと思う。しかし、デジャヴというものは、「なんとなく」「ぼんやりと」した感じで起こるのではなく、過去に経験し得たはずもない出来事が、明瞭な記憶として蘇ってくるものだ、ということを強調したい。
雑誌を立ち読みしている時にもデジャヴは起こる。雑誌は発刊されたばかりの物である。活字を目で追いながら、「あ、見たことがある」となる。「ああ~デジャヴだデジャヴだ」と思いながらもなお読み続ける。その感覚は数秒続く。で、その時間帯が過ぎ去ってしまうと、同じ箇所を何度読み返しても、同じ感覚は味わえない。その文章の記憶ではなく、その文章を最初に読んだ時の記憶がよみがえっているのである。
このような主張をすると、非科学的思考を忌み嫌う人々から冷笑を浴びせられそうである。だが、小生はこれも科学的に説明可能であると思っている。私見を述べる。
唐突だが、話は宇宙に飛ぶ。
宇宙というのは、ビッグバン以来膨張し続けている。その誕生から現在まで、止まることなくずっと膨張してきた。だが、ひょっとしたらたまに収縮しているかもしれない、という。人間の今の科学技術では証明することは不可能なのだが、理論的には膨張の反動で収縮する事がありえるらしい。で、しばらく収縮するとまた膨張に転じて元に戻る、と。詳しいことはよく知らないのだが、可能性としてそのようなことが起こり得るらしい。
実際にそんな現象が起こったとして、その時宇宙の内部では何が起こっているか、というと、時間が逆流しているらしい。人々は後ろ向きに歩き、食べ物を口から出し、ウンコは肛門に吸い込まれていく…。
そうすると、当然その過程で、記憶もまた脳内から失われてゆくだろう。だが、もし何らかの原因で、その記憶の一部が消えずに残っていたとしたら。本来消えてなくなるべき記憶が、エラーのような形で残存されたままになっていたとしたらどうだろうか。
収縮が止み、再び膨張に転じ、時間が正常に流れ出した時、既に一度起こっていた出来事を、そっくりそのままなぞる形で未来に向かいだした時、脳内に残された記憶の時間帯に至ったその瞬間、デジャヴが起こるのではないだろうか。
もっともらしく聞こえるかもしれないが、正直に言うと、この推論には弱点がある。
ひとつは、「もし何らかの原因で、記憶の一部が消えずに残っていたとしたら」と書いたが、「何らかの原因ってなんだよ」と訊かれたら答えようがない、という点。
もうひとつは、宇宙というのは非常にスケールが大きいもので、何億年という単位で現象が生起する。だから、仮に収縮による時間の逆流が起こったとして、それは人の一生を軽く超える尺度で起こっているはずで、だとすると、記憶が脳に残るエラーがあったとしても、その個体が生まれる遥か以前まで――ヘタすれば、地球が誕生する前まで――時間は遡ってしまう訳で、記憶を留めた脳そのものが一度消え去ってしまうことになる。
なので、充分に説得力を持たせることができない。
物理や量子力学の専門家であれば、もっと精緻な理論を組み立てらるのだろうが。
ああ、そういえば記憶というのは、映画のフィルムのように物理的なものではないんだっけ(福岡伸一『動的平衡』)。
でも、もっと研磨すれば、この理論はけっこう使えるのではないか、という気がする。
ひとしなみに、オカルトと呼ばれる領域に押しやられていた様々な事物――たとえば虫の知らせとか、オーパーツとか――を解き明かすことが出来るのではないか、と思う。


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情報を食べる、情報を聴く

2015-09-18 13:25:54 | 雑文
糸井重里対談集『話せばわかるか』を読んでいたら、次の箇所に出くわした。対談相手は経済人類学者の栗本慎一郎、話題はセックスについてである。


糸井 全く自然の状態にほっておくと、人間っていうのは、どのくらいしたいものなんでしょうね。
(中略)
栗本 精神的な満足度がすごく大きいんじゃないですかね。普通、週3回だといわれると週2回だったものがもう1回がんばって3回にもちこむとか……。そういう情報がなかったらかなり少ないんじゃないかと思いますヨ。
糸井 週2回なんていうのは、メチャメチャ多いんじゃないかな。
栗本 未開社会なんかじゃ、そんなに多くありませんね。


……え、そうなの?
逆だと思っていた。
原始社会は娯楽が少ないので、楽しみといったら食うこととヤルことくらい。電気がないので夜が長く、日が暮れたらその行為に及ぶ……。ということだと思っていた。
しかし栗本は反対の主張をしている。この栗本の説が正しいのかどうか、小生にはよくわからない。わからないが、他の事がわかった。
現代日本を生きる我々が享受しているのは、純粋な「行為としてのセックス」よりも、「情報としてのセックス」の方が割合が高い、という事が。
メディアが高度に発展した社会においては、セックスに関する情報もいたる所で目にすることができる。その場では、より過激で、より過剰な話が選択的に取り交わされる。ごく普通の、ありふれた性体験は退屈なので、取り上げられることはない(逆に、セックスレスや不能などの話は、ままある)。
そのような情報に日夜接していると、そういう過剰な性生活が普通だと思い込む人が出てくる。自分でもそれを実践しようとする人もいるだろう。すると、過剰な性生活を送る人の数が増え、その中からさらに過激な性体験がメディアに紹介される……。
といったふうに、メディアが性活動に拍車をかけている、という面があるのではないか。もとより性衝動というのは、肉体の自然な欲求として沸き起こるもののみならず、情報に媒介されることにより掻き立てられるものでもある(まったくその気はなかったのに、美女を見たことで火が付いた、といったように)。
おそらく栗本の仮説は、そのような高津情報化社会の側面を要素として含んでいるのだろう。
猥談から離れるが、小生はチョコレートやスナック菓子を食べる時、そのパッケージを眺めながら食べる。パッケージの写真やイラスト、原材料名、「○○産の○○を使って○○に焼き上げました…」的な商品説明文。なんか、それらを見ながら食べたほうが美味しく感じる気がしていたのだが、要するにそれは、視覚情報、文字情報も含めて味わっていた、という事だったのだ。
同じように、音楽を聴く時も、CDのジャケットを観ながら聴く。これも、ジャケットの情報と合わせて聴いていたわけだ。
味は味覚だけで成立するわけではなく、音も聴覚だけでは成立しない(そういえば、目を瞑って食べると、味がほとんど分からなくなるらしい)。
もちろん他の感覚にも同じことが言えるだろう。
情報によって感覚は肥大している。感覚の前に、まず情報ありき、ということだろうか。


オススメ関連本・真木悠介『自我の起源――愛とエゴイズムの動物社会学』岩波現代文庫