ワイドショーで、とある駅前のロータリーに、ムクドリの大群が住み着くようになった、という話題を取り上げていた。
人工的な駅前の環境が快適であるらしいその鳥群は、鳴き声が大変やかましく、フンの被害も凄まじいと。
なので、鳥を追っ払うために、ロータリーにスピーカーを取り付け、そこから鳥が嫌がる音を、定期的に流すようにした。ムクドリは確かに音を嫌がっているが、対策はまだ執られたばかりで、完全にいなくなるかどうかは、推移を見守らなければならない、と結ばれていた。
これを観て、小生は思った。
「仮に追い出せたとしてもさ、鳥は消えてなくなるわけじゃないでしょ。別の街に移り住むだけだよね。だとするとさ、鳴き声やフンの被害を、ヨソに押し付けてるだけなんじゃないの」
なんだか、この、迷惑を他人に押し付けて知らんぷりの、自分さえよければそれでいい式の振る舞いを、至る所で見る気がする。
例えば、猫よけのペットボトル。
これは実際には効き目はないらしいが、自分の土地にフンをされないように設置するものだ。つまり、お隣りさんがいくらフン害に遭おうが、自分の庭さえ綺麗ならばそれでいい、ということだ。そして、これはご近所さんだけでなく、猫に対しても問題がある。
自分の土地、自分の土地と言うが、そもそも土地の所有制度などは、人間が勝手に作った決めごとでしかなく、他の生物には知ったこっちゃないことだ。言うまでもなく、猫には土地を買う権利も能力もないわけで、人間側が土地の所有権をひたすら振りかざしていれば、猫は居場所がなくなってしまう。
通常、生物が自分の生活のために作るのは、巣ぐらいのものである。しかし、人間はそれにとどまらず、道を塗り固め、海岸を壁で覆い、川を堰き止め、森林を切り開き、自分達の快適な暮らしのために、環境を好き勝手作り変えてきた。それも、生活のため、命を守るためのみならず、娯楽のために作り変えている所も多分にある。
その余波を受けて、生物達は、生活環境を変化せざるを得なかったし、死に絶えてしまった者もたくさんいる。
他の生物が人間にかける迷惑よりも、人間が他の生物にかけている迷惑の方が、はるかに多いのである。
フンぐらい我慢しろ、と言いたい。
鳥のフンは、乾燥すればアレルギーの原因になるらしいが、そんなものは町内会なり自治体なりが掃除すればいいことだ。猫のフンだって、片付けるのにそんな手間はかからない。
この他にも、携帯電話の電波塔を、家の近所に設置するのに反対したり、元受刑者の更生・授産施設の開設場所が、小学校の近くなので反対している人達なんかがいた。
この、反対している人達は、適切な設置場所は他にあるはずであり、それを考慮するのは担当者であって、自分達ではない、と考えており、「反対するのは当然の権利で、それを避難される筋合いはない」と反論されるかもしれない。
でも、自分達の所になければそれでいい、という気持ちが、根っこにあることに変わりはなないと思う。
電波塔が無事移転したとして、その移動先が山の中ではなく、他の住宅街だったとして、反対していた人は、そのことを気に止めるだろうか。
更生施設にも同じ事が言える。そもそも、その種の施設というのは、社会復帰を望む人達が集うのであり、再び犯罪を犯すことは、将来を棒に振ることなわけで、いくら元受刑者だからといって、そう軽々に再犯を犯すものではないだろう。それに、釈放された元受刑者というのは、当然自由の身なわけで、自分の足でどこにでも行けるのであり、この手の施設があろうがなかろうが、当該の小学校の前をいくらでも歩くことができるのだ。施設がなければ元受刑者と関わりを持たずに済む、というものではない。
このような問題をつらつら考えるに、やっぱり一番大事なのは、人様を非難するよりも、自己点検を欠かさないことだと結論せざるを得ない。
自分自身はどうだろうか。
自分さえよければそれでいい、という思考に、自らもまた陥ってはいないだろうか。
他人を批判することで、より良き社会の実現を目指そうとする人がいる。
しかし、小生はそれよりも、自省的であろうとするほうが、より有益だと考えるのである。
オススメ関連本・鷲田清一、内田樹『大人のいない国』文春文庫
人工的な駅前の環境が快適であるらしいその鳥群は、鳴き声が大変やかましく、フンの被害も凄まじいと。
なので、鳥を追っ払うために、ロータリーにスピーカーを取り付け、そこから鳥が嫌がる音を、定期的に流すようにした。ムクドリは確かに音を嫌がっているが、対策はまだ執られたばかりで、完全にいなくなるかどうかは、推移を見守らなければならない、と結ばれていた。
これを観て、小生は思った。
「仮に追い出せたとしてもさ、鳥は消えてなくなるわけじゃないでしょ。別の街に移り住むだけだよね。だとするとさ、鳴き声やフンの被害を、ヨソに押し付けてるだけなんじゃないの」
なんだか、この、迷惑を他人に押し付けて知らんぷりの、自分さえよければそれでいい式の振る舞いを、至る所で見る気がする。
例えば、猫よけのペットボトル。
これは実際には効き目はないらしいが、自分の土地にフンをされないように設置するものだ。つまり、お隣りさんがいくらフン害に遭おうが、自分の庭さえ綺麗ならばそれでいい、ということだ。そして、これはご近所さんだけでなく、猫に対しても問題がある。
自分の土地、自分の土地と言うが、そもそも土地の所有制度などは、人間が勝手に作った決めごとでしかなく、他の生物には知ったこっちゃないことだ。言うまでもなく、猫には土地を買う権利も能力もないわけで、人間側が土地の所有権をひたすら振りかざしていれば、猫は居場所がなくなってしまう。
通常、生物が自分の生活のために作るのは、巣ぐらいのものである。しかし、人間はそれにとどまらず、道を塗り固め、海岸を壁で覆い、川を堰き止め、森林を切り開き、自分達の快適な暮らしのために、環境を好き勝手作り変えてきた。それも、生活のため、命を守るためのみならず、娯楽のために作り変えている所も多分にある。
その余波を受けて、生物達は、生活環境を変化せざるを得なかったし、死に絶えてしまった者もたくさんいる。
他の生物が人間にかける迷惑よりも、人間が他の生物にかけている迷惑の方が、はるかに多いのである。
フンぐらい我慢しろ、と言いたい。
鳥のフンは、乾燥すればアレルギーの原因になるらしいが、そんなものは町内会なり自治体なりが掃除すればいいことだ。猫のフンだって、片付けるのにそんな手間はかからない。
この他にも、携帯電話の電波塔を、家の近所に設置するのに反対したり、元受刑者の更生・授産施設の開設場所が、小学校の近くなので反対している人達なんかがいた。
この、反対している人達は、適切な設置場所は他にあるはずであり、それを考慮するのは担当者であって、自分達ではない、と考えており、「反対するのは当然の権利で、それを避難される筋合いはない」と反論されるかもしれない。
でも、自分達の所になければそれでいい、という気持ちが、根っこにあることに変わりはなないと思う。
電波塔が無事移転したとして、その移動先が山の中ではなく、他の住宅街だったとして、反対していた人は、そのことを気に止めるだろうか。
更生施設にも同じ事が言える。そもそも、その種の施設というのは、社会復帰を望む人達が集うのであり、再び犯罪を犯すことは、将来を棒に振ることなわけで、いくら元受刑者だからといって、そう軽々に再犯を犯すものではないだろう。それに、釈放された元受刑者というのは、当然自由の身なわけで、自分の足でどこにでも行けるのであり、この手の施設があろうがなかろうが、当該の小学校の前をいくらでも歩くことができるのだ。施設がなければ元受刑者と関わりを持たずに済む、というものではない。
このような問題をつらつら考えるに、やっぱり一番大事なのは、人様を非難するよりも、自己点検を欠かさないことだと結論せざるを得ない。
自分自身はどうだろうか。
自分さえよければそれでいい、という思考に、自らもまた陥ってはいないだろうか。
他人を批判することで、より良き社会の実現を目指そうとする人がいる。
しかし、小生はそれよりも、自省的であろうとするほうが、より有益だと考えるのである。
オススメ関連本・鷲田清一、内田樹『大人のいない国』文春文庫