ある作家が、テレビ番組に出演した時のことを、著作に書いていた。
芸能人の人達は、とにかく受け答えが素早くて、誰かが何かを言うと、それに対してすぐにうまいコメントを付ける。その作家は、自分も何か気の利いたことを言おうとするのだが、思いついた頃には、既に話題が次に移ってしまっている。テレビで活躍するには、条件反射のようにコメントを考えないといけない、ということであった。
いわゆる、「テレビ的ノリ」というのがある。我々は、日頃から視聴を通じて、「テレビ的ノリ」に触れている。それが内面化されれば、日常生活にも「テレビ的ノリ」が反映され、コミュニケーションは、どんどんテレビ化していくだろう。特にお笑い芸人が活躍している現代において、「ボケとツッコミ」「オチをつける」といった話法は、常識に登録されつつある。
そして、その「テレビ的ノリ」のみならず、資本主義社会の要請として、「スピード」は特に重要視される。気の利いたことを素早く言う、というのは、現代社会において、皆等し並に求められていることである。
この「素早い受け答え」というのは、普通、「素早く考える」ことと同義だと認識されている。
しかし、「考える」とはどういうことであろうか。「条件反射的な受け答え」は、本当に「考える」ことによってもたらされているのか。
今回は、「考える」について考えてみる。
コラムニストの小田嶋隆は、マスコミから電話でインタビューを受けた時に、咄嗟にうまく答えることができない、と吐露している。
ある雑誌媒体の電話取材で、インターネットによる選挙運動の解禁について意見を求められた。
うまく答えることができなかった。
(中略)
電話取材には、コツというほどでもないのだが、一定の解法のようなものがある。なんというのか、記者が要約しやすいように、箇条書きのつもりで話した方が良いということだ。きょうびは、一事が万事そういうことになっている。
「5秒でまとめられない意見ならはじめから何も言うな」
と、地上波のテレビ番組あたりは、おおよそそれぐらいな力加減で作られている。
ひるがえって、私が受話器に向かってしゃべった10分間ほどのお話は、どう要約しても、原稿用紙3枚以下にはまとまらない。私自身、自分が何を話しているのか、わからなくなっていた。
(小田嶋隆『ポエムに万歳!』新潮社)
この、文筆業を営む者にとって、致命的と取られかねない事実は、注目に値する。
ここに、小田嶋の対極にある人物を仮構してみよう。
年の頃なら5、60代の男性。国の行く末を日々憂いており、このままでは日出ずる国はダメになってしまう、と考えている。どんな社会問題にも一家言持っており、中国、韓国にはナメられないように、強硬な外交をすべきで、日米安保は、今のところは受容せざるを得ないが、将来は軍事的に独立するのが望ましく、若者、特に男が軟弱になってきているので、教育勅語を教えたり、必要とあらば体罰を復活させ、更には兵役の義務を課すこともやむなしと主張している。そんな保守おじさん。
そのおじさんにマスコミが、「インターネットによる選挙運動をどう思いますか」と質問したとする。するとおじさんは「年寄りを置いてけぼりにする制度は認めん」と、間髪入れずに答えてくれるだろう。
マスコミは大喜びだ。誌面を飾るのはこの保守おじさんの声で、当然ながら小田嶋のそれは出てこない。
さてしかし、保守おじさんは「考えている」と言えるのか。
質問がなされると、条件反射のようにパッと答えを出す。この一瞬の間に、おじさんは考えているのだろうか。
小生の見立てでは、このおじさんは、思考を一切行っていない。自らの中に蓄積された思想・哲学に、質問内容を照らし合わせているだけだと思う。
どういうことか。
保守おじさんは、若い頃は一生懸命勉強してきたのだと思う。「自分は未熟だ、知らないことがいっぱいある」という自己評価に基づき、本を読み、学校に通い、友人と議論を戦わせ、世の中の有り様を学ぶために、蛍雪の精神で努力を積み重ねてきた。
懸命に勉学に励んだ甲斐あって、少しずつものが言えるようになっていく。言論人としての名声を得てゆき、大学のポストなんかも手に入れちゃったりする。だんだん自分に自信がついてくる。
で、気が付くと「自分」というものが出来上がっている。この「自分」というのは、かっちりした思想・哲学の大系からなっており、完成形を有しているので、これ以上変革することはない。堅牢強固なこの大系は、保守おじさんにとっての武器である。おじさんは、この武器を振り回すことによって、世の中と対峙する。
なので、「ネットによる選挙運動は」と尋ねられた時に、瞬時に「否」と返すことができるのである。しかし、この時おじさんが行っているのは、堅強な自らの大系に質問内容を照会して、その是非の判断を下す、という行為である。
それは、ヒヨコの雌雄選別作業に似ている。ベルトコンベアの上を、産まれたばかりのヒヨコたちが、大量に流れてくる。それを一匹ずつ掴んで、生殖器を視認し、「オス、メス、メス、オス」と分別する、アレである。
分別作業に思考はいらない。
保守おじさんは、自らの思想大系を、これ以上改良を加える余地のない、完全無欠なものと思い込んでいる。なので、それでもって浮き世を裁こうとする。この大系に沿った意見なら〇、そぐわなければ×。そのようにして、おじさんは選別を行う。
既に完成を見ているものに、思考が入り込む余地はない。つまり、このおじさんは、「自分の思想・哲学大系は完璧に出来上がった」と結論づけた時点で、思考することを放棄していたのである。
考える、というのは、自分の固定観念をアテにせず、ひとつひとつの問題をじっくりと眺めまわし、「なんだろう、コレ」と、見定めようとする態度のことだ。「コレは、前に見たアレだ」「よく知っているコレだ」などというふうに、前例を当てにすることなく、全ての物事を、見るのも聞くのも初めての、未知のものとして対峙すること。そのことによって、思考は始動される。未知のものを相手にしているわけだから、すぐに答えは出てこない。言葉にしようとしても、支離滅裂なものになり、何度も訂正を繰り返すことになるだろう。
マスコミの質問に、咄嗟に上手く答えられず、まとまりのない思弁を吐く小田嶋と、一刀両断するごとく、端的に答えを出す保守おじさん。
新聞に掲載されるのは保守おじさんの発言である。読者は、「この人、なかなか立派なことを考えてるな」と思うだろう。対して小田嶋は、インタビューを受けたことすら知られることはない。
だが、正しく思考を行っているのは、小田嶋の方なのである。
保守おじさんは、しっかり考えているように見えて、実は思考停止に陥っているのだ。
しかし小生は、思考停止を良くないことだと、頭ごなしに非難するつもりはない。
考え続ける、というのはしんどいものだ。ひとつひとつのトピックに、前例を参照することなく取り組んでいたら、疲れてしまう。「若い頃からずっと勉強してきたんだから、もういいや」と保守おじさんが思ったとして、それを責めることなどできない。ひょっとしたら、自分もいずれ、このおじさんのようになってしまうかもしれない、という自戒も込めて、非難は自粛したい。
だが、考えるというのはどういうことか、思考というものの本質は何か、ということは明らかにしておく必要がある。
働くことを止めてしまった思考からは、何も新しいものは生まれてこないのだから。
オススメ関連本・真木悠介『気流の鳴る音――交響するコミューン』ちくま学芸文庫
芸能人の人達は、とにかく受け答えが素早くて、誰かが何かを言うと、それに対してすぐにうまいコメントを付ける。その作家は、自分も何か気の利いたことを言おうとするのだが、思いついた頃には、既に話題が次に移ってしまっている。テレビで活躍するには、条件反射のようにコメントを考えないといけない、ということであった。
いわゆる、「テレビ的ノリ」というのがある。我々は、日頃から視聴を通じて、「テレビ的ノリ」に触れている。それが内面化されれば、日常生活にも「テレビ的ノリ」が反映され、コミュニケーションは、どんどんテレビ化していくだろう。特にお笑い芸人が活躍している現代において、「ボケとツッコミ」「オチをつける」といった話法は、常識に登録されつつある。
そして、その「テレビ的ノリ」のみならず、資本主義社会の要請として、「スピード」は特に重要視される。気の利いたことを素早く言う、というのは、現代社会において、皆等し並に求められていることである。
この「素早い受け答え」というのは、普通、「素早く考える」ことと同義だと認識されている。
しかし、「考える」とはどういうことであろうか。「条件反射的な受け答え」は、本当に「考える」ことによってもたらされているのか。
今回は、「考える」について考えてみる。
コラムニストの小田嶋隆は、マスコミから電話でインタビューを受けた時に、咄嗟にうまく答えることができない、と吐露している。
ある雑誌媒体の電話取材で、インターネットによる選挙運動の解禁について意見を求められた。
うまく答えることができなかった。
(中略)
電話取材には、コツというほどでもないのだが、一定の解法のようなものがある。なんというのか、記者が要約しやすいように、箇条書きのつもりで話した方が良いということだ。きょうびは、一事が万事そういうことになっている。
「5秒でまとめられない意見ならはじめから何も言うな」
と、地上波のテレビ番組あたりは、おおよそそれぐらいな力加減で作られている。
ひるがえって、私が受話器に向かってしゃべった10分間ほどのお話は、どう要約しても、原稿用紙3枚以下にはまとまらない。私自身、自分が何を話しているのか、わからなくなっていた。
(小田嶋隆『ポエムに万歳!』新潮社)
この、文筆業を営む者にとって、致命的と取られかねない事実は、注目に値する。
ここに、小田嶋の対極にある人物を仮構してみよう。
年の頃なら5、60代の男性。国の行く末を日々憂いており、このままでは日出ずる国はダメになってしまう、と考えている。どんな社会問題にも一家言持っており、中国、韓国にはナメられないように、強硬な外交をすべきで、日米安保は、今のところは受容せざるを得ないが、将来は軍事的に独立するのが望ましく、若者、特に男が軟弱になってきているので、教育勅語を教えたり、必要とあらば体罰を復活させ、更には兵役の義務を課すこともやむなしと主張している。そんな保守おじさん。
そのおじさんにマスコミが、「インターネットによる選挙運動をどう思いますか」と質問したとする。するとおじさんは「年寄りを置いてけぼりにする制度は認めん」と、間髪入れずに答えてくれるだろう。
マスコミは大喜びだ。誌面を飾るのはこの保守おじさんの声で、当然ながら小田嶋のそれは出てこない。
さてしかし、保守おじさんは「考えている」と言えるのか。
質問がなされると、条件反射のようにパッと答えを出す。この一瞬の間に、おじさんは考えているのだろうか。
小生の見立てでは、このおじさんは、思考を一切行っていない。自らの中に蓄積された思想・哲学に、質問内容を照らし合わせているだけだと思う。
どういうことか。
保守おじさんは、若い頃は一生懸命勉強してきたのだと思う。「自分は未熟だ、知らないことがいっぱいある」という自己評価に基づき、本を読み、学校に通い、友人と議論を戦わせ、世の中の有り様を学ぶために、蛍雪の精神で努力を積み重ねてきた。
懸命に勉学に励んだ甲斐あって、少しずつものが言えるようになっていく。言論人としての名声を得てゆき、大学のポストなんかも手に入れちゃったりする。だんだん自分に自信がついてくる。
で、気が付くと「自分」というものが出来上がっている。この「自分」というのは、かっちりした思想・哲学の大系からなっており、完成形を有しているので、これ以上変革することはない。堅牢強固なこの大系は、保守おじさんにとっての武器である。おじさんは、この武器を振り回すことによって、世の中と対峙する。
なので、「ネットによる選挙運動は」と尋ねられた時に、瞬時に「否」と返すことができるのである。しかし、この時おじさんが行っているのは、堅強な自らの大系に質問内容を照会して、その是非の判断を下す、という行為である。
それは、ヒヨコの雌雄選別作業に似ている。ベルトコンベアの上を、産まれたばかりのヒヨコたちが、大量に流れてくる。それを一匹ずつ掴んで、生殖器を視認し、「オス、メス、メス、オス」と分別する、アレである。
分別作業に思考はいらない。
保守おじさんは、自らの思想大系を、これ以上改良を加える余地のない、完全無欠なものと思い込んでいる。なので、それでもって浮き世を裁こうとする。この大系に沿った意見なら〇、そぐわなければ×。そのようにして、おじさんは選別を行う。
既に完成を見ているものに、思考が入り込む余地はない。つまり、このおじさんは、「自分の思想・哲学大系は完璧に出来上がった」と結論づけた時点で、思考することを放棄していたのである。
考える、というのは、自分の固定観念をアテにせず、ひとつひとつの問題をじっくりと眺めまわし、「なんだろう、コレ」と、見定めようとする態度のことだ。「コレは、前に見たアレだ」「よく知っているコレだ」などというふうに、前例を当てにすることなく、全ての物事を、見るのも聞くのも初めての、未知のものとして対峙すること。そのことによって、思考は始動される。未知のものを相手にしているわけだから、すぐに答えは出てこない。言葉にしようとしても、支離滅裂なものになり、何度も訂正を繰り返すことになるだろう。
マスコミの質問に、咄嗟に上手く答えられず、まとまりのない思弁を吐く小田嶋と、一刀両断するごとく、端的に答えを出す保守おじさん。
新聞に掲載されるのは保守おじさんの発言である。読者は、「この人、なかなか立派なことを考えてるな」と思うだろう。対して小田嶋は、インタビューを受けたことすら知られることはない。
だが、正しく思考を行っているのは、小田嶋の方なのである。
保守おじさんは、しっかり考えているように見えて、実は思考停止に陥っているのだ。
しかし小生は、思考停止を良くないことだと、頭ごなしに非難するつもりはない。
考え続ける、というのはしんどいものだ。ひとつひとつのトピックに、前例を参照することなく取り組んでいたら、疲れてしまう。「若い頃からずっと勉強してきたんだから、もういいや」と保守おじさんが思ったとして、それを責めることなどできない。ひょっとしたら、自分もいずれ、このおじさんのようになってしまうかもしれない、という自戒も込めて、非難は自粛したい。
だが、考えるというのはどういうことか、思考というものの本質は何か、ということは明らかにしておく必要がある。
働くことを止めてしまった思考からは、何も新しいものは生まれてこないのだから。
オススメ関連本・真木悠介『気流の鳴る音――交響するコミューン』ちくま学芸文庫