これまでの人生を振り返り、苦手としてきた人達を思い浮かべると……。
彼らには、人の目を見て話さない、という共通点があったことに気づく。その手の人々とは、話していても、なんだか肩透かしを食らっているような気分になるのだ。逆に、ちゃんと目を見る人であれば、腹が立つことをしょっちゅう言われたとしても、嫌いにはならない。
これは、コミュニケーションに関する考え方の相違に原因があるのではないか、と思う。
コミュニケーションは、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションからなる。
言語コミュニケーションはもちろん言葉のことであり、非言語コミュニケーションは、表情や仕草など、言葉以外の手段によって交わされるコミュニケーションのことである。この非言語コミュニケーションには、相手との距離のとり方、スキンシップ、服装、髪型、所有物、体臭、さらには言語コミュニケーションに伴う口調、はては沈黙まで、様々なものが含まれる。
一般的に、コミュニケーションと言われて思い浮かべるのは、言語コミュニケーションの方で、非言語コミュニケーションの方は、そもそもコミュニケーションの一形態としては捉えられていないか、さもなくば、言語コミュニケーションを補うためのもの、という位置づけで考えられているのではないだろうか。
だが、一説によれば、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの割合は、7対93であるらしい(小生自身もホンマかいな、と思うのだが、これはヘルパー2級を取得した時に教わった話)。つまり我々は、大半のコミュニケーションを、言葉以外の手段で取り交わしているのである。
ちなみに、発話に伴う、声の高さ・速さ・調子などの、言語コミュニケーションに付随する非言語コミュニケーションの割合は、93%中の38%であるらしい。つまり、発話によらない非言語コミュニケーション――身体言語という――は、55%なのである。
目を見て話さない人は、コミュニケーションを、言語のみによるもので、非言語はそれには含まれないと考えているか、もしくは非言語コミュニケーションの存在自体を知らないのではないだろうか。
今の若い人にはほとんどいないのかもしれないが、電話で話すのが苦手、というタイプの人がいる。上手く話す事ができなくて、どうしても電話をかけねばならない時は、必要最小限の用事だけを伝えて、すぐ切ろうとする、という人が。小生も、どちらかというとこのタイプなのだが、これは、電話だとコミュニケーションの約半分が使えなくなることが理由として大きいだろう。対面であれば、言語と非言語、両方合わせてコミュニケーションを取ることが出来るわけだが、それが普通のコミュニケーションのあり方だと――おそらくは、意識することなく――思っている人にとっては、非言語コミュニケーション(のうちの身体言語)の使用を封じられる電話という形式は、非常にやりづらく感じるのだろう。
とすると、人の目を見て話さない人は、電話がほとんど苦にならないか、むしろそちらの方が、意思のやり取りがしやすいと感じているのではないだろうか。
だいぶ前に、福岡の繁華街の天神を歩いていた時、やたらと大きな音を発している一角があり、何かと思って近寄ってみると、歩道上に、大きな拡声器が置かれていた。そこから、おそらくは市議会議員あたりの、テープに吹き込んだ演説が流れていた。拡声器のすぐ横には、その政治家のポスターが、立て看板式に据え付けられており、少し離れた所には、見張りのおじさんが立っていた。
要するに、効率よく自分の政治的主張を知ってもらうために考えだした方法だったのだろうが、足を止めて聴きいっている人は一人もいなかった。小生も、何か不快なものを感じて、その場を離れた。
これは、「楽して主張を拡めたい」という、安易な気持ちが透けて見えるから、道行く人々の反発を買い、結局誰にも聴いてもらえない、ということでもあるだろう〈むしろ嫌悪感を掻き立てることで、逆効果になっていたかもしれない)。
だが、それだけでなく、非言語コミュニケーション(のうちの身体言語)が伴っていない、というのもひとつの原因であると思う。
これはもちろん、身体言語を伴わないメッセージは、誰にも聴いてもらえない、ということではない(もしそうなら、電話やラジオは成立しない)。そうではなくて、政治に関するメッセージは、身体性が伴っていなくてはならない、ということである。
政治というのは、生活を左右するものである。代表者たる政治家がどう振舞うかが、有権者の暮らしに関わってくる。それは、言うなれば「生身に関する問題」なわけで、であれば、「政治家自身の生身」もまた問われなければならないだろう。
どのような表情で、どのような身振りで話すか。どんな髪型や服装をしているか。あるいは、演説中に露見する、些細なクセのような行為まで含めて吟味されるだろう。
拡声器のテープからは、そのような情報は一切読み取ることはできない。
また、本人がその場にいれば質問することもできるが、テープだと一方通行だ。
そんな身体性の欠如が、誰にも聴いてもらえない原因だったのではないだろうか。
結果的に、その拡声器は、ただでさえ騒々しい街中を、さらにやかましくしていただけであった。
(後編に続く)
オススメ関連本・蓮實重彦『反‐日本語論』ちくま学芸文庫
彼らには、人の目を見て話さない、という共通点があったことに気づく。その手の人々とは、話していても、なんだか肩透かしを食らっているような気分になるのだ。逆に、ちゃんと目を見る人であれば、腹が立つことをしょっちゅう言われたとしても、嫌いにはならない。
これは、コミュニケーションに関する考え方の相違に原因があるのではないか、と思う。
コミュニケーションは、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションからなる。
言語コミュニケーションはもちろん言葉のことであり、非言語コミュニケーションは、表情や仕草など、言葉以外の手段によって交わされるコミュニケーションのことである。この非言語コミュニケーションには、相手との距離のとり方、スキンシップ、服装、髪型、所有物、体臭、さらには言語コミュニケーションに伴う口調、はては沈黙まで、様々なものが含まれる。
一般的に、コミュニケーションと言われて思い浮かべるのは、言語コミュニケーションの方で、非言語コミュニケーションの方は、そもそもコミュニケーションの一形態としては捉えられていないか、さもなくば、言語コミュニケーションを補うためのもの、という位置づけで考えられているのではないだろうか。
だが、一説によれば、言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの割合は、7対93であるらしい(小生自身もホンマかいな、と思うのだが、これはヘルパー2級を取得した時に教わった話)。つまり我々は、大半のコミュニケーションを、言葉以外の手段で取り交わしているのである。
ちなみに、発話に伴う、声の高さ・速さ・調子などの、言語コミュニケーションに付随する非言語コミュニケーションの割合は、93%中の38%であるらしい。つまり、発話によらない非言語コミュニケーション――身体言語という――は、55%なのである。
目を見て話さない人は、コミュニケーションを、言語のみによるもので、非言語はそれには含まれないと考えているか、もしくは非言語コミュニケーションの存在自体を知らないのではないだろうか。
今の若い人にはほとんどいないのかもしれないが、電話で話すのが苦手、というタイプの人がいる。上手く話す事ができなくて、どうしても電話をかけねばならない時は、必要最小限の用事だけを伝えて、すぐ切ろうとする、という人が。小生も、どちらかというとこのタイプなのだが、これは、電話だとコミュニケーションの約半分が使えなくなることが理由として大きいだろう。対面であれば、言語と非言語、両方合わせてコミュニケーションを取ることが出来るわけだが、それが普通のコミュニケーションのあり方だと――おそらくは、意識することなく――思っている人にとっては、非言語コミュニケーション(のうちの身体言語)の使用を封じられる電話という形式は、非常にやりづらく感じるのだろう。
とすると、人の目を見て話さない人は、電話がほとんど苦にならないか、むしろそちらの方が、意思のやり取りがしやすいと感じているのではないだろうか。
だいぶ前に、福岡の繁華街の天神を歩いていた時、やたらと大きな音を発している一角があり、何かと思って近寄ってみると、歩道上に、大きな拡声器が置かれていた。そこから、おそらくは市議会議員あたりの、テープに吹き込んだ演説が流れていた。拡声器のすぐ横には、その政治家のポスターが、立て看板式に据え付けられており、少し離れた所には、見張りのおじさんが立っていた。
要するに、効率よく自分の政治的主張を知ってもらうために考えだした方法だったのだろうが、足を止めて聴きいっている人は一人もいなかった。小生も、何か不快なものを感じて、その場を離れた。
これは、「楽して主張を拡めたい」という、安易な気持ちが透けて見えるから、道行く人々の反発を買い、結局誰にも聴いてもらえない、ということでもあるだろう〈むしろ嫌悪感を掻き立てることで、逆効果になっていたかもしれない)。
だが、それだけでなく、非言語コミュニケーション(のうちの身体言語)が伴っていない、というのもひとつの原因であると思う。
これはもちろん、身体言語を伴わないメッセージは、誰にも聴いてもらえない、ということではない(もしそうなら、電話やラジオは成立しない)。そうではなくて、政治に関するメッセージは、身体性が伴っていなくてはならない、ということである。
政治というのは、生活を左右するものである。代表者たる政治家がどう振舞うかが、有権者の暮らしに関わってくる。それは、言うなれば「生身に関する問題」なわけで、であれば、「政治家自身の生身」もまた問われなければならないだろう。
どのような表情で、どのような身振りで話すか。どんな髪型や服装をしているか。あるいは、演説中に露見する、些細なクセのような行為まで含めて吟味されるだろう。
拡声器のテープからは、そのような情報は一切読み取ることはできない。
また、本人がその場にいれば質問することもできるが、テープだと一方通行だ。
そんな身体性の欠如が、誰にも聴いてもらえない原因だったのではないだろうか。
結果的に、その拡声器は、ただでさえ騒々しい街中を、さらにやかましくしていただけであった。
(後編に続く)
オススメ関連本・蓮實重彦『反‐日本語論』ちくま学芸文庫