今日は擬音のようで擬音じゃないものです。
CMソングが大流行しましたね。普通の音楽の15秒カットじゃなくて、CM用の短い曲。今はもうそういうのないんでしょうか。
表面が網状、中が空洞になっており、ほかにはないサクサク食感。
特殊な感覚について話します。共感覚の話。
共感覚というのは、本来関連のない2つの感覚が結びついてしまうことです。たとえば、音を聴くと匂いがするとか、文字に色を見てしまうなど。後者の場合、文字がどの色で書かれているかに関係なく、特定の文字が特定の色に見えてしまうのですね。
このように、本来なら視覚だけ、聴覚だけで感じるはずのものに、それ以外の感覚が反応してしまう現象を共感覚と呼ぶのです。脳の中で、分化すべき感覚が未分化のままになってしまうことで引き起こされる現象だとされていますが、詳しいことはまだわかっていないそうです。
んで、その共感覚、僕にもあるんですね。
僕の場合は、数字に性別を感じてしまうのです。分類は単純。4と7が女で、それ以外は男なのです。
単に性別を感じるだけでなく、それぞれの性格まで感じるのです。4はおしとやかなお嬢様タイプで、7はしっかり者のお姉さんタイプ。
男の数字との相性もありまして、4のベストパートナーは、おとなしくて真面目なタイプの2。7のベストパートナーは、ひょうきんで明るい3。
あと、5と6はお兄さんタイプで、8と9はやや年上のおじさん。0と1は平均的な普通の男、というかんじです。
僕はこのことを保育園時代に周りに吹聴していたようで、友達に「5は男?女?」という質問をされていた記憶があります。
この感覚、幼少のころと比べたらだいぶ薄まってはいるものの、今でも残っています。
ただ、僕のこの共感覚、一般的なそれとは違った経緯で形成されたものなのかもしれないのです。どーゆーことかと言うと、子供のころにカレンダーを眺めていて身についた感覚なのかもしれない、ということです。
1980年代当時によくあった、数字がクッキリ印刷されたタイプのカレンダー。土曜は青、日祝は赤、平日は黒で記されたカレンダーです。
僕は子供のころ、よくカレンダーや時計をボーッと眺めていました。そのため、黒と青で記された数字を男に、赤で記された数字を女に知覚するようになってしまったのかもしれないのです。女より男の数字のほうが多いのも、それで説明が付きます。
つまりは、脳の構造による共感覚ではなく、後天的な学習によって身についた、人工的な共感覚かもしれないということです(それを共感覚と呼べるならば、ですが)。
まあ別に共感覚があるからっつって、どうということもないんですよ。日常生活に支障をきたすとか、逆に平凡な日常が楽しくなるとか、そんなことはまったくなくて、ただそういう感覚がある、というだけの話です。
いちいち言うほどのことじゃないから、誰にも知られずに共感覚をかかえてるって人も大勢いるんでしょうね。
しかし、本来結びつかないもの同士に関連を見出すことによって、人類の文化は豊かになってきたのです。共感覚には、文化の豊かさをより高める潜勢力が宿っているのかもしれません。
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
おひさしぶりのこのコーナー。もはや書くことがほとんどなくなっていますので、今回が最終回になるかもしれません。
今日はですね、最近読んだ、宮台真司さんと藤井聡さんの対談本『神なき時代の日本蘇生プラン』(ビジネス社)の中に、コロナにかんする記述があったので、それを紹介します。対談自体は2021年の7月から8月にかけて行われたもので、話題は旧聞に属するものではあるのですが、それを語る思想には古びることのない普遍性が備わっているので、広く知らしめるために引用する価値があると判断しました。
緊急事態宣言により、大学の授業がリモートに切り替わったことを受けてのやり取りです。
藤井 何より問題なのは、大学でリモートがはびこったことにより、人と人との対面交流がなくなっていった結果、学生の「自殺」が増えてしまったことです。大学名は伏せますが、毎年、自殺なんてほとんど出なかった某大学の某学部で、二〇二〇年の一年間で自殺者が“五人”出たといいます。これは完全に異常です。一つの学部だけでそんだけの被害が出たわけですから、大学全体を考えればもっともっと多くの学生たちが、自ら命を絶っていることになる。
宮台 予想されたことです。対面機会が奪われると鬱状態になりがちだからです。
藤井 大学生だけではなく、小学生、中学生、高校生の自殺もコロナ禍で激増している。(中略)
リモートというのはもともと、散々対面を繰り返してきて、人間関係がキャピタル(資本)としてできあがり、そのベースがあった場合に限り、そのキャピタルの捕捉として機能するに過ぎない。
(中略)
だから逆に、もともと何の人的キャピタルもない、つまり初対面やそれに近い状態の場合においては、リモートなんて十分に機能するはずがない。一年生にはそんな人的キャピタルが何も形成されないまま、一年、二年と時間が過ぎていますから、鬱になってもおかしくありません。
(中略)
マスコミ上ではほとんど誰も発言しませんでしたが、実際に若者がどれだけ外で酒を仲間と飲んだところで、重症病床を埋めているのは高齢者たちだから、医療崩壊のリスクが俄に高まるなんて話にはならない。高齢者が好き放題飲んでることの方が医療崩壊リスクを高める効果は何十倍も何百倍も高い。だから若者は、高齢者と会って感染させてしまうことだけに配慮し、その部分についてのしっかりとした対処をすれば、医療崩壊のリスクに対して効果的に対応できることになる。
宮台 変異ウイルスで今後の状況が変わるでしょうが、二〇二〇年段階では、若い人たちには風邪に毛が生えた程度の症状が出るか出ないかという程度。だから若い人たちには自由に行動してもらうべきでした。むしろ隔離してゾーニングするべきだったのは高齢者と持病持ちの方だけです。これは認知症や持病を深刻化させる自宅隔離を意味しません。無症状感染が多い若い人たちから、そういう人たちを隔離する障壁を設ければいいだけの話です。(中略)
藤井 僕はコロナ禍当初から、「移動や行動を制限されて、そうやって死のリスクが遠のいたと言って喜んでいていいのか」と疑問を投げかけてきましたが、激しくバッシングされて、むしろ「人殺し」とほぼ同じ様な扱いを受けました。
僕は「人間の尊厳を守るために、社交を大事にしよう。人との接触があって初めて人間として生きられるんだ」ということをあれこれと主張したわけですがそれに対し、僕を批判してきた人たちのロジックと言うのは、基本的に揚げ足取りの様なものが大半でしたが、思想と呼べそうなものとしてかろうじて存在していたとすれば、それは唯一「生命至上主義」と言わざるを得ないものだった。「その『社交』の場面でコロナ感染が拡大するんだ。その結果人が死ぬことになるのだから、お前のやっていることは人殺しだ」というものでした。
普通に生きている限りにおけるリスクを考えても、事故の結果として人を殺めたり、逆に自分が傷つけられることもある。「結果として人が死ぬ可能性があることを知っていながら、自動車の運転を認めるのか、それは殺人に加担しているのと同じだ」あるいは「人と人が関係を取り結ぶから殺人なんていうおぞましい事が起こるんだ。だから、社交を奨励するということは殺人に加担しているのと同じだ」なんて言う人はいない。しかしコロナに関してはその程度の議論が掃いて捨てる程に繰り返された。
「自動車の運転を認めるのは殺人に加担しているのと同じ」「社交を奨励するのは殺人に加担しているのと同じ」。このような倒錯はコロナ禍特有のものではなく、同じような緊急事態が生じれば再び繰り返されかねないものです。ですから、よく記憶しておいたほうがいいでしょう。
同じ倒錯によって、社会がいらぬ混乱に巻き込まれないように。また、自分自身がその倒錯に陥らないように。
あ、それとですね、コロナまったく関係ないんですけど、すごく興味深い話題が出ていましたので、そちらも紹介します。こちらは宮台さんひとりの語りです。
パンスペルミア説を唱える松井孝典さん(千葉工業大学学長)に、二〇一五年に神保哲生さんとやっている「マル激」〔引用者注・インターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』のニュース番組『マル激トーク・オン・デマンド』のこと〕のゲストに来ていただきました。宇宙はスペルミア(生命胚種)に満ちていて、従来の想定より三桁は多い知的生命体が宇宙に存在すると松井先生は言います。「なのにどうしてお互いに出会えないのでしょうか。距離が遠いからですか」と尋ねたら、「違います。文明の寿命が短いからですよ」と答えられました。
(中略)
それで、「では、先生は地球文明の寿命はあとどれくらいだとお考えですか。三〇〇年くらいですか」と尋ねたら、「えっ?そんなにもつわけがないでしょう」とおっしゃいました。
(中略)
ただし、文明の寿命が尽きることは、人類の全滅を意味しません。大幅な人口減と文明途絶のことです。それを踏まえた上で、松井先生は「文明の壊滅まで一〇〇年もかかりません」とおっしゃる。それを聞いた七年前は「そんなものかな」という感じでしたが、昨今の国際情勢や気候危機やエネルギー危機を見るにつけ「一〇〇年どころか五〇年もつかどうか」と危うい感じがします。SF的な未来がやってきても短期間で終わるか、そもそもSF的な未来がやってこない。人類は消える文明の方でしょう。
聞きましたか、もうすぐ文明が崩壊しちゃうかもしれないそうですよ!しかも、あと50年もかからないうちにそうなるかもしれないと。
そうなったら、『北斗の拳』ですよ。『北斗の拳』の世界が現実のものとなるのです。とんでもない話じゃありませんか。
しかし、ちょっとだけワクワクするというか、ほんとに文明が崩壊するなら、自分が生きているうちに起きてほしいような気がします。その過程を体験したい。
なんか、マンガでもドラマでも映画でも、最近「文明崩壊後の世界」を描いた作品が増えているように思いますが(ちゃんと数えたわけではなく、あくまで主観です)、これは妄想的推測を働かせると、作家の敏感な感性が、近く訪れる文明崩壊を感じとり、できるだけ冷静にその時を受け入れられるよう、シミュレーションとしてそれらのフィクションを創作した、というふうに考えられるのではないでしょうか。
皆さん、文明の崩壊に備えて北斗神拳を学んでおきましょう。
CMソングが大流行しましたね。普通の音楽の15秒カットじゃなくて、CM用の短い曲。今はもうそういうのないんでしょうか。
表面が網状、中が空洞になっており、ほかにはないサクサク食感。
特殊な感覚について話します。共感覚の話。
共感覚というのは、本来関連のない2つの感覚が結びついてしまうことです。たとえば、音を聴くと匂いがするとか、文字に色を見てしまうなど。後者の場合、文字がどの色で書かれているかに関係なく、特定の文字が特定の色に見えてしまうのですね。
このように、本来なら視覚だけ、聴覚だけで感じるはずのものに、それ以外の感覚が反応してしまう現象を共感覚と呼ぶのです。脳の中で、分化すべき感覚が未分化のままになってしまうことで引き起こされる現象だとされていますが、詳しいことはまだわかっていないそうです。
んで、その共感覚、僕にもあるんですね。
僕の場合は、数字に性別を感じてしまうのです。分類は単純。4と7が女で、それ以外は男なのです。
単に性別を感じるだけでなく、それぞれの性格まで感じるのです。4はおしとやかなお嬢様タイプで、7はしっかり者のお姉さんタイプ。
男の数字との相性もありまして、4のベストパートナーは、おとなしくて真面目なタイプの2。7のベストパートナーは、ひょうきんで明るい3。
あと、5と6はお兄さんタイプで、8と9はやや年上のおじさん。0と1は平均的な普通の男、というかんじです。
僕はこのことを保育園時代に周りに吹聴していたようで、友達に「5は男?女?」という質問をされていた記憶があります。
この感覚、幼少のころと比べたらだいぶ薄まってはいるものの、今でも残っています。
ただ、僕のこの共感覚、一般的なそれとは違った経緯で形成されたものなのかもしれないのです。どーゆーことかと言うと、子供のころにカレンダーを眺めていて身についた感覚なのかもしれない、ということです。
1980年代当時によくあった、数字がクッキリ印刷されたタイプのカレンダー。土曜は青、日祝は赤、平日は黒で記されたカレンダーです。
僕は子供のころ、よくカレンダーや時計をボーッと眺めていました。そのため、黒と青で記された数字を男に、赤で記された数字を女に知覚するようになってしまったのかもしれないのです。女より男の数字のほうが多いのも、それで説明が付きます。
つまりは、脳の構造による共感覚ではなく、後天的な学習によって身についた、人工的な共感覚かもしれないということです(それを共感覚と呼べるならば、ですが)。
まあ別に共感覚があるからっつって、どうということもないんですよ。日常生活に支障をきたすとか、逆に平凡な日常が楽しくなるとか、そんなことはまったくなくて、ただそういう感覚がある、というだけの話です。
いちいち言うほどのことじゃないから、誰にも知られずに共感覚をかかえてるって人も大勢いるんでしょうね。
しかし、本来結びつかないもの同士に関連を見出すことによって、人類の文化は豊かになってきたのです。共感覚には、文化の豊かさをより高める潜勢力が宿っているのかもしれません。
ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
おひさしぶりのこのコーナー。もはや書くことがほとんどなくなっていますので、今回が最終回になるかもしれません。
今日はですね、最近読んだ、宮台真司さんと藤井聡さんの対談本『神なき時代の日本蘇生プラン』(ビジネス社)の中に、コロナにかんする記述があったので、それを紹介します。対談自体は2021年の7月から8月にかけて行われたもので、話題は旧聞に属するものではあるのですが、それを語る思想には古びることのない普遍性が備わっているので、広く知らしめるために引用する価値があると判断しました。
緊急事態宣言により、大学の授業がリモートに切り替わったことを受けてのやり取りです。
藤井 何より問題なのは、大学でリモートがはびこったことにより、人と人との対面交流がなくなっていった結果、学生の「自殺」が増えてしまったことです。大学名は伏せますが、毎年、自殺なんてほとんど出なかった某大学の某学部で、二〇二〇年の一年間で自殺者が“五人”出たといいます。これは完全に異常です。一つの学部だけでそんだけの被害が出たわけですから、大学全体を考えればもっともっと多くの学生たちが、自ら命を絶っていることになる。
宮台 予想されたことです。対面機会が奪われると鬱状態になりがちだからです。
藤井 大学生だけではなく、小学生、中学生、高校生の自殺もコロナ禍で激増している。(中略)
リモートというのはもともと、散々対面を繰り返してきて、人間関係がキャピタル(資本)としてできあがり、そのベースがあった場合に限り、そのキャピタルの捕捉として機能するに過ぎない。
(中略)
だから逆に、もともと何の人的キャピタルもない、つまり初対面やそれに近い状態の場合においては、リモートなんて十分に機能するはずがない。一年生にはそんな人的キャピタルが何も形成されないまま、一年、二年と時間が過ぎていますから、鬱になってもおかしくありません。
(中略)
マスコミ上ではほとんど誰も発言しませんでしたが、実際に若者がどれだけ外で酒を仲間と飲んだところで、重症病床を埋めているのは高齢者たちだから、医療崩壊のリスクが俄に高まるなんて話にはならない。高齢者が好き放題飲んでることの方が医療崩壊リスクを高める効果は何十倍も何百倍も高い。だから若者は、高齢者と会って感染させてしまうことだけに配慮し、その部分についてのしっかりとした対処をすれば、医療崩壊のリスクに対して効果的に対応できることになる。
宮台 変異ウイルスで今後の状況が変わるでしょうが、二〇二〇年段階では、若い人たちには風邪に毛が生えた程度の症状が出るか出ないかという程度。だから若い人たちには自由に行動してもらうべきでした。むしろ隔離してゾーニングするべきだったのは高齢者と持病持ちの方だけです。これは認知症や持病を深刻化させる自宅隔離を意味しません。無症状感染が多い若い人たちから、そういう人たちを隔離する障壁を設ければいいだけの話です。(中略)
藤井 僕はコロナ禍当初から、「移動や行動を制限されて、そうやって死のリスクが遠のいたと言って喜んでいていいのか」と疑問を投げかけてきましたが、激しくバッシングされて、むしろ「人殺し」とほぼ同じ様な扱いを受けました。
僕は「人間の尊厳を守るために、社交を大事にしよう。人との接触があって初めて人間として生きられるんだ」ということをあれこれと主張したわけですがそれに対し、僕を批判してきた人たちのロジックと言うのは、基本的に揚げ足取りの様なものが大半でしたが、思想と呼べそうなものとしてかろうじて存在していたとすれば、それは唯一「生命至上主義」と言わざるを得ないものだった。「その『社交』の場面でコロナ感染が拡大するんだ。その結果人が死ぬことになるのだから、お前のやっていることは人殺しだ」というものでした。
普通に生きている限りにおけるリスクを考えても、事故の結果として人を殺めたり、逆に自分が傷つけられることもある。「結果として人が死ぬ可能性があることを知っていながら、自動車の運転を認めるのか、それは殺人に加担しているのと同じだ」あるいは「人と人が関係を取り結ぶから殺人なんていうおぞましい事が起こるんだ。だから、社交を奨励するということは殺人に加担しているのと同じだ」なんて言う人はいない。しかしコロナに関してはその程度の議論が掃いて捨てる程に繰り返された。
「自動車の運転を認めるのは殺人に加担しているのと同じ」「社交を奨励するのは殺人に加担しているのと同じ」。このような倒錯はコロナ禍特有のものではなく、同じような緊急事態が生じれば再び繰り返されかねないものです。ですから、よく記憶しておいたほうがいいでしょう。
同じ倒錯によって、社会がいらぬ混乱に巻き込まれないように。また、自分自身がその倒錯に陥らないように。
あ、それとですね、コロナまったく関係ないんですけど、すごく興味深い話題が出ていましたので、そちらも紹介します。こちらは宮台さんひとりの語りです。
パンスペルミア説を唱える松井孝典さん(千葉工業大学学長)に、二〇一五年に神保哲生さんとやっている「マル激」〔引用者注・インターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』のニュース番組『マル激トーク・オン・デマンド』のこと〕のゲストに来ていただきました。宇宙はスペルミア(生命胚種)に満ちていて、従来の想定より三桁は多い知的生命体が宇宙に存在すると松井先生は言います。「なのにどうしてお互いに出会えないのでしょうか。距離が遠いからですか」と尋ねたら、「違います。文明の寿命が短いからですよ」と答えられました。
(中略)
それで、「では、先生は地球文明の寿命はあとどれくらいだとお考えですか。三〇〇年くらいですか」と尋ねたら、「えっ?そんなにもつわけがないでしょう」とおっしゃいました。
(中略)
ただし、文明の寿命が尽きることは、人類の全滅を意味しません。大幅な人口減と文明途絶のことです。それを踏まえた上で、松井先生は「文明の壊滅まで一〇〇年もかかりません」とおっしゃる。それを聞いた七年前は「そんなものかな」という感じでしたが、昨今の国際情勢や気候危機やエネルギー危機を見るにつけ「一〇〇年どころか五〇年もつかどうか」と危うい感じがします。SF的な未来がやってきても短期間で終わるか、そもそもSF的な未来がやってこない。人類は消える文明の方でしょう。
聞きましたか、もうすぐ文明が崩壊しちゃうかもしれないそうですよ!しかも、あと50年もかからないうちにそうなるかもしれないと。
そうなったら、『北斗の拳』ですよ。『北斗の拳』の世界が現実のものとなるのです。とんでもない話じゃありませんか。
しかし、ちょっとだけワクワクするというか、ほんとに文明が崩壊するなら、自分が生きているうちに起きてほしいような気がします。その過程を体験したい。
なんか、マンガでもドラマでも映画でも、最近「文明崩壊後の世界」を描いた作品が増えているように思いますが(ちゃんと数えたわけではなく、あくまで主観です)、これは妄想的推測を働かせると、作家の敏感な感性が、近く訪れる文明崩壊を感じとり、できるだけ冷静にその時を受け入れられるよう、シミュレーションとしてそれらのフィクションを創作した、というふうに考えられるのではないでしょうか。
皆さん、文明の崩壊に備えて北斗神拳を学んでおきましょう。