最近ではあまり見かけなくなったが、ローライズジーンズが流行った頃、女性に羞恥心がなくなった、ということがよく言われた。
しゃがんだら――もしくはしゃがまなくても――下着や尻が見えるような服を着る、ということに対して。
さて、それでは年配者がお嘆きの通り、女性は羞恥心を失いつつあるのか。
(余談だが、ローライズブーム華やかりし頃、ローライズ以外のズボンも皆一様に股上が短くなり、ズボンが欲しくても買うことができず、困った記憶がある)
そもそも、羞恥心とはなんだろうか。
これをやると、みっともない、だらしない、迷惑だなどのネガティブな心の働きによって、己の行動を律するもの、だろう。そのように感じるべき局面で何も感じず、平然としている人を見たときに、恥らいがない、と言う。だが、羞恥心が己を律するものであれば、それは「何を守りたいか」という価値観に関わってくる問題であり、それは人それぞれ違っているはずである。
菅原健介の『羞恥心はどこへ消えた?』によれば、若者は恥らいがないのではなく、何を持って恥とするかが、年配層とは違っているだけだという。
羞恥心は各自の価値観により違ってくる。しかし、他人のそれに対して口を差し挟まずには居れない人もいる。とすると、これは“常識”という厄介な問題とも関わってくるわけだ。
「そんなの、常識だろ」とはよく言われることだ。この時、すんなり「うん、そうだね」と納得してもらえればいいのだが、「え、なんで?」と返されたら面倒なことになる。
常識というのは、法律と違って明文化されているものではなく、「みんながそう言っているから」という多数決の理論に基づき「まあ、大体こっからここまでが含まれてるだろ」という、境目が曖昧な決められ方をしているものである。これを決めるのは個人であり、それは価値観に基づいて行われる。すると、価値観というのは人それぞれ違うので、常識にも相違が生じる。
この「そんなの常識だろ」に対する答えとして「そんなの、誰が決めたの」という返しもありうるのだが、そうなると「みんな言ってるよ」という説得力の欠けた返事になり、あとはもう「みんなって誰?」「みんなはみんなだよ」「僕はそんなこと言ってないし、他の人がそう言ってるのも聞いたことがないよ」「とにかくほとんどの人はそう言ってるわけで…」といった、ひたすら不毛度が加速していくやりとりに陥ってしまう。
困ったものだ。
この、常識、価値観というものは、若者とお年寄りの間でかなり違っているのが普通だ。
少々歴史を紐解いてみたい。
井上章一の『パンツが見える。』によれば、一昔前までは日本人女性は皆和装をしており、その中には下着を付けていなかった。下着(昔はズロースと呼ばれていた)が普及しだすのは1930年代後半からで、それまでは、例えば風が吹いて着物の裾がめくれれば、陰部が見えていた、という。女性たちは、陰部を見られることに対する羞恥心を、少なからず感じてはいたものの、どちらかといえば、それは「やむを得ないこと」だと考えていたらしい。
元々日本人女性は下着を履いておらず、パンチラどころかマ○チラしていたのだ。つい80年ほど前までそうだったのである。下着が見えるのを恥ずかしいと思えないのも、当然ではないだろうか。(これは、「見せパン」にも言える。元々、下着は陰部を隠すための物であり、下着自体は見られてもいいものだった)
ところでこのように、陰部が見えるか、下着が見えるかは、何を着ているか、つまり服装による。そして、服装は流行による。現代の方が流動性が激しい、という違いはあるだろうが、その時代時代において流行に規定されている。
この流行というのは、言い換えればコードである。そして、常識もまたコードである。
時代が変われば流行が変わるのと同じように、常識も時代によって変化してきた。
で、先ほど述べたように、羞恥心もまた常識に拠るので、
〈流行=コード=常識=羞恥心〉となる。
羞恥心と流行はイコールであり、流行によって羞恥心は決められる。であれば、ローライズが流行り、「皆さん、下着(お尻)を出すのはオシャレなんですよ」と喧伝されれば、それに伴い羞恥心も変化する。
常識が変わった、ということがアナウンスされれば、皆それに従うようになる。
そういうことなのではないだろうか。
このことから、次の二つのことが言える。
ひとつは、「(ローライズのような服を着る)今の若者は常識がない」とお年寄りは言うが、実際は極めて常識に素直に従っているのだ、ということ。
もうひとつは、流行が目まぐるしく移り変わる現代においては、羞恥心もまた急速に変転せざるを得なくなるだろう、ということ。すると(流行を追いかけるのは主に若者なので)、若者の考えていることはよくわからない、という世代間のズレが、益々顕著なものになっていくだろう。
でも、大丈夫ですよ、お年寄りの皆さん。若者は、あなたたちが思ったいるよりも、ずっと常識的です。
オススメ関連本・鷲田清一『ちぐはぐな身体――ファッションって何?』ちくま文庫
しゃがんだら――もしくはしゃがまなくても――下着や尻が見えるような服を着る、ということに対して。
さて、それでは年配者がお嘆きの通り、女性は羞恥心を失いつつあるのか。
(余談だが、ローライズブーム華やかりし頃、ローライズ以外のズボンも皆一様に股上が短くなり、ズボンが欲しくても買うことができず、困った記憶がある)
そもそも、羞恥心とはなんだろうか。
これをやると、みっともない、だらしない、迷惑だなどのネガティブな心の働きによって、己の行動を律するもの、だろう。そのように感じるべき局面で何も感じず、平然としている人を見たときに、恥らいがない、と言う。だが、羞恥心が己を律するものであれば、それは「何を守りたいか」という価値観に関わってくる問題であり、それは人それぞれ違っているはずである。
菅原健介の『羞恥心はどこへ消えた?』によれば、若者は恥らいがないのではなく、何を持って恥とするかが、年配層とは違っているだけだという。
羞恥心は各自の価値観により違ってくる。しかし、他人のそれに対して口を差し挟まずには居れない人もいる。とすると、これは“常識”という厄介な問題とも関わってくるわけだ。
「そんなの、常識だろ」とはよく言われることだ。この時、すんなり「うん、そうだね」と納得してもらえればいいのだが、「え、なんで?」と返されたら面倒なことになる。
常識というのは、法律と違って明文化されているものではなく、「みんながそう言っているから」という多数決の理論に基づき「まあ、大体こっからここまでが含まれてるだろ」という、境目が曖昧な決められ方をしているものである。これを決めるのは個人であり、それは価値観に基づいて行われる。すると、価値観というのは人それぞれ違うので、常識にも相違が生じる。
この「そんなの常識だろ」に対する答えとして「そんなの、誰が決めたの」という返しもありうるのだが、そうなると「みんな言ってるよ」という説得力の欠けた返事になり、あとはもう「みんなって誰?」「みんなはみんなだよ」「僕はそんなこと言ってないし、他の人がそう言ってるのも聞いたことがないよ」「とにかくほとんどの人はそう言ってるわけで…」といった、ひたすら不毛度が加速していくやりとりに陥ってしまう。
困ったものだ。
この、常識、価値観というものは、若者とお年寄りの間でかなり違っているのが普通だ。
少々歴史を紐解いてみたい。
井上章一の『パンツが見える。』によれば、一昔前までは日本人女性は皆和装をしており、その中には下着を付けていなかった。下着(昔はズロースと呼ばれていた)が普及しだすのは1930年代後半からで、それまでは、例えば風が吹いて着物の裾がめくれれば、陰部が見えていた、という。女性たちは、陰部を見られることに対する羞恥心を、少なからず感じてはいたものの、どちらかといえば、それは「やむを得ないこと」だと考えていたらしい。
元々日本人女性は下着を履いておらず、パンチラどころかマ○チラしていたのだ。つい80年ほど前までそうだったのである。下着が見えるのを恥ずかしいと思えないのも、当然ではないだろうか。(これは、「見せパン」にも言える。元々、下着は陰部を隠すための物であり、下着自体は見られてもいいものだった)
ところでこのように、陰部が見えるか、下着が見えるかは、何を着ているか、つまり服装による。そして、服装は流行による。現代の方が流動性が激しい、という違いはあるだろうが、その時代時代において流行に規定されている。
この流行というのは、言い換えればコードである。そして、常識もまたコードである。
時代が変われば流行が変わるのと同じように、常識も時代によって変化してきた。
で、先ほど述べたように、羞恥心もまた常識に拠るので、
〈流行=コード=常識=羞恥心〉となる。
羞恥心と流行はイコールであり、流行によって羞恥心は決められる。であれば、ローライズが流行り、「皆さん、下着(お尻)を出すのはオシャレなんですよ」と喧伝されれば、それに伴い羞恥心も変化する。
常識が変わった、ということがアナウンスされれば、皆それに従うようになる。
そういうことなのではないだろうか。
このことから、次の二つのことが言える。
ひとつは、「(ローライズのような服を着る)今の若者は常識がない」とお年寄りは言うが、実際は極めて常識に素直に従っているのだ、ということ。
もうひとつは、流行が目まぐるしく移り変わる現代においては、羞恥心もまた急速に変転せざるを得なくなるだろう、ということ。すると(流行を追いかけるのは主に若者なので)、若者の考えていることはよくわからない、という世代間のズレが、益々顕著なものになっていくだろう。
でも、大丈夫ですよ、お年寄りの皆さん。若者は、あなたたちが思ったいるよりも、ずっと常識的です。
オススメ関連本・鷲田清一『ちぐはぐな身体――ファッションって何?』ちくま文庫
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