徳丸無明のブログ

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虚構と現実の狭間で虚構と現実を考える・後編

2017-09-05 21:24:35 | 雑文
(前編からの続き)

さて、ゲームや漫画への過剰なのめり込みを批判する論者であっても、夏目漱石やドストエフスキーを否定するつもりはないだろう。現実にあらざるものを虚構と呼ぶのであれば、純文学もまた虚構であるが、よく考えてみれば、実在しない人物、作話の中の人物に感情移入するというのも、なかなか不思議なことである。
人間の脳内にはミラーニューロンという機能がある。他人の言動を、まるで鏡を見るように感得し、ついつい同じ言動を取ってしまうことがあるのは、このミラーニューロンの働きによる。人間が他人に共感できるのは、ミラーニューロンがあればこそである(おそらく脳内にはミラーニューロン以外にも、共感を生み出す器官が複数あるはずだ。それらの働きの複合的な効果として共感という感覚が派生しているのだと思うが、脳科学に詳しくない小生には、厳密なところはわからない。ここでは、その複数の器官を代表してミラーニューロンという言葉を用いていると理解していただきたい)。
このミラーニューロンは、必ずしも現実世界の人間だけに向かうようにはできていないのではないだろうか。ミラーニューロンは、現実の人間と、フィクションの登場人物を区別できない。だから人間は、絵空事の物語にも涙を流す。
これには「シミュラクラ現象」というのも関わっている。シミュラクラ現象とは、逆三角形に並んだ三つの丸を顔(2つの目と口)と認識してしまう、という錯覚のことで、人間の敵味方の判別や、肉食獣の接近を素早く察知するために発達した認知作用の副産物である。壁のシミが人の顔に見えてしまうのもその働きに拠るのだが、これによって人間は絵画や漫画を読むことができる。人間以外の生物にとっては、絵画や漫画は――たとえ自分と同じ種が鮮明に描かれていようとも――ただのシミや模様でしかない。
そして、シミュラクラの影響も受けているであろうミラーニューロンは、人間と、それ以外の生物をも区別することをしない。だからこそ人間は、ペットを飼うのだと思う。ペットというのも不思議なものだ。人間以外の生物は、ペットを飼うことはない。生存競争上の合理性から共生するのみである。人間は、共感能力の獲得によってペットを飼うようになった。
人類が今日にまで至る繁栄を築くことができたのは、共感能力に拠るところが大きい。人間の社会とは、共感の産物である。他人の痛みを我が痛みのように覚知する共感によって、人間は今ある社会を作り上げた。動物でも「群れ」を形成することはあるが、群れというのは生存戦略として他の個体を利用する(より正確には他の個体を利用し、かつ他の個体に利用される共依存の関係)ものであり、共感を基調とする「社会」とは――共通する部分はあれ――別物である。
つまり何が言いたいのかというと、虚構と現実を混同する感覚を否定することは、人間社会の否定、ひいては人類の歴史の否定にまで繋がるのではないか、ということである。

歴史ということで過去に遡って考えると、原始社会は、どの共同体も必ずと言っていいほど「神話」を有していた。
口述によって語り継がれる神話の中で、土塊が人間となり、人間が動物に、あるいは動物が人間へと姿を変えて異種間婚姻を果たし、異形の子を生した。風が起こって炎となり、砂埃が吹き溜まって島が生まれ、一粒の水滴が海になった。この自由奔放な発想はもちろん脳内の比喩と象徴によって生み出されたものである。
そして、これらの物語は単なる絵空事ではなく、現実と地続きの過去、実際にあった歴史とされていた。
これを野蛮な時代の迷妄と嗤うのはたやすい。しかし、ダーウィンの進化論などの科学的知見が真実を明らかにするまで、人類は種としての自分達がどのようにしてこの世界に誕生したかを検証することができなかった。科学的手段を持ち合わせてはいないが、宇宙の真理を知りたいという願望はある。ならば、想像力によってそれを満たすしかない。
現代の我々が、科学的見地を最も信憑に足る認識手段と思い込んでいるように、原始社会の人々も、想像力こそが世界の成り立ちを解き明かす至上の手段と考えていたのだ。言い換えれば、科学の発展によって想像力は活動の領域を大幅に狭められていった、ということだ。
ただ、ここで注意しなくてはならないのは、科学と想像力は対立する概念ではない、ということである。科学は何かを立証しようとする時、まず仮説を立てる。この仮説は何の根拠もないものであり、想像力によって構想されたものであるが、それなくしては科学は進展しない。
科学と想像力は背反するものではなく、相補的関係にある。想像力によってこれまで正しいとされてきたことを、科学が次々反証してきた経緯があるので、想像力(虚構)と科学(現実)は相反するものだという誤解が生まれたのである。

というわけで結論。
人間においては、そもそも虚構と現実を区別することはできない。虚構と現実を混同することによって人類は現在の繁栄を築くことができた。虚構は、人間だけが知覚できる人間だけの武器である。それに人類は、これまでの歴史の中で、虚構と現実を区別しようとは(ほとんど)してこなかった。
それが近代以降、科学主義や近代的合理主義、及び啓蒙主義の精神によって、非科学的に見えるものや、不合理的に感じられるものに対し、「迷信」や「野蛮」といった見地から「虚構」という区分を与え、それを「現実」との対称概念であるということにした。しかし、もともと虚構は現実の中に含まれており、両者の間にに明確な違いなど存在しなかった。虚構と現実を截然と分割することができるというのは、それら近代の観念による思い込みに過ぎないし、虚構の否定は人類の歴史そのものの否定に繋がってしまう。
また、虚構を現実に混迷をもたらすものとして社会から排除することは、人間の想像力を枯渇させ、文化を衰亡させてしまう恐れもある危険な行為である。
・・・まあこういうわけでして、固っ苦しい話の後は、人類の叡智の一つの達成たる当ブログのマンガでも読んでお寛ぎ頂ければと存じます。はい。


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2 コメント

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Unknown (ヨミト)
2017-10-06 06:37:39
これまた大変興味深い内容でした。様々な実証的な例を採り上げ、快活に進んでいく論理が気持ちいいです。
ところで自分は以前、ブログは虚構、実生活は現実と棲み分けていたんですが、いつの間にか実生活で仮面を被り、ブログで本性を晒すようになってしまいました。
ですが、このブログを読んで、どちらも自分なんだなあーと納得してます。
またいろんな記事を読ませてください。
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ヨミトさん江 (徳丸無明)
2017-10-06 22:10:42
ありがとうございます。
「虚構と現実」という区分自体が人間特有のものですからね。
どちらも大切にしてこそ人間らしく生きていけるのではないかと思います。
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