徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

明星食品 みかさ監修 塩焼きそば

2020-06-12 21:40:19 | 
今回はどこぞの有名店監修のカップ麺塩焼きそばです。




前回、夏季限定の草刈りのバイトの話をしました。今回もそのときの話です。
草刈りの現場は基本太陽をさえぎるものがまったくない野っぱらで、作業中は直射日光を浴びまくりになります。平均気温がどんどん上がっている日本の夏。その夏の日中に野外で肉体労働していると、汗がとめどなく噴き出します。
僕は毎日持参していた2リットルペットボトルのポカリスエットを全部飲み干していました。会社も麦茶を用意してくれていたのですが、その麦茶も飲みつつ2リットルのペットボトルを空けていたのです。ちなみに、1回だけ熱中症になりました。
んで、当然衣服が汗まみれになるわけで、ポケットに入れている財布も汗で湿っぽくなったりしていました。ある日、特に発汗がひどかったとき、財布の内部まで汗が染みこみ、お札がビチョビチョになってしまったことがありました。財布の外側が濡れることは珍しくなかったのですが、その日は内側まで汗が攻め込んできたのです。
んで、その帰り道、コンビニに立ち寄りました。どうしても飲み物買いたかったのですが、ちょうど小銭がなく、お札を出すしかありませんでした。
そう、汗でビチョビチョになった千円札。買い物をするためにどうしてもそれを差し出すしかなかったのです。
僕はバイトの若い女の子にお札を手渡しました。女の子はごく自然に接してくれましたが、内心なぜお札が濡れているのかと驚いていたはずです。
そのお札はどうなったのでしょうか。そのままレジに入れて次の客のお釣りに使ったりはしてないでしょうが、なんらかの方法で乾かしたのでしょうか。バックヤードで匂いを嗅いで、「え、汗?」っつって顔を引きつらせたりしたのでしょうか。
思い出すだに恥ずかしい話です。バイトの女の子にはすごく申し訳ないことをしてしまいました。謝れるものなら謝りたい・・・。
皆さんにもありませんか?取り返しのつかない切ないメモリー・・・。人生というのはそんな出来事の積み重ねで出来ているのかもしれませんね。


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
「安倍ちゃんが着けてるマスク、小さくて不格好だよな」って毎日思いつつ過ごしてたら、ようやくアベノマスクが届きました。福岡でも4週間くらい前に配布が始まったんですけど、ウチにはなかなか届かずにいたんですよね。
僕ね、アベノマスクが届いたら、病院に寄付するつもりだったんですよ。自分じゃ使おうと思わないし、マスク不足が続いてましたからね。でも今はもうマスク不足もあらかた解消されたんで、質がいまいちのマスクもらってもありがた迷惑だろうし、あと通ってる図書館がマスク着用じゃないと入館できなくなったんで、訪館用に自分で使うことにしました。
アホの安倍ちゃんの、見当はずれのマスク配布。でもせっかくだから有効活用のため、図書館通いのために、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで使うことにしたのです。
臥薪嘗胆。捲土重来。質実剛健。徳富蘇峰。
撃ちてし止まんまほろばの。ここは御国を何百里。開けてぞ今朝は別れ行く。君死にたまふことなかれ。



キミはもう見たか?これがアベノマスクだ!













今、「マスク着けてない人が怖い」って声が増えてますね。僕は日常マスクを着用してないのですが、今後は「公の場ではマスクを着けろ」という無言の社会的圧力が高まっていくのでしょうか。マスク着けてないのを「マスハラ」って呼んだりとかしてね。
勘弁してほしいですね。マスク着用を強要するのなら、そちらのほうがマスハラだと思いますけどね。

顔、この動的なるもの

2020-06-09 21:52:25 | 雑考
佐々木正人の『からだ――認識の原点』(東京大学出版会)を読んでの気付き。
これは認知心理学者の佐々木が、「誰もがこの手でふれることのできる日常的な「からだ」が、知ること、考えることといった認識の世界と深くかかわりあっていることを明らかにする」ために、「いつも分析の対象として「語られる」ものであった」からだ自身に、認識の世界について「語らせた」・・・平たく言えば「からだ感」の刷新を図った本である。
この中で、『百年の孤独』の作者ガルシア・マルケスのルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』に記された、映画監督ミゲル・リティンの事例が取り上げられている。リティンは、軍政下にあるチリに密入国するため、自分自身に徹底した身体加工を施した。さらに、チリの反体制組織から派遣された2人の心理学者らによって、「金持ちのウルグアイ人にふさわしい話し方、歩き方、身振りのすべて」をたたきこまれた。
外見上リティンはまったく別人になり、変装は成功したかに思えた。しかし変装のエキスパートたちは、リティンに「笑ったら死ぬぞ」と忠告する。
このエピソードの紹介のあとに佐々木は、我々が他者の顔に見ているものは、静止した顔ではなく、表情をつくりだす表面の動きのほうなのだとして、次のように述べている。


顔の印象にとってその動きの要素が、いかに本質的な部分を成しているかは簡単に内省することができる。毎日会っている家族、あるいは懐かしい誰かでもいい、いま目の前に居ない者の顔を思い出して見ると容易にわかることだが、我々が知識として持っている「顔」はいつも、いくばくかの表情を帯びている。表情のない顔と言うものを思い浮かべることはできない。たしかに無表情という表情もあるが、それも動きが顔につくりだす表情の一種だろう。顔の見えはいつも表情のなか、すなわち動きのなかにある。しかし、顔面の筋肉の表情をつくるための動きはあまりにも微妙である。通常、我々は顔を見るということが、その動きを見ることでもあることに気づかない。我々が表情と呼ぶ顔のもっとも本質的な特徴のひとつが、動きに他ならないことを忘れている。


僕は自分の写真を見るときに、いつも感じている違和感がある。そこに写っているのが自分自身であるのは理解できるのだが、しかし自分ではないような気もするというか、普段鏡で見る自分の姿とは決定的に異なっているように見えるのである。(厳密には鏡に映った顔も自分の顔ではないのだが、話がややこしくなるのでそこは措く)
顔というものが、佐々木が指摘するように、常に変転し続ける動的なものだとするならば、「動き」を剥奪された顔はすでに、顔の特徴を備えていないことになる。
世の中には、写真を撮られることをひどく嫌う人がいる。そして、「自分は写真うつりが悪い」と称する人もいる。これらの人々は、「動きを剥奪された顔」に、強い違和感を感じずにはいられないのではないだろうか。動きのない顔に、言いようのない不気味さを感じてしまい、それをうまく言語化できないから写真を遠ざけようとするのではないだろうか。
写真は不気味だ。「心霊写真」というジャンルもある。それは詐術者が日銭を稼ぐ手管として、あるいはひねくれ者の現実逃避の受け皿としてあるのかもしれない。3つの点の集合を人の顔と認識してしまうシミュラクラ現象で説明するのも可能だ。しかしひょっとしたら、写真の持つ本来的な不気味さが局所的に集約されたものが心霊写真であるのかもしれないのだ。
写真によって切り取られ、永遠の静止空間に閉じ込められた顔は、顔であって、顔ではない。しかし、それは一体なんなのだろう。

ブログの利用について

2020-06-06 22:08:41 | お知らせ
おっす!
最近サイドバーに追加した注意書き・・・「このブログはリンクフリーです。文章の引用・転載・印刷も可。また、営利目的以外であれば画像(マンガ・イラスト)の無断転載・二次使用を認めます」について説明しておきます。
リンクフリーと、文章の引用・転載・印刷が可であるというのは、よくあるお断りだからわかりますよね。僕はひとりでも多くの人にブログを見てもらいたいし、自分の意見や思考を広めたい。なのでリンクや文章の切り貼りはご自由に、ということです。
それから「営利目的以外であれば画像(マンガ・イラスト)の無断転載・二次使用を認めます」という点。無断転載は禁止というのが普通ですが、僕のブログはその限りではありません。営利目的以外というのは、要するにお金儲けのためでなければ、ネット上に画像をばらまいてもいいし、イラストを印刷して塗り絵にしてもいいし、画像を加工してプロフ画やアイコンに使ってもいい、ということです。
そもそもアマチュアである僕には毀損される利益などありませんし、画像が拡散されればされただけ「見てもらえる」機会が増加する。自分のブログ外の場所であってもマンガを読んでもらえれば単純に嬉しいし、画像検索でこのブログにたどり着いてもらえるきっかけも増える。なんで見てもらえる機会を増やすためにも、画像を好きなだけ使ってくれてOK、とすることにしたのです。
ということで夜露死苦!

ソシオ工房 マウイチップス マウイオニオン味・ハワイアンサワークリーム味

2020-06-05 21:57:28 | 
今回はソシオ工房の堅あげポテトチップスです。北野エースっつーちょっといいお店で入手。カルディでも売ってるようです。






2018年の10月に、北九州の砂防ダムの中に2頭のイノシシが転落して出られなくなったっていう出来事がありましたよね。覚えてます?
あんとき役所に「はやく助けてやれ」って苦情の電話が相次いだそうですけど、そのほとんどが市外からの声だったんですよね。イノシシって地元じゃ畑荒らしたり人間襲ったりする害獣で、あんまり可哀想なんて思われてないけど、何も事情を知らないヨソの人たちは単純に同情しちゃったんでしょうね。
苦情の電話に対応した人たちは、「じゃあ助けたイノシシが農作物荒らしたり子供襲ってケガさせたりしたらお前責任取れんのかよ!」って反論したかったことでしょう。
んでね、僕もイノシシに関する思い出がありまして。
以前草刈りのバイトをしたことがありました。夏季限定の短期の仕事で、福岡市内の公共施設の敷地がおもな草刈り場でした。その中のひとつがゴミ処理場で、リサイクルセンターやテニスコートも併設されている、けっこう広いところでした。
草を刈るのは電動の草刈り機を使います。僕は草刈り機は使わせてもらえず、搔き棒という道具で、他の人が刈った草を掻き集める役目を仰せつかってました。
先に草刈り機を持った人たちがバリバリ刈っていき、僕はそのあとを追いかけて掻き集める。その流れの中で、草刈り機の人たちが遠くへ行ってしまい、僕はひとり取り残されてしまった時がありました。
そこは両脇を駐車場と道路に挟まれた細長い草地で、駐車場は土地が低くなっていて、草地からは飛び降りられないほどの高低差があり、道路と草地の間には植え込みがあって、行き来ができないようになっていました。
ずっと無心で掻き集めていたのですが、ふと顔を上げると、ずっと遠くで何かユラユラ動いているものがありました。僕は鳥かなと思って、そのまま作業を続けました。
するといつの間にか、その「何か」が、すぐ目の前に迫ってきていました。
それは、3頭のイノシシでした。うり坊よりは大きく、しかし成体には育っていない、言うならば「中高生」くらいのサイズの3兄弟でした。
3頭は食べ物を探しているのか、鼻を地面すれすれに寄せ、フンフンとにおいを嗅ぎながら歩いています。僕は突然のことに、強烈な感動に包まれて、固まってしまいました。恐怖は感じませんでした。
目線が低いためか、こちらが硬直しているせいか、3頭は僕に気づいていない様子でした。そして、僕の足元を横切り、そのまま歩き去っていきました。
そのゴミ処理場は小さな山に隣接されており、敷地内には「イノシシ注意」の看板もありました。イノシシと遭遇したときは背を向けたり走って逃げたりしてはならず、向き合ったままゆっくり後ろに下がらないといけないそうです。
敷地内にはほかにも、張りめぐらされた鉄柵が1カ所ひん曲がってるところがありました。イノシシが無理矢理くぐって通り道にしていたようです。草刈りで滞在してた期間中には、大人の大きなイノシシを目撃したこともあります(そのときはけっこう離れていました)。
まーなんつーか、福岡は都心ではあるんですけど、中央をちょっと離れると自然が割といっぱいなんですね。
命を大事に!ボクらはみんな生きている!ラブ&ピース!・・・という話だったかどうかは定かではないけど信じるか信じないかはあなた次第だというのは言われるまでもなく当たり前の話だと僕は思うんですけどあなたはどうですか?


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
巣篭り消費が習慣として定着したのか、ウーバーイーツもだいぶ増えましたね。一度の外出につき、少なくとも1人は見かけます。なんかウーバーイーツの人たちって、「オレってかっこいいべ?」ってオーラをプンプン出してますよね。スタイリッシュな自転車乗ってね。でもママチャリでやってる人もいますね。

日本でコロナが急増した頃から、「医療関係者の人たちに感謝しよう」という呼びかけが起こりました。それ自体は、すごくいいことだと思います。最前線でコロナの対応にあたっていた人たちは、自分の命も危うい中で、心身ともにすり減らしながら勤務していたはずですから。
でもこのような呼びかけは、「わざわざ呼びかけないと感謝を表明することがない」という日本人の習性を表しているように思えるんですよね。
感謝して当然の人、敬意を表して当然の人に対して、通常は感謝もしないし敬意も表さない。だからこそ「感謝しよう」という呼びかけをあえて行わなければならなかったのではないか、と思うのです。なぜ日本人はそうなのでしょう。
ひとつの大きな原因として、「お客様は神様意識」があるのではないか、と思います。客を絶対者としてあがめたてる態度。この言葉を最初に発したとされる三波春夫は、それとは違う意味で言っていたらしいのですが、とにかくこの国においては、客は絶対的なものとされています。
僕も以前接客業をやってましたが、客の中には、こちらが絶対に逆らわないのをいいことに、高圧的・侮蔑的な態度で接してくるろくでもないのがいました。社員からは「どんなことをされても客に逆らってはいけない」と教えられていました。何を言われてもハイハイと答え、理不尽な苦情にもスミマセンと頭を下げる。それが接客の絶対条件だったのです。
医者や看護師ってのは接客業ではないのですが、そのシステムや、金を払っているという状況が、接客業と同じであるとの類推をもたらし、高圧的な態度をとる利用者(患者)もいる。だから医療をサービスと誤解し、「金払ってるんだから医療行為たるサービスを受けられて当然」などと思い込んでしまう。

日本の接客(サービス)は質が高いとよく言われます。でもそれが客を増長させ、悪質なクレーマーを誘発している側面もある。
「覆面調査員」みたいなのもありますよね。普通の客を装って店に行き、従業員の態度や店内の衛生状態をチェックする、という仕事。
たしかに、それは接客の質の向上にはプラスに働くでしょう。でも、そこまで多くを望むべきでしょうか。
覆面調査のチェック項目には、「トイレの清掃が行き届いているか」というのもあります。しかし、従業員の数ギリギリで仕事を回していたら、キッチンとフロアだけで手いっぱいで、トイレまで見るゆとりがないということもあり得ます。事細かにチェックを入れていくと、「できるのにやらない」ことだけでなく、「ゆとりがないからできない」ことにもバツをつけられてしまう。
接客業は、「人に見られる」仕事です。だから完璧を求め、働きぶりを逐一チェックしていれば、いくらでも穴を見つけることができる。人に見られない仕事であれば、そんなことはありません。力を入れるところは入れ、適度に手を抜いて、緩急をつけることができます。仕事というのは、そちらの方が普通のはずです。ちょこちょこ手を抜かないと、やっていけない。
どうして接客業だけが、完璧を求められないといけないのでしょうか。
僕は福岡ドームでバイトをしていた時、1000円か2000円程度の入場料しか払ってない人が威張り散らしてくるのを相手にするにつけ、「わずかな金しか払ってないくせに神様ヅラすんじゃねーよ」と思ってました。
コロナが流行り出したばかりのころ、「マスクをつけて接客をするのはアリかナシか」という議論が起こりましたよね。その中で、「マスク姿で客に対応するのは失礼」という意見がありました。これなどは客の美意識の一方的な押し付けであり、いかにこの国で客が増長してきたかを表す言い分であると思います。さいわいと言うべきか、コロナ患者が急増する中で、マスクを認めないのは合理的でないとの考えが大勢になったこともあり、なし崩し的に店員のマスク着用は自明のものとなっていきました。

コンビニで買い物をするとき、バイトの子から不愛想な対応をされることがあります。僕はそんなとき、ムッとすると同時に、「でも接客なんてこの程度でいいよな」とも思います。
日本人は、サービスの質をひたすら向上させてきました。それは世界が称賛する、だれもが気持ちのいい接客の現場を築き上げました。
でも、気持ちがいいのはあくまで「受け手」の側です。サービスの担い手のほうは、その質の高さを維持するために、つねに汲々としていなくてはならない。だからそれについていけない人や、クレーマーの対応で心を病んでしまう人を生み出しているのです。
コロナをきっかけに、世界はそのありかたを大きく変えようとしている、と言われています。ならついでに、接客に対する意識、「お客様は神様意識」もまた考え直してくれないかな、と思います。
金を出してればそれだけで偉い、というのではなく、いろんな人がいろんなところで働いているからこの社会はまわっているのだという「おかげ様意識」。そんな、だれに対しても感謝の気持ちを忘れない心がけがあれば、世の中はもっと柔らかく、居心地のいいものになるはずです。