我入と入我我入観とはちがうということである。入我我入は三密成就して即身成仏を完成した状態
であるが、入我我大観は。身密”だけの一密成就法である。そこで、まだ、遥…密”とズ急密”の
二つが成就する法を修さなければならない。字輪観は、そのうちのズ急密”成就の法である。つま
り、仏の心のはたらきを観ずるわげであるから、その意味深遠であり、説明することも容易ではな
く、理解することもまたぎわめてむずかしい。当然のことであろう。この字輪観の説明だけで、一
冊、あるいは数冊の書物ができるほどのものであるから、くわしい説明はまた別の機会にゆずり、
ここではその大意を述べておこう。
真言密教では、本尊の種字の字義を観ずるのは浅略であるといい、その真言を観ずるのは深秘で
あるとし、その梵号の一々の字を観ずるのを最深秘とし、秘中の秘であるとする。では、その梵号
の一々の字を観ずるとはどういうことかというと、ふつうには、ア、、、ハ、ラ、カ、キャの五字を観
ずることになっている。それはなぜかというと、この五字は即ち「五大」の種字だからである。五
大とは、地・水・火・風・空の五大要素で、森羅万象、宇宙のあらゆるものはこの五大要素から成
り立つ。した、がって、われわれの肉身はこの五大から成り立ち、仏の肉体もまたこの五大によって
成る。ゆえにこの五大において我れと仏とは無二I体であるわけだ(これで身密も成り立つ)。また、
この五大に五智がふくまれている。このア乙ハこフーカーキ十の五字は、同時に五智の種字真言で
もあるから、五智獲得に通じ、これを観ずることはすなわち記忌密”の行になるとするのである。
であるが、入我我大観は。身密”だけの一密成就法である。そこで、まだ、遥…密”とズ急密”の
二つが成就する法を修さなければならない。字輪観は、そのうちのズ急密”成就の法である。つま
り、仏の心のはたらきを観ずるわげであるから、その意味深遠であり、説明することも容易ではな
く、理解することもまたぎわめてむずかしい。当然のことであろう。この字輪観の説明だけで、一
冊、あるいは数冊の書物ができるほどのものであるから、くわしい説明はまた別の機会にゆずり、
ここではその大意を述べておこう。
真言密教では、本尊の種字の字義を観ずるのは浅略であるといい、その真言を観ずるのは深秘で
あるとし、その梵号の一々の字を観ずるのを最深秘とし、秘中の秘であるとする。では、その梵号
の一々の字を観ずるとはどういうことかというと、ふつうには、ア、、、ハ、ラ、カ、キャの五字を観
ずることになっている。それはなぜかというと、この五字は即ち「五大」の種字だからである。五
大とは、地・水・火・風・空の五大要素で、森羅万象、宇宙のあらゆるものはこの五大要素から成
り立つ。した、がって、われわれの肉身はこの五大から成り立ち、仏の肉体もまたこの五大によって
成る。ゆえにこの五大において我れと仏とは無二I体であるわけだ(これで身密も成り立つ)。また、
この五大に五智がふくまれている。このア乙ハこフーカーキ十の五字は、同時に五智の種字真言で
もあるから、五智獲得に通じ、これを観ずることはすなわち記忌密”の行になるとするのである。