猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

教会の鐘はなぜなるのか、深井智明の『神学の起源』

2020-07-08 21:03:52 | 宗教


深井智明の『神学の起源』(教文社)はとてもわかりやすく、著者の聡明さにあふれている。
私の知らなかったことが、いっぱい書いてある。

教会の鐘は、結婚式を祝うためにあるのだ、と私は思っていた。ところが、教会の鐘は、教会が「時を支配」していることの象徴だ、と深井智明は教えてくれる。

朝だ、働くのだ、と教会の鐘が鳴る。昼だ、夕べだ、祈るのだ、と教会の鐘が鳴る。そして、人間の誕生と死をも教会が管理する。

もちろん聖書に、教会の鐘について、何も書かれていない。

イスラム教徒に追われた、地中海の教父や修道士がヨーロッパ内部の森に分け入り、文化的優越者として原住民を教化した。そのとき、教会は、世界を創造した全能の神の「代理店」になり、自然を支配し、時を支配することを示す必要があった。
それが教会の鐘だ。

深井智明はさらに教えてくれる。

神学はイエスの死とともに始まると言う。なぜか?

約束した終末は来ない。神の国は来ない。だから、終末は来ている、神の国は来ている、ただ、終末の「終わり」が来ていないだけ、終末が続いているだけ、と言う必要があった。そう、終末が2千年も続いている。

それでは、イエスの死は何なんだろう。尊い犠牲なのだ。しかし、それだと何のための犠牲なのかが問題にある。みんなの罪をかぶって、イエスが死んで、何が良くなったのか。何も変わってないではないか。それで、イエスが超越的なメシアになるために、十字架の上で死んで神のもとに戻る必要があった、と深井智明は言う。

それだけでは十分ではない。神の国が来るということは、そのままでは、王の支配が終わることになる。王の支配と教会とが両立するためには、神の国はこの世に来るのではなく、死後の世界のことであるとする必要があった。これによって、キリスト教は国教となれた。

しかし、それだけでも十分でない。天国だけでは、ひとびとは教会の言うことをきかない。教会は恐怖を与える必要がある。神学は地獄を発明した。そして、天国への入国許可書を教会が管理する根拠を与えた、と深井智明は言う。

神学は、現実への弁明である。

しかし、深井智明は、われわれはイエスに戻ることはできないし、意味がない、と言う。宗教は社会に合わせて変わり発展するのだ、と言う。

一方、私にとって、イエスは、辺境の地ナザレに、大工(日雇い工)の子として生まれた、反逆の人である。
宗教を商売のネタとしていた宗教都市エレサレムに攻めのぼって殺された人である。

このことを、もっと評価してよいはずである。
史的イエスにもっと興味をもってよいはずだ。