猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ウクライナ侵略戦争で私たちができること、過去を自省し まともな人を国の代表に選ぶこと

2022-03-29 23:20:28 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

きょうの朝日新聞への寄稿、李琴峰の『国家に領有される個人』に私は共感する。

《ウクライナ侵略戦争という事態について私は言葉をもたない。現に市街戦が行われ、民間施設が瓦礫と化し、人間が砲火に撃たれて死んでいるこの状況において、安全なところにいながら「ウクライナは徹底抗戦しろ!」と煽るのも、「これ以上犠牲を出さないためにウクライナは降伏すべきだ」とすまし顔で論じてみるのも、無責任極まりないだろう。》

彼女はそう言って、自分の過去、台湾の学校での体験を振り返る。そして、国家が軍事訓練、軍国思想を押しつけてきたことを語る。

このことは、形が一見柔らかくても日本でも同じだ。自分が生まれたときから存在する国家、何が正しいかを押しつける国家、それから自分を切り離し、対等な立場から国家というものを見ること、これこそ、真の「個人主義」と私は思う。「自由」というとき、一部の人だけが「自由気ままにふるまう」のではなく、みんなが平等に「自由」を楽しめるのが「自由主義」である。「自由主義」とは「私的所有バンザイ」「格差肯定」であってはならない。

ウクライナ侵略戦争を止められない私、ウクライナ侵略戦争を止めないアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ。ウクライナの町が瓦礫と化し、人が死んでいるのに、無責任にウクライナは善戦しているとの報道するメディア。

私たちがすべきことは、届く範囲で、まともな人をリーダとして選ぶことではないか。

日本には、米軍基地が至るところにある。横浜市は、厚木の米軍基地と横須賀の米軍基地に挟まれている。アメリカは中国は敵国だと叫ぶ。アメリカが中国と戦争をすれば、当然、ミサイルが横浜市に飛んでくる。アメリカと中国が戦争をしているのに、米軍基地がある日本だけが、戦争の輪の外にあることができると思えない。なぜ、日本にアメリカの軍事基地があるのだ。日本をアメリカが占領したなごりでないか。なぜ、それがまだあるのか。1980年代の日米経済摩擦でアメリカ政府に許してもらうため、日本政府は米軍に日本の土地を提供続けるだけでなく、基地の維持費も払い、しかも、アメリカで古くなった兵器を高い価格で買っているのではないか。

日本の学校教育で、規律、集団行動を押しつけるのは、昔の軍国主義を懐かしむ集団の陰謀ではないか。あるいは、国家の存在を否定する「個人主義」が広がらないための陰謀ではないか。

明治時代、「和魂洋才」という言葉があった。「和魂」とは「下が上を尊ぶこと」、「洋才」とは「生産技術を学ぶこと」だった。そして「富国強兵」「アジアの盟主」の目標のもと、アジアに侵略を行った。その帰結として「加害者」になったため、アメリカが日本各地に大空襲を行い、ウクライナと同じように無差別に人を殺したことを、後ろめたさのある日本政府は戦争犯罪として訴えていない。どれだけ、日本人が空襲で死んだかの国の調査も行われていない。100万人前後かもしれない。また、ソ連(ロシア)は満州にいた日本人約60万人を連行し、シベリアで強制労働に課した。そのうち、5万8千人が強制労働で死んだと言われる。

ウクライナは他国を侵略していない。

「武力で国際紛争を解決しない」という立派な日本国憲法を変えようという輩(やから)を議員に選ぶ日本人がいるとは、情けないではないか。

アメリカが核をもっていてもロシア軍のウクライナ侵略を止められないのに、アメリカと核を共有しようという信じられないバカなことを言う政党が日本にあるのは、どうなっているのだろうか。「核共有」とは、日本の米軍基地に核を配備することにすぎないのに。


翻訳不可能性、小説『日の名残り』の「品格」と「美しさのもつ落ち着き」

2022-03-29 00:05:24 | 思想

カズオ・イシグロの小説『日の名残り』(中公文庫)を読んでいて、土屋政雄の翻訳があまりにも見事で、本当にカズオ・イシグロの小説“The Remains of the Day”を読んでいるのか、気になりだした。

最初にひっかかったのは、土屋が「品格」と訳しているものはイシグロのなんであるかだ。横浜市の図書館には幸いに外国語の蔵書が多少ある。早速、“The Remains of the Day”を借りて読みだした。

土屋が「品格」と訳しているものは、イシグロの“quality”と“dignity”だった。

イシグロは、最初、イギリスの田園風景の美しさに言及する。他国の風景が持ちえない“quality”をもっているという。土屋はこれを「品格」と訳す。

イシグロはイギリスの風景の美しさをつぎのように書く。

What is pertinent is the calmness of that beauty, its sense of restraint.

これを土屋は「問題は、美しさのもつ落ち着きであり、慎ましさでありますまいか」と訳す。

イシグロは、執事のミスター・スティーヴンスに、このイギリスの風景の美しさから、もう1つのイギリス的なもの「執事」を連想させる。ここでも、はじめは“quality”という語を使い、秀でる同業者を讃える。土屋はこれも「品格」と訳す。執事のこころ中でのしゃべりが高まると“quality”ではなく、“dignity”をイシグロは使わす。しかし、土屋は相変わらず、「品格」と訳す。

イシグロの小説の後半で、上等のスーツを着て立派なフォードのクラシックカーに乗っている執事のミスター・スティーヴンスを村人は名士と間違える。村人は彼がどこか違うと騒ぎ立てるが、執事はついそれは “dignity”だと答える。これも土屋は「品格」と訳している。村人のばか騒ぎは執事のこの一言でさらに大きくなる。イシグロは、宿の女主人に「ああいう人は、偉そうにふるまうことをdignityと勘違いしているから困るわねえ」と言わす。政治談議の好きな村人ミスター・スミスにも「dignityってのは、紳士だけのもんじゃないと思いますよ」と言わす。

翌日、村のただ一人の教養人、村医者にあなたは本当は執事だろうと言われる。ここで、執事は自分が村人の前で“a comic figure”であったのではと思う。土屋はこれを「道化」と訳している。村医者と執事の会話も“dignity”を使っている。土屋はここでも「品格」と訳している。

日本語と英語とは翻訳不可能である。日本とイギリスとは文化が違う。だいたい、“Mr”を「様」と訳したり、「ミスター」と訳したり、土屋はずいぶん苦労している。また、英語にない敬語、とくに謙譲語を執事に使わせたりしている。英語では身分の差が発音や文法の精確さに現れるが、翻訳では、村人に江戸弁を使わすことで、教養の差を表現している。私の父は江戸弁を話すので、こういうふうに江戸弁が使われるのは不快だ。

土屋の訳では、イシグロが、小説を通して、執事のミスター・スティーヴンスにこれからアメリカ的ジョークを学んで使おうと言わせているのがなぜかわからなかったが、イシグロの原作を読んでわかった。執事をとおして描かれるイギリス的なもの、これは、軽いジョーク、お笑いにすぎないということなんだ。可哀そうかもしれないが、壊れるべきして壊れるものにしがみついて、過ちをおかしてきたのだ。

いっぽう、私は、イギリスの田園風景のもつ”the calmness of that beauty”は、民主主義の世になっても残る気がする。calmness、quality、dignityは日本語に訳せない。