先週の日曜日ときょう、朝日新聞に『(フォーラム)働く20代のモヤモヤ』という記事がのった。
「上の世代と違い、生き方をめぐる選択肢が無数にあるからこそ、迷いは尽きません。今の働き方と、結婚や子育てとの両立はかなうのか。仕事の悩みのとどう向き合っているのか。モヤモヤを抱える20代の本音を同世代の記者が探ります。」とある。
記事を読んでも、その「モヤモヤ」がわからない。生き方をめぐる選択肢は昔から無数にあった。この記者が「上の世代と違い」というからは、いまは選択肢が多数公認されて、どれを選ぶか個人が迷っているだけのように読めるが、そんなことはあり得るはずはない。私たちはほかの人に支配されているのである。管理されているのである。「秩序」というとき、人間の上下関係がすみずみまではりめぐされていることを指す。自由がないのである。
私自身は他人に仕えることが嫌いである。外資系に務めても、自分のやりたいことを主張して、上司と争ってきた。昔の同窓生と話してもそれぞれの職場で同じ体験をしている。
「モヤモヤ」とは闘わないことを選択しているからではないか。闘わないことを選択したため、「モヤモヤ」を感ずるのは正常なことではないか。人間は、強いものを前にして、闘わずして従うことを選択するのは不思議ではない。
<勤務形態や待遇に不満を言ってもどうしようもないから、サウナかジムに行き、汗と一緒に流すことにしている。>
<個人の意見を通すことが良しとされていないと、寝るか飲むかで受け流すの一番うまくいく>
「モヤモヤ」とは、本来、怒りで体が震えるところを、なんとか、自分を無理になだめて、国や社長が正しいと自分を騙しているが、騙されない自分が心のどこかに残っているからである。
もしかしたら、「モヤモヤ」ではなく、うつ状態になっている人も多いのではないか。
侵攻してくるロシア軍と戦って、ウクライナの国民のように、ロシア兵を殺すことができなくても、あるいは、ためらっても良いのである。選択肢の1つである。身勝手な上司を窓から突き落として殺さないのも1つの選択肢の1つである。闘わないのも選択肢である。
しかし、戦わなくても、自分を騙すのは、心の平和のためには、いけない。
国家というのは、支配階級が他の人びとを管理する仕組みである。普通の人にとって、個人にとっての幸せと国家の利益と合うはずがない。企業が国が「女性活躍のための取り組み」というとき、女性のことを思っているはずがない。
確かに、私の経験では、善い人と悪い人が争えば、悪い人が勝つのが普通である。善い人は現世での成功にこだわらず、善い人であることを選択した喜びにひたるしかない。人間は弱いから、本音が話せる同僚や仲間をもつのも自分の心の安定に役立つ。それに、不完全ながらでも、日本では、みんなに平等に選挙権がある。どうして、棄権する人がいるのだろうか。
自分の思い、考えを述べたからと言って、会社から解雇されるのはオカシイ。解雇がしやすくなるように法律を変える日本維新の会に投票する人だけでは困るではないか。
投票権の行使で政治を変えることができる。社会を変えることができる。
私の子ども時代は赤旗が町になびき、ストライキがばんばんあった。いまの心優しい20代がこのような威嚇や暴力的手段が嫌いというのもわかる。闘わなくても、自民党、日本維新の会、国民民主党以外に投票して、政治を変えられるのである。
「モヤモヤ」は自己欺瞞の結果出てきた心の病気のはしりである。自分を肯定し、話せる仲間を見つけ、自分ができる範囲の行動を選択肢し、「モヤモヤ」を吹っ飛ばそう。国家は個人の味方ではない。雇用者と被雇用者が存在する社会はオカシイ。