猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

カリコー・カタリンのノーベル生理学・医学賞を受賞を祝福したい

2023-10-03 17:57:53 | 科学と技術

カリコー・カタリン(Katalin Karikó)が、きのう、今年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。これを、日本の各メディアは大々的に報道し、彼女を祝福した。他国の科学者の受賞にこれほど騒ぐことは、劣等感が強くて 心の狭い日本人の社会でこれまでになかったことだ。

彼女の長年のmRNAを科学的基礎研究のおかげで、猛威を振るった新型コロナウィルス(COVID-19)に対するmRNAワクチンを着手から数ヵ月で開発できた。だから、彼女が必ずノーベル賞を受賞すると私は強く思っていた。

しかし、これだけ多くの人が賞賛するのは、彼女の科学的偉業だけでなく、苦難に満ちた人生に負けない彼女の科学への情熱にだと思う。

ポプラ社は今年の8月に『カタリン・カリコ mRNAワクチンを生んだ科学者』を子どもたちのために出版した。ポプラ社のサイトの本書の紹介には、「研究費が出なかったり、降格させられたりなど、さまざまな憂き目にあいながらも、あきらめることなくRNA研究を続けてきたカタリン・カリコ氏」とある。

ウィキペディアでの彼女の名前が、カタカナ表記「カリコー・カタリン」と英語表記”Katalin Karikó”と語順が違うのは、彼女がハンガリー生まれハンガリー育ちだということを強調したいからだ。彼女自身もハンガリー人であるという意識が強く、ハンガリーとアメリカの二重国籍者である。

彼女は大学院時代からハンガリー有数の研究機関であるセゲド生物学研究所でRNAの研究をしていた。YouTubeでみると、彼女は講演でRNA(アレネイ)を「オラニー」と発音しているが、ハンガリー訛りかもしれない。

1985年、30歳のとき、共産主義経済の行き詰まりからセゲド生物学研究所が縮小され、彼女は解雇された。ハンガリー国内で研究を続ける先を見つけらず、欧米各地の教授に求職の手紙を書き、ようやくテンプル大学のポストドクター研究員の職を得て、夫と2歳の娘ともに、アメリカに渡った。

私も、1977年、29歳のとき、妻とほぼ2歳の息子とともに、ポストドクター研究員の職を得て、カナダに渡った。

カリコー・カタリンはアメリカで生活に困窮したようだ。夫はハンガリーではエンジニアだったが、アメリカでは清掃員の職しかなかった。

カナダにいたとき、私の友達になった大学の清掃員(ジャニターと呼ばれる)はギリシアからの移民だった。故国では教師だったと言っていた。

テンプル大学の研究環境はセゲド生物学研究所より劣悪だったようだ。彼女がテンプル大学で働いていた1988年に、ジョンズ・ホプキンス大学の教授から職のオファーが彼女に舞い込んだ。しかし、テンプル大学の教授が「ここに残るか、それともハンガリーに帰るか」という二者択一の選択を彼女に迫り、その選択に彼女が迷っているうちに、教授はジョンズ・ホプキンス大学に対して、採用を取り下げるよう手をまわした。同年にテンプル大学の雇用も、ジョンズ・ホプキンス大学の採用もなくなり、彼女は追い詰められた。そのとき、日本の防衛医科大学校の病理学科での一時雇用が彼女を救ったという。

一般に、アメリカでもカナダでも職がなくなったとき、移民は不法滞在となる。雇用者が移民に対し絶対的に優位なのだ。

1989年、彼女はペンシルベニア大学の心臓外科医エリオット・バーナサンに研究助手(research associator)として雇われた。非正規である。日本では「助手」のことを現在「助教」というので、日本語ウィキペディアでは「研究助教」と記されているが、変な言葉である。

私も、1979年にポスドクから研究助手になった。1981年に大学での研究をあきらめ、日本に帰り、外資系の会社で研究職についた。

彼女はあきらめることなく、それからも「研究費が出なかったり、降格させられたりなど、さまざまな憂き目にあいながら」RNAの研究を続ける。彼女の夫も娘も、彼女の研究生活を支えた。いい話である。

2020年に彼女らの長年の研究成果のおかげで、新型コロナウイルスのゲノム情報解読から2日後の1月13日にはワクチンの基本設計が完成したという。人での安全性を確かめる臨床試験も3月16日に始めることができた。

彼女が、学会などから色々な賞をうけるのは、mRNAワクチンを短期間で開発した2020年以降である。それまで、学会では注目されず、賞を受けることもなかった。

私は今回の彼女のノーベル賞受賞を祝福したい。そして、彼女が、解雇される不安がなく、研究に専念できる職位が与えられることを願う。