中世の人々がなぜ「極楽往生」、すなわち、死んで「極楽浄土」に生まれ変わることをそんなに強く願ったのか、実は私にはわからない。
拷問を受けながら死ぬのは、痛いからいやだが、死ぬこと自体には、不安も恐怖もない。そう思うのは、私だけではないと思う。昔の刑死では、苦痛を味合わせて時間をかけて殺す。死自体は恐怖ではなかったからだ。
佐藤弘夫の『鎌倉仏教』(ちくま学芸文庫)を読むと、自分のことしか考えない正統派仏教に反逆する法然、親鸞、日蓮に感動するが、呪術に縛られた中世であろうとも、民衆が「極楽往生」をなぜ願うのかわからない。
人生が「苦」であれば、死ぬことで「苦」が終了する。
「極楽往生」を願うのは「坊ちゃん、嬢ちゃん」だけではないか、という気がする。親鸞や日蓮に手紙を出し、信仰上の疑問を問うたのは、地方の教養もお金もある有力者であった。彼らの手紙から当時の民衆の心を推測するのは危険でないか。
「鎌倉仏教」の本当の価値は、信仰を通じて、民衆が互いに結びつくキッカケを与えたことではないか。搾取にさからう団結のもとを与えたのではないか。「極楽往生」はどうでも良かったのではないか。
原始仏教は、輪廻、すなわち、生まれ変わりを否定しない。不思議なことに、悟りを開いた人だけが、輪廻を免れる。
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『スッタニパータ「釈尊のことば」全現代語訳』(講談社学術文庫)の大いなる章の第10経、コーカーリヤの経では、弟子のコーカーリヤが釈尊に、三度、弟子のサーリプッタとモッガッラーナとの悪口を言う。
そのためにか、コーカーリヤの全身にケシの種ほどのできものができ、それが小豆ほどの大きさになり、ついで大豆の大きさに、次々と大きくなり、最後に破裂し、膿と血が流れ出る。死んで「パドゥマ(紅蓮)地獄」に生まれ変わる。
鉄の串で突きさされたり、熱した鉄の塊を食べさせられたり、鉄の槌で引き伸ばされたり、火が一面に燃えさかっている銅製の釜で煮られたり、黒犬や山犬や大カラスの群れに噛みつかれる。
そして、この地獄に生まれ変わった人の寿命は非常に長いのである。死にたくても、なかなか死ねないのである。
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経典では、地獄での拷問がどのように苦痛なものか、書かれていないが、当時 実際に行われていた刑罰なので、読み手はその苦痛を想像できたのであろう。
この経典のいやらしさは、誰がコーカーリヤを殺したのか、明らかにしないことだ。これに限らず、スッタニパータは読めば読むほど腹が立つ話が多い。
地獄は、民衆を恐怖で抑圧するために仏教教団が創作した虚構である。
中世の民衆が「極楽往生」を願ったのではなく、「地獄」に行きたくなくて、「南無阿弥陀仏」「ナンマイダ」と唱えたのではないか。
そういえば、私も小学生のとき、修学旅行先の寺院の地下に地獄の展示があり、夢にまで見てずいぶん怖い思いをした。
原始仏教では、悟りを開いた人たち、ブッダたちは、死んでも生まれ変わらないのだから、「極楽浄土」に集まることはない。すると、仏教が日本に伝わったとき、すでに変質していて、キャバレーのように、虚構の世界「極楽浄土」を語って、寺院の僧侶らは貴族からお金を巻き上げていたのではないか。寺院の金ぴかの仏像なんて怪しいではないか。
もちろん、私は21世紀に生きているから、地獄の存在を信じないで済む。
私にとって、死ぬということは、意識がなくなる、つまり、自己がなくなるにすぎない。自己とは単に記憶という神経回路の営みにすぎない。オバマ大統領が「グッドラック」と言って大統領を辞めたように、「みなさんお幸せに」と言って、私もいずれ消えるだけである。この言葉は、姜尚中の息子も書き残していたような気がする。
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