猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

山本一郎の戯言「菅義偉さん、日本学術会議に介入」に反論する

2020-10-03 23:25:28 | 日本学術会議任命拒否事件


昨日、47歳の山本一郎が文芸春秋オンラインで、菅義偉による日本学術会議6名の任命拒否の件を茶化していた。

『菅義偉さん、日本学術会議に介入して面白がられる一部始終』で、彼が指摘した論点はつぎのようになる。

(1)学問の自由は幻想である。
(2)菅首相が拒否したのは特定個人の理由もなく行きあたりばったりで、総理大臣に任命権があるのを見せつけたかったからである。(パンドラの箱をあけたかっただけである。)
(3)日本学術会議は決議という形で政治的発言をしている。
(4)菅よりも加藤信勝官房長官のほうがのらりくらりしている。

山本一郎はバカではないか。そんなことを得意げに話さなくても、だれでも知っていることである。政治とは、利権争いである。誰のために何を争うかが問題である。

エンツォ・トラヴェルソは『全体主義』(平凡社新書)のなかで、つぎのように書いている。

〈1914年までは、ヨーロッパの大部分の国々で、アンシャン・レジーム、また支配的な上流階級の社会習慣とメンタリティが生きのびていた。〈現実に存在する〉自由主義は、ブルジョアと貴族の共生であり、制限選挙と労働者階級排除のもと、たしかに民主主義とはかけ離れたものだった。とはいえ、古典的自由主義の根本的な特徴は――分権、複数政党、公的機関、憲法による個人的権利の保障(表現の自由、信教の自由、居住地の自由など)――全体主義とは両立しえない。〉

トラヴェルソは、何を言っているかというと、現在、あたりまえかのように教えられている「自由」は、ブルジョア民主主義の概念であるが、「全体主義」と対抗する武器となる、と言っているのだ。「学問の自由」もその1つである。

日本国憲法 第23条 「学問の自由は、これを保障する。」

72歳の私が学生のころまで、「大学の自治」というものがあった。現在、これはない。東京大学も政府の管理の下にある。総長の選任にあたって、政府や財界が総長推薦リストの作成に加わるようになった。

「学問の自由」が幻想なら、すべての市民的「自由」も民主主義も幻想である。しかし、そんなことを持ち出して茶化して何の意味があるのか。

「学問の自由」は個人が数学を研究する、物理を研究する、法律を研究するという、単なる学問の選択の自由ではなく、「市民として行動するために真理を知る自由」であって、啓蒙思想からくる。みんなが知識をもって賢くなれば、みんなが幸せになる、という考えである。

その反対が愚民思想で、専門家が政治を行えばよい。たとえば、携帯の通信費をさげれば、若者はそれで満足するという考え方である。この考えでは、政治家、官僚のあいだに腐敗がはびこる。

山本一郎は日本学術会議が軍事研究に反対する声明を出したことを暗に非難しているが、そういう声明をだせる社会のほうが健全ではないか。

山本一郎は彼の戯れ言(ざれごと)をつぎで終える。

〈菅義偉さんが「どくさいスイッチ」でも手に入れたら躊躇なく全力で高橋名人ばりの連打をしかねない恐怖感を感じさせつつも、大学や研究室などにはびこる中華浸透に対する対抗も辞さずに張り切って政権運営をしていっていただければと願っています。〉

彼の学問への劣等感からくる戯言に返す言葉として、丸山眞男の言葉「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」を返す。

[蛇足]菅義偉は、経済政策を含め、「大日本帝国」への復帰を夢みて「日本会議」とタグをくんでいる。現実主義が「抑圧」の肯定なら、私は受け入れるわけにはいかない。ナチズムやファシズムの考え方である。

菅義偉の日本学術会議会員6名の任命拒否は 民主主義的価値観の否定だ

2020-10-02 23:40:17 | 日本学術会議任命拒否事件


新総理大臣の菅義偉が、日本学術会議の推薦する新会員候補者のうち、6名の任命を拒否した。これに対し、日本学術会議は、任命拒否の理由を明らかにすることと、拒否された6名の任命を要望している。

これは、菅が欧米のブルジョア民主主義的価値観を尊重するかどうか、の試金石となっている。現状は、ブルジョア民主主義的価値観「学問の自由」を菅は否定したことになる。

日本学術会議の会員は210人からなり、任期6年で再任はない。3年ごとに会員の半分が入れ替えになる。日本学術会議法の第1条によって、日本学術会議は内閣総理大臣の所轄で、その経費は国庫の負担とされる。日本学術会議は国費負担だが、しかし、国の行政下部組織ではなく、第3条に、政府から「独立して」科学に関する重要事項を審議し、その実現を図り、また、研究の連絡を図り、その能率を向上させる とある。

問題は会員の選定であるが、日本学術会議法の第7条の2項に「会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」、そして第17条に「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」とある。

欧米のブルジョア民主主義では、推薦し任命するとあれば、推薦されたら、そのまま任命するのが原則である。それが「学問の自由」である。19世紀末のプロセイン帝国の大学教授の任命でも、大学教授会が推薦した候補者をそのまま政府が任命するのが原則であった。

日本学術会議の会員の選出は、1984年に、学者間での選挙で選ぶ方法から、現在の研究分野ごとに候補者を推薦し、その推薦に基づいて総理大臣が任命するという形式に改正された。この前年の5月の参議院文教委員会では、委員から「推薦された方の任命を拒否するなどということはないのか」との質問に対し、当時の内閣官房総務審議官が、「実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません」と答えている。また、同じ年の11月の参議院文教委員会で、当時の総理府の総務長官は、「形だけの推薦制であって、学会のほうから推薦をしていただいた者は拒否しない、そのとおりの形だけの任命をしていく」と答えている。

そして、5月に答弁に立った当時の中曽根総理大臣は、日本学術会議について「独立性を重んじていくという政府の態度はいささかも変わるものではございません」、「学問の自由ということは憲法でも保障しておるところでございまして、特に日本学術会議法にはそういう独立性を保障しておる条文もあるわけでございまして、そういう点については今後政府も特に留意してまいるつもりでございます」と述べている。

「学問の自由」とは、教養や理性の価値に敬意を払い、学問をする人々を、利害にもとづき争う政治に巻き込まず、学問に専念させることが社会にとって有益という考えに基づく。ブルジョア民主主義的価値観と言ったのは、19世紀末に市民社会に生まれた考えであり、第1次世界大戦後、ファシストやナチがこれを否定したからである。第2次世界大戦後、「学問の自由」という考えは復活した。日本にも学術会議が生まれた。

多国籍企業IBMにもアカデミーオブテクノロジー(Academy of Technology)という会員組織がある。これも、会運営経費は会社負担で、取締役会に技術戦略を提言する。会員が新規会員を推薦し、会員の投票で新規会員が決まる。アメリカでは定年制がないので、任期は本人が死ぬか辞職するまでである。

一企業であっても、欧米では、科学者、技術者に尊敬の念をもち、独立性と自由を容認しているのである。

今回の推薦された会員の任命拒否は、欧米から見れば、ファシストやナチと同じく、市民社会の価値観「学問の自由」の否定に見えるだろう。じっさい、菅は極右組織「日本会議」の意見に従ったように見える。拒否された6名は、別に左翼ではなく、市民的価値観からかつて「安前保障関連法案」や「共謀罪」に反対意見を述べただけである。これで拒否されれば、「学問の自由」「表現の自由」が侵害されたことになる。

「叩き上げの首相」とはファシストやナチのことだったというのが現時点の私の感想である。

約40年精神科病棟に閉じ込められた69歳の男の国への賠償訴訟

2020-10-01 21:12:57 | こころの病(やまい)


きょうの朝日新聞に、計約40年精神科病院に閉じ込められた69歳の男が、国に3300万円の賠償を求めて、9月30日、東京地裁に提訴したとあった。

彼は、16歳で統合失調症を発症し、1973年、福島県の精神病院に転院後、退院したいと医師に訴えたにもかからず、そのまま、閉じ込められ、2011年の東日本大震災、福島原発事故で茨城県の病院に避難し、翌年、医師から退院してグループホームに行くよう勧められ、61歳で精神科病棟からようやく脱出できた。

朝日新聞によれば、訴えはつぎのようである。

〈原告側は、1968年に世界保健機関(WHO)の顧問から長期入院の改善を勧告されるなど、以前から問題が指摘されてきたのに、50年施行の精神衛生法(現在の精神保健福祉法)で定められた、家族らの同意があれば入院できる同意入院(現在の医療保護入院)の要件があいまいなままで、地域移行への予算も不十分などとして「国は実効性のある退院措置を講じなかった」と主張。地域生活の自由を奪われ、憲法が保障する幸福追求権や居住・移転及び職業選択の自由を侵害されたと訴えている。〉

精神科病棟に患者が閉じ込められるというハリウッド映画が昔からあった。1960年代に閉鎖病棟のあまりに環境の悪さにびっくりした米国民は、精神疾患の治療は通院の形でという運動をはじめ、精神科病院もできるだけ退院させるよう努力した。

統合失調症であれ双極性障害であれ、急性症状を引き起こしているのは、一時的である。したがって、現在、日本でも、入院は原則本人の同意によってであり、薬で症状がコントロールできるようになると、通院となる。閉鎖病棟もなくなり、病棟に自由に出入りができ、部屋もきれいになっている。

ところが、いっぽうで、昔、精神科病棟に閉じ込められた患者は、長く閉じ込められたまま、老いていくうちに、気力もなくなり、戻るところもない。現在、精神科病棟に行くと、年寄りばっかりが入院している。

彼の場合、大震災で病院を移ったおかげで、良心的な医師に出会え、退院を進められると同時に、グループホームという住む場所をあたえられた。ほんとうに彼は幸運であった。

しかし、本来は、国の制度として、退院できる状態かどうかを、第3者の医師の目で判定される権利が患者にあるはずだ。患者が訴えれば、客観的な判定をうける退院判定制度を、アメリカでは、1960年代末に国が作ったと記憶している。(判定会の場をハリウッド映画でみたような気がするが、小説だったかもしれない。)

また、退院後の住む場所を地域社会は提供する必要がある。ところが、悲しいことに、グループホームをつくるとなると、日本では、時価が下がると反対運動が起きる。私の住んでいる場所の近くでも反対運動が起きている。

今回の訴訟を期に、メディアも精神疾患の患者への偏見を壊し、地域社会で共生できるようにしてほしいと願う。