猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ヤンキーな安倍晋三、ヤクザな菅義偉という記事を考える

2020-10-08 23:02:30 | 叩き上げの菅義偉


9月30日の朝日新聞の《多事奏論》に高橋純子が、「ヤンキーな政治からヤクザな政治へ」と書いていた。「ヤンキー」とは安倍晋三を、「ヤクザ」は菅義偉を指す。

私は、中学時代、不良少年少女との付き合いが多かったが、「ヤンキー」と言われてもピンとこない。「ヤンキー」とは何か、高橋純子は、斎藤環の指摘した特性を記事で引用している。

〈「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」という感性〉
〈ヤンキーには、『いま ここ』を生きるという限界があって、歴史的スパンで物事を考えることが苦手です〉
〈徹底した実利思考で『理屈こねている暇があったら行動しろ』というのが基本的スタンス。〉

これって、一言にいえば、頭が悪いということではないか。

安倍はチャラチャラしていたが、私は頭が悪いと思っていない。天下取りという執着心はあるが、国民のためにとは、はじめから思ってはいない。安倍が「戦う政治家」になった動機は、祖父や大叔父のことを悪くいう革新勢力を征伐したいということだ。暴力を肯定していて残酷だが、それを人にやらす。

それでも、安倍の面白いところは、国民に受けたいと思って、いろいろと言葉に凝る。しかし、多弁であるが、人の話を聞かずに、一方的に話す。祖父も大叔父も他人と議論できる人ではなかったのであろう。安倍にとって、人生とは、勝つか負けるかの闘いの場であろう。人間に序列をつける思想の持ち主だ。

いっぽう、「ヤクザ」は容易にイメージできる。暴力で人を脅かす人だ。

安倍政権で、安倍晋三に代わって暴力をふるっていたのが、菅義偉だ。彼にとっても、人生とは、勝つか負けるかの闘いの場であろう。

菅は安倍と違って多弁でない。たぶん、教養がないことに劣等感をもっているのだろう。その点において、菅は頭が悪い。言葉を発しない。それを補うものとして、人を恫喝する。総理大臣になっての、最初の恫喝は、自分に従わない官僚は追い出すと言ったことだ。つぎには、何も言わずに、日本学術会議の6人の会員任命を拒否した。放送界にも電波停止の恫喝を行っている。

ヤクザな菅の強みは、国会多数派の自民党の総裁で、総理大臣であることだ。総理大臣であるから偉いと思うバカがいるからだ。おまけに、名前の最後の漢字が「偉い」である。もうひとつは、菅の「叩き上げ」のイメージである。

「叩き上げ」だからと言って、人を恫喝している菅のどこが偉いのか。「叩き上げ」なんて全国どこにでもいる。「叩き上げ」なら、苦労というものがわかって、人に優しいはずだ。彼にその優しさがない。菅はちゃんとした家に生まれ、家族は教師になったり、まっとうな仕事についているのに、本人は勉強も嫌い、やりたいこともないと、ふらりと東京に出ただけであった。

そこで、菅は極右思想に染まった。天下取りのため、寝食を忘れて、働いた。誰のために?単に、自分のためだ。なぜ、そんなに、暴君になりたいのか、わからないが、劣等感が強いのだろう。

民主主義社会は、自由と平等を基本とする。劣等感を持つ必要がない。劣等感は人間に序列があるという考えがあるから生じる心の病(やまい)だ。人間が人間にたいして闘うことはいらない。人間が人間を恫喝することもいらない。民主主義社会の政治は、国民への行政サービスを監視し改善することである。みせかけの実利を示して、国民を騙すことでもない。

学問の自由は啓蒙思想にともなうもの、カントの『啓蒙とは何か』

2020-10-07 23:00:50 | 思想
 
日本国憲法の国民の権利の1つに「学問の自由」がある。日本語ウィキペディアでは、「学問の自由は、研究・講義などの学問的活動において外部からの介入や干渉を受けない自由」と書かれているが、そのような狭いものではない。
 
「学問の自由」とは「啓蒙思想」と結び付いており、「思想信条の自由」「表現・出版の自由」と不可分のものである。そして、歴史は古く、ブルジョア民主主義のなかで生まれたもので、これを排斥するのはファシストかナチスかスターリニストぐらいだと思う。
 
ここでは、イマヌエル・カントの1974年の論文、『啓蒙とは何か』(岩波文庫)から、考えてみよう。原題は “Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung”である。
 
「啓蒙」とは、英語で “enlightment”、ドイツ語で “Aufklärung”である。英語の語義は、闇に光を照らし、何が正しいか明らかにすることである。他人に働きかけるというニュアンスが強い。ドイツ語の語義は、濁りをなくして明確にすることである。自分を自立したものにするというニュアンスが強い。
 
カントは、「啓蒙」とは、他人に管理(Leitung)されていなければ、何をなすべきか、何をなしていけないのか、判断できないという状態から抜け出ることだという。そして、個人が、その状態から抜け出ることは、怠惰と憶病が故に、むずかしいという。
 
ところが、個人でなく、公衆(Publikum)が自分自身を啓蒙するとなると、かえって可能だと言う。彼らに「自由」を与えさえすれば、かならず、自分で判断できるようになる、と言う。すなわち、自由に意見を述べ、自由に議論することを許せば、他人に管理されていなければ判断できないという状態から抜け出ることができるというのだ。
 
カントはここで「学問の自由」という考えに至る。
 
〈(政府組織の一員であろうとも)自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのである〉
 
〈人類をいつまでも未開の状態に引きとめておくことを故意にたくらみさえしなければ、人間は進んでかかる状態から徐々に抜け出そうとするものなのである。〉
 
〈立法に関しても国民が彼ら自身の理性を公的に使用して、法文の改正に彼らの意見を発表したり、また現行法に対する率直な批判をすら公的に世に問うことを許しても、決して危険な事態の生じるものでない〉
 
「学問の自由」は、一人でひそかに何かを研究することではなく、公に意見を述べ、議論をし、社会制度の改善に寄与することなのだ。
 
機密保護法案に公に反対したり、共謀罪法案に公に反対したり、安保法制改正案に公に反対したりしたからといって、政府が、反対者を日本学術会議から排除することは、「学問の自由」の精神に反することである。「学術界のことは学術界にまかせよ」でなければならない。国税を投入しているからといって、政府が個々人の判断を管理するのなら、日本学術会議は政府から「独立な」組織ではなく、政府の「応援団」になってしまう。
 
じつは、カントは論文で、「君主」については、「啓蒙されている君主」だから、自分の説を理解してくれるでしょうと、主張の外においている。
 
しかし、約250年前のカントと違い、いまは、ブルジョア民主主義の「ブルジョア」も取れた「民主主義」の時代である。例外はない。総理大臣を批判して良いのである。「国会で選ばれた総理大臣に逆らってはいけない」と考える菅義偉シンパの頭はおかしい。まさに、彼らは、カントの言う「管理されないと判断もできない」未開の人たちである。
 
「民主主義」とは、みんなの上に立つ如何なる権威をも認めないことである。みんな自由で平等なのだ。

菅義偉の「まずは自助」では国はいらない、竹中平蔵のベーシックインカムもいらない

2020-10-06 21:53:00 | 叩き上げの菅義偉


「まずは自助」という新首相の菅義偉が、世論調査で7割支持という この日本の民(たみ)の頭はどうなっているのだろうか。困っている人を助けたくないと思っているのだろうか。困っている人を国が助けるから、自分たちが損をしていると思っているのだろうか。

「叩きあげ」の菅は、自民党総裁選で、「私自身、国の基本というのは自助、共助、公助であると思っております。自分でできることはまず自分でやってみる。そして地域や自治体が助け合う。その上で政府が責任を持って対応する」と言っている。同じような発言を総理大臣になっても繰り返している。

個人の立場から、自分は「自助」で頑張ってみます、と菅は言っているのではない。「国の基本」として「まず自助」であると言っているのである。

じつは自民党の1つの考えに、社会保障制度はいらないという考えが昔からある。貧乏人や病人や障害者は本人が悪いのだから、助けてやるもんか、かってに死ね、という言い分である。それを知って、菅を支持する人たちが7割もいるとすると、恐ろしい社会になったものだと思う。

菅は、知識人を信用するなという教えを小此木彦三郎元通商産業相から叩き込まれたという。そして、唯一の信頼をよせている知識人は、元総務相で人材派遣業のパソナグループ会長の竹中平蔵であるという。「叩き上げ」の菅にとって、弱者に心を寄せる知識人は弱者で、弱者を食い物にする知識人こそが信頼できるのである。困った人だ。

首相になった菅は竹中に相談に行っている。きのう(10月5日)の『報道1930』ではじめて知ったのだが、その竹中が、9月23日に「毎月7万円のベーシックインカム」をBS-TBS番組『報道1930』で唱えていた。

きのうの番組では、長妻昭(立憲民主党 副代表)、小林慶一郎(東京財団政策研究所 研究主幹)、森永卓郎(獨協大学 教授)がゲストである。社会保障費が毎年増加していくなかで、社会保障費を削減するか、それとも、増税をするか、ということが、経済界ではずっと議論されてきた。この中で、竹中のいう「ベーシックインカム」は、社会保障制度をすべて廃止しての「ベーシックインカム」である。とんでもない話である。

人は、好むと好まざると、運不運に左右される。

台風や津波が来て田畑が泥水につかるかもしれない。家が流されるかもしれない。
予期しない発病で入院費や生活費に困るかもしれない。親の認知症がひどくなって介護が必要になるかもしれない。
障害1つをとっても、突然変異はみんなが思っている以上に頻繁に起きており、あなたが問題なくても、生まれてくる子は障害児かもしれない。また、交通事故や仕事上の事故で、あなたは障害者になるかもしれない。
景気の波で就職困難に陥るかも知れない。努めている会社が倒産で職を失うかもしれない。倒産しなくても、会社の赤字を解消するために、整理解雇になるかもしれない。

助け合いは必要なのだ。助け合いを国が制度として物質化することが必要なのだ。

竹中のいう「ベーシックインカム」は、複雑化する社会保障制度を全部廃止して、固定のベーシックインカムを支給し、それで、自助の収入を合わせて所得が多くなったら、税金を取ればよい、制度の単純化で小さな政府で済むというものだ。

驚いたのは、ゲストの小林慶一郎も、竹中の意見に一定の理解を示すことだ。シンクタンクでは現実的なものとして検討されているのだ。

困り具合は人によって異なる。それに応じて助けるのでなく、一律にベーシックインカムでは、救われない人がでてくる。また、竹中平蔵方式の「自助を求めるベーシックインカム」は、単に、貧困層の水準をさらに下げ、貧富の格差を拡大するだけだ。

人は、好むと好まざると、運不運に左右されることを、みんな忘れているのではないか。

そういう中で人間社会は助け合いを選択してきて、どの国にも社会保障制度がある。社会の貧富の格差が拡大しているのだから、富裕層からもっと税金をとることを考えてよいのではないか。

富裕層ばかりがシンクタンクを使って社会保障の制度設計を行うのではなく、国は、貧困層や病人や障害者を社会保障の制度設計参加させるようにしないといけない。そうでなければ、国なんて不要である。現状の菅義偉を7割の国民が支持するのはきちがい沙汰である。

学術研究者に対する誹謗中傷に怒る―菅義偉の日本学術会議会員任命拒否事件

2020-10-05 22:53:36 | 日本学術会議任命拒否事件


きょうのTBSの『ひるおび』で、自民党の新藤義孝衆議員が、菅義偉の日本学術会議会員任命拒否で、暴言を吐いていた。この暴言はかなりの偏見と誤解からくるので、訂正する必要があると思い立ち、ここに筆をとる。

日本学術会議の歴史に関して、高橋真理子が朝日新聞の『論座』で説明していたので、ここでは、必要に応じて引用するのにととどめ、ネットであふれる偏見と誤解を含めて、新藤に反論する。(『論座』は会員のみがアクセスできるが、高橋真理子の論考は、10月3日のライブニュース『学術会議の会員任命拒否の「とんでもなさ」』に再録されている。)

じつは、欧米では、日本学術会議のような組織、アカデミアは、どの国にもある。なぜなら、ブルジョア民主主義社会には、一生を真理の追求に捧げてきた学術研究者に敬意を表する伝統があるからだ。権力者に逆らうからといって、学術研究者を罰したのは、ナチスかファシストかスターリンか、70年前のアメリカでの赤狩りしかない。

学術研究者とは貧乏なのである。朝から晩まで研究する。土日も研究が続く。
私は企業の研究者だったが、それでも、定年退職するまで、妻と旅行にいったことがなかった。そして、72歳の私は今でも研究を続けている。私の5つ上の兄も木造アパートで一人暮らしをしているが、今でも物理の研究を続けている。

学術研究者とは貧乏なのである。給料は低いのが普通である。企業に務められなかった研究者は一生非常勤(非正規)にとどまるかも知れない。私立大学の授業の半分以上は非常勤でまかなわれている。そして、学術研究者は自分の給料も研究に書籍につぎ込む。

金持ちの子息以外が研究者を志すと、奨学金も返さなくてはいけないし、幸運な人を除き、大変な生活を一生送ることになる。

研究者は、真理の探究のために、企業の経営者や政治家とまったく異なった生活を送っているのだ。
研究に成功した学術研究者に、日本学術会議会員の名誉を与えたって良いではないか。

日本学術会議に約10億円を使っているというが、それは日本学術会議の運営費である。事務局の人件費やシンポジウムの開催費を含んでいる。210人の会員はすべて非常勤の公務員であるから、会議があるときの交通費と日当が支払われる。会員の任期は6年である。任期がすぎれば、非常勤の公務員でもなくなる。天下りの官僚や、子会社を渡り歩く退職経営者とは違うのである。

菅義偉が国費を使っているというなら、使われている国費の内訳を公開したら良い。誰がどれだけもらっているか、明らかにしたらよい。

任命拒否の菅を支持する人たちのいう「終身年金に6億とかふざけてる」や「終身年金欲しさのおじいちゃん達のための寄合」は事実誤認である。非常勤公務員なので、会員になったからといっても「終身年金」をもらえない。

どうして、政治家や高級官僚や企業の経営者を叩かないで、ネットの人間や日本会議国会議員懇談会のメンバーは、弱い者いじめをしたがるのか。弱い者いじめをして、抑圧的社会をさらに抑圧的にしたいのか。

また、任命拒否の菅を支持する人たちの「若手や中堅からみて雇用や研究環境の改善に役立つ組織と思っていない」や「予算どりに活用しようとしている」は、まったく偏見と誤解である。日本学術会議には、ずっと以前から、その権限はない。

高橋真理子が説明しているように、日本学術会議には、日本の科学技術政策を政府に答申する権限もないし、研究予算の配分を審議する権限もない。前者は1959年に、後者は1967年にその権限を政府によって奪われた。したがって、政府は会員たちを名誉職のなかに閉じ込めているのだ。

このような仕打ちを受けても、名誉職に閉じこもっておらず、けなげにも、日本学術会議は、社会的道義的問題について議論し、声明を出している。

そう、学術研究者たちの精神的支えとして、日本学術会議法の前文にある「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」を、いまなお、実践しているのである。

また、菅が会員の任命者だから、任命を拒否できるという法律論も当たらない。

日本学術会議法の第7条2項に「会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」とある。
第17条は「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」とある。

「推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」とあるのに拒否できるとすると、日本国憲法第6条「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」で、天皇は国会の指名する内閣総理大臣の任命を拒否できることになってしまう。

この条文の解釈があいまいだったというのも いいわけにならない。改正法案提出者の政府は、国会審議において、解釈をつぎのように説明している。

当時の内閣官房総務審議官が、「実質的に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えておりません」と答えている。
また、総理府の総務長官は、「形だけの推薦制であって、学会のほうから推薦をしていただいた者は拒否しない、そのとおりの形だけの任命をしていく」と答えている。
また、当時の中曽根総理大臣は、「学問の自由ということは憲法でも保障しておるところでございまして、特に日本学術会議法にはそういう独立性を保障しておる条文もあるわけでございまして、そういう点については今後政府も特に留意してまいるつもりでございます」と答えている。

菅義偉首相や新藤義孝衆議員は、日本学術会議のことは日本学術会議会員に任せておけないのか。ブルジョア民主主義の伝統さえ、守れないのか。

菅と新藤の共通点は、憲法改正に賛成、特定秘密保護法に賛成、女性宮家の創設に反対、日本会議国会議員懇談会のメンバー、神道政治連盟国会議員懇談会のメンバー、創生「日本」の副会長と副幹事長、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会のメンバーである。

トンデモナイ人物が日本の総理大臣になったと思う。

[追記]
きょう(10月6日)のモーニングショウに、日本学術会議の前会長の大西隆が出席し、会員および連携会員が会議に出席する日当と交通費の合計は1億2千万円で、あとは、事務局の運営費であると述べていた。事務方は政府官邸の正規職員である。
また、年金の誤解は、日本学術会議と日本学士院との混同ではないか、と大西隆は指摘した。日本学術会議は、戦争中に日本の研究者が軍事研究に協力したことを反省して、戦後作られた組織である。任期は6年である。それに対し、日本学士院は戦前からある組織で、戦前は天皇の管轄、戦後は文部科学省の管轄で、会員に報奨金や研究費が出される。また、任期が定まっていない。

民主主義とは 民衆が権力をもち 自らを治めること

2020-10-04 22:13:19 | 民主主義、共産主義、社会主義

きょうの朝日新聞GLOBE(グローブ)は、特集『みんなで決めるってむずかしい 民主主義のいま』を掲載していた。

初めに、注意しておきたいのは、「民主主義」とは、別に、みんなで決めることではない。表題はズレているのではないか。

民主主義は、政治権力の問題であり、民衆(peopleまたはworkers)が権力をもっている政体ことである。権力をもっているとは、自分たちの社会のあり方に関して、自分の考えと意志をもち、それを実現することができることを言う。

この特集の最初の論考は、記者の玉川徹の『若者の感覚は支持されそうな人に1票入れます』である。この論考は端的にいうと、特集の表題「みんなで決めるってむずかしい」という問題以前の、「現在の若者たちが民主主義を放棄している」ということである。エーリック・フロムの『自由からの逃走』と同じ問題意識である。これが事実であれば、私にとって、とても悲しいことであり、このような若者たちをバカとしか言いようがない。

駒澤大学のゼミで、「森友・加計学園」問題について議論したとき、安倍政権の対応を肯定する意見が7割をしめ、「そもそも総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか」という意見がでた、という。

民主主義とは総理大臣にしたがうことではない。不公平があれば、相手が総理大臣であっても、それをいけない、と言うのが民主主義である。

また、都内の大学4年生は「多数派から支持を得ている人に投票します」と玉川に答えている。

これって、自分の考え、自分の意志はどこに行ったのだろう。多数派の誰もが自分の考えをもっていなくて、単に、雰囲気で多数派と思っているなら、付和雷同にすぎない。これでは、ある日、突然、独裁者がでてきてもおかしくない。

駒澤大学のゼミの話に戻ると、多数派の学生は、政権に批判的な学生に対して、「空気が読めていない、不愉快」と言うのであった。その理由として、リポートに書いてもらうと、「政治の安定性を重視」をあげるのが多かった。

「政治の安定」も「政治の効率」も まやかしである。そんな言葉に騙されてはいけない。

私は悲しいけれども、このような若者たちを責めることはできない。昔も今も若者たちはバカが多数派である。人間は自分で考え、自分の意志をもつには、多くの時間と努力が必要である。

というのは、人間は体験を通じて記憶されたことに基づいて動く機械にすぎないからだ。この呪縛から脱するには、与えられた体験の記憶ではなく、自分から真理を求めて、過去の人の思索の跡をたどったり、ひとりでよく考えたりする必要がある。

家庭内のコミュニケーションションが崩壊し、友達同士の遊びの場が崩壊すれば、子どもの体験の中心は学校教育や塾が中心となる。学校では、与えられた教材をひたすら学び、互いに競争するように訓練される。そして、別途、政府が「公民」「日本史」「道徳」の教科を通じて、民主主義に反する価値観を子どもたちに植え付けている。

これが、保守政権がやってきたことである。

その結果、民主主義とは、選挙に勝った党派の意見に従うこと、国会で指名された総理大臣の指示に従うこと、と洗脳されてしまう。従って、若者が自由や平等や民主主義を放棄したりすることは、何も不思議ではない。

ギリシアで民主主義が起きたとき、政府や官僚なんていなかった。現代社会は、社会の経済活動が複雑になっているから、行政サービス機関は必要である。しかし、統治のための政府や官僚はいらない。総理大臣の指示だから従うというのは変である。総理大臣が権力を濫用するなんて、あってはならないことである。