猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

タリバンは悪か、アメリカの軍事的アフガン支配は善か、日本の自衛隊機アフガン派遣は正当か

2021-08-25 23:37:55 | 戦争を考える

アメリカ大統領のジョー・バイデンに、20年近くもアフガニスタンで続けていたの戦闘をやめ、兵士を引き上げると決断する権利が当然ある。外国の政府や外国のメディアがアメリカ政府の決断にとやかくいう権利はない。日本のメディアがアメリカ大統領をとやかく言うべきでない。

朝日新聞はバイデンやタリバンのことを悪く言うのをやめたようである。きょうの『〈オピニオン&フォーラム〉アフガン 失われた20年』で、アンドリュー・ベースビッチと山本忠道は、アフガニスタンへのアメリカの軍事侵攻に意味があったかを論じている。

ベースビッチは「軍事力頼みの国造り 米の幻想」という見出しで、1989年の冷戦終結後、ソビエト連邦の崩壊で、アメリカが世界の唯一の超大国になったことにうかれ、軍事力で世界を自分の似姿に変えようしたことを批判する。すなわち、アメリカが軍国主義に傾倒したと批判する。バイデンの軌道修正を正しい決断だと示唆する。

山本は「孤立せぬ道 国際援助で導いて」という見出しで、タリバン政権を孤立させずに、日本政府は戦後のアフガニスタン復興を支援していくべきだという。彼は、米国や日本や他の国々から「アフガニスタン側が消化しきれないベースで援助が注がれたため、その援助金で私腹を肥やすような腐敗が 国内で はびこった」と指摘する。また、タリバンが権力を握ったからといって、テロリストの温床になるとは言えない、という。

まだ、イスラム社会の研究者から言及がないが、イスラムを悪とする態度も改めないといけないだろう。アフガニスタンの多数派は、ペルシア語のアフガニスタン方言を話す。しかし、同じペルシア語を話すイラン人は、イスラム教のなかのシーア派であり、アフガニスタンのイスラムはスンナ派である。すなわち、宗教的には、隣国イランより、サウジアラビアやそれと陸続きの国々と近い。じっさい、アフガニスタンのガニ大統領は、アメリカ軍の撤退を前にして、アラブ首長国連邦(UAE)に逃亡した。

また、アルカイダやタリバンはサウジアラビアの財政的軍事的支援を受けていたといわれている。これに関するアメリカ側の調査報告書は極秘扱いだったが、じょじょに公開されてきており、この方面でも、アフガニスタン戦争の裏側が明るみにでるだろう。

きょうの朝日新聞3面のすみっこに、自衛隊輸送機の派遣に関して気になる記事がでていた。自衛隊輸送機の派遣は、日本人の退避のためではなく、「日本人ら」の退避のためになっていた。さらに驚くべきことに、つぎの文があった。

《日本政府は、日本人大使館員らを再びアフガン入りさせ、現地スタッフ本人かどうかを確認させる。》

日本人大使館員はすでに退避していたのだ。「日本人ら」は「現地スタッフ」とその家族のことで、彼らを退避させるために、自衛隊輸送機を派遣したのだ。もちろん、「現地スタッフ」とはアフガニスタン人のことである。

誰がどのような理由から「現地スタッフ」の退避=亡命を支援するために自衛隊輸送機の派遣を決めたのか。どうも外務省の官僚ではなく、防衛省の大臣、岸信夫のようである。名目がなんであれ、自衛隊輸送機を戦乱の地に派遣すること自体を目的にしたのではないか。岸は安倍晋三の弟であり、安倍の積極的平和主義を実践するためでなかったかと思う。

新型コロナとカブール陥落の混乱に隠れた自衛隊輸送機派遣の是非を、国会で議論すべきである。日本の平和主義をなし崩しにする、すなわち、日本のブランドイメージを地に落とすような行為はすべきでない。


メディアのアフガニスタン報道に異議、アメリカの撤退は正しい決断

2021-08-24 22:41:06 | 戦争を考える

きょうのBSTBSの『報道1930』は米大統領のジョー・バイデンのアフガニスタン撤退を誤算だと非難していた。出席者は、前統合幕僚長の河野克俊、アメリカ政治学の中山俊宏、中東調査会研究員の青木健太である。

アメリカが20年近く無意味な戦争をアフガニスタンで続けていたのを、バイデンがきっぱり戦うのをやめてどこが悪いのか。彼は、闘う意思のないアフガニスタン政府のために、アメリカの兵士をこれ以上死なすわけにいかない、と言った。私はまったく正しい判断と思う。

河野克俊や中山俊宏や青木健太や松原耕司がタリバンが悪でやっつけるべきだと思うのなら、義勇軍を結成して、死ぬ覚悟でアフガニスタンにのりこみ、自分らが闘えば良いではないか。

BS-TBSだけでなく、新聞を含むメディアは狂っている。タリバンが悪だから、アメリカは戦えというのは、まったくおかしい。アメリカが20年間戦ってタリバンを潰せなかったのだから、タリバンが生き残ったことに何か理由があろう。その点を考察すべきである。

1週間前の8月17日の朝日新聞は、9面に『アフガン市民不安と怒り』という大見出しをつけていた。しかし、記事のなかには、どこにも「怒り」という言葉がない。「不安」「悲しみ」という言葉があるだけである。「怒り」という見出しをつけた朝日新聞の編集委員の頭がおかしい。

記事に書かれているのは、アメリカの後ろ盾で20年間送ってきた生活が失われることの「アフガン市民」の不安である。

私は子ども時代から「市民」という言葉に違和感を感じた。労働者とか農民とか商人とか職人とかいう言葉には実感がある。「市民」には実感がない。せいぜい、「サラリーマン」しかイメージできなかった。「サラリーマン」とは、安月給で働いているのに、ストライキもせず、上司の目の前では、一生懸命に働いているフリをする意気地なしだと思っていた。

ところが、東京に出て大学にはいると、「進歩的メディア」は「市民」がすばらしくて、「労働組合員」は時代遅れのように言う。とっても違和感を感じた。

妻の要求もあって、私も「サラリーマン」になり、本当に一生懸命働いた。退職してからはじめて専門外の本を読むようになった。そして、「市民」とは、古代ギリシアの市民のことか、近代のブルジョアのことをいうと私は知った。両者に共通するのは、じっさいの政治に関与して、自らを統治していることである。

また、日本で使われている「市民」の多くはブルジョア(burgher, bourgeois)の訳であることを知った。エーリヒ・フロムは、『自由からの逃走』(みすず書房)のなかで、ブルジョアの語源は城壁のなかに貴族と共に住む都市の住人のことであると書いている。そして、近代のヨーロッパ社会で、没落する貴族に代わって、政治の実権を握った新しい特権階級のことをそう呼ぶのだ。決して、「サラリーマン」のことではない。

振り返って、朝日新聞の大見出しが「アフガニスタン人」や「アフガニスタン国民」ではなく、「アフガン市民」となっていたのも意味があるように見える。

メディアは、アメリカ政府が、アフガニスタンの「民主主義」や「女性の人権」のために、タリバンと戦争したとか言っているが、そんなものはウソである。2001年9月11日の同時多発テロ事件へのアメリカの復讐である。アルカイダを掃討した段階でアメリカが戦闘を終結させればよかった。そうできなかったのは、アメリカの国内政治の問題である。共和党や民主党が大統領選や国会議員選に勝つために、アメリカの若者を戦地に送り続けたのである。

アフガニスタン人の人権は、アフガニスタン人みずからの時間をかけた努力で勝ち取らないといけない。アメリカの兵士の投入とアメリカからの物資とドルのバラマキで勝ち取るものではない。

いま、日本からアフガニスタンに、日本人退避のために自衛隊輸送機2機を派遣したという。日本人は退避する必要のある悪いことをアフガニスタンでしていたのだろうか。私はそうでないと信じている。日本人はアフガニスタンにとどまり、戦争終結に伴うアフガニスタンの復興にかかわるべきだと思う。それが日本政府がとるべき誠意だと思う。


漢字を使うのはあなたの勝手だがコミュニケーション手段としては問題がある

2021-08-23 22:55:09 | 教育を考える

今月の7日、22日に、朝日新聞で「漢字」について、いろいろな評者によって論じられている。7日には『常用漢字と私たち』というテーマで、22日には『漢字、どう思う?』というテーマで、論じられている。

そこでは、漢字教育が子どもに負荷となるとか、デイスクレシアや盲人にとって漢字が壁となるとか、そういうことが議論されなかった。また、明治以降、西洋文化の輸入に伴い漢字を連ねた造語が大量に作られたという問題も言及されていなかった。また、漢字の造語のまん延による話し言葉と書き言葉の乖離(かいり)も論じられていなかった。

せっかくの「漢字」についてのフォーラムにもかかわらず、まったく知性の欠く、低レベルの〈オピニオン&フォーラム〉にとどまった。

私は、人が漢字を使おうと使わないと、かまわない。われわれは自由な世界に生きている。

子どもたちは、ゲームにでてくる漢字をイラストとして、装飾としてみている。おどろおどろしい複雑な漢字がでてくれば、それで単純に喜んでいる。言葉だと思っていない。

また、発語がままならない子どもたちのうちのいくらかは、単語を作らずに1字や2字で意味をもつ漢字を書くことが好きな子がいる。

しかし、コミュニケーション手段一般として漢字を見たとき、あるいは、学校における漢字教育を考えたとき、さきに述べた問題が生じる。

詳しく論じよう。

江戸時代に庶民は漢字を使っていなかった。漢字は不要だったのである。私は本居宣長の書いたものを昔読んだが、漢字をほとんど使わずに、論理的な議論を書き残している。

現在の大量の漢語は、明治以降の西洋の文化を輸入する際、漢字を組み合わせて新たな言葉をつくり、翻訳したことによる。そのため、私の関する科学の分野でも、学部や大学によって、同じ英語やドイツ語やラテン語の用語が、異なる漢語に訳されているというが事態が生じている。また、漢語に訳されたため、もとの語がもっていた意味がずれて、日本社会で使われることもある。私は、日本語の文章は、横書にし、西洋に由来する用語は、そのまま、原語で書くのが望ましいと思う。

漢語が日本語で使われるときの もう一つの問題は、話し言葉と書き言葉と乖離である。漢語は視覚的なものである。同音異義といわれる漢語がやたらとある。耳で聞いてわかるものではない。漢語にたよると、知的な対話が口頭で行えなくなる。じっさい、私が現役の会社員のとき、ホワイトボードを前に議論を行ない、誤解を避けるため、まぎらわしい漢語はホワイトボードに書いたものである。口頭による知的な対話のために、漢語の使用を制限したほうがよい。

盲人のための点字には漢字がない。点字の世界は音声による言葉と並行している。健常者の平かなのつづりは、旧仮名遣いを引きついでいる。助詞の「は」や「へ」は、点字では「わ」「え」と書く。「おとうさん」は、発音通り、「おとーさん」と点字で書く。盲人の世界では、音声による言葉と、点字による言葉は忠実に対応している。

点字の世界のように、書き言葉を話し言葉に近づけることができるはずである。

コミュニケーション手段としてみたとき、漢語をできるだけ使わないほうが望ましい。漢字を使わないほうが望ましい。1960年代から1980年代にかけて、当時の知識人は、じっさい、接続詞、副詞、動詞における漢字の使用を意識的に避けていた。現在、パソコンの普及にともなって、安易に漢字の使用が増えている。

ディスレクシアの子どもたちには、漢字の使用を控える以上の問題がある。江戸時代のように、文節単位での分かち書きが望ましい。また、文が行をまたがるとき、文節が行で分けられないようにすべきである。面白いことに、これらのルールが、小学校1年から2年の教科書では守られている。そのため、漢字を使わなくても読みやすい文になっている。

漢字を学校で教えることに、私は、消極的にならざるをえない。漢字教育は子どもの覚えることを増やす。覚えることに子どもが慣れると考えなくなる。人によっては、漢字の筆順とか、とめ、はね、はらいとかまでを、子どもに要求する。もっとも、政府のガイドラインでは、このようなことを子どもに要求しないことになっているのだが。


横浜市長選で菅義偉への不満が吹き出た、開票せずに野党系候補の当選確実

2021-08-22 22:12:18 | 政治時評

きょう、横浜市の市長選で、午後8時で投票を締め切られると同時に、神奈川テレビが野党候補の山中竹春の当選確実を報道した。その前に、息子から、山中が優勢だと聞いていたが、出口調査で これだけ大差がついていた と思わなかった。

横浜市は首相の菅義偉のお膝元である。山中の対立候補の小此木八郎は自民党衆議院議員で菅政権で大臣を務めていた人である。

立憲民主党が7月に山中竹春を候補として選んだとき、私は内心大丈夫なのかと思った。山中がデータサイエンスをやっていると知って、データーサイエンスなんてやっている人間にろくなやつがいない、と思ったからである。データーサイエンスは本質的に統計学であり、多数派に従うことである。手の込んだ数学を使うけれども、多数派に従うことは、社会的正義や政治とは無縁の立場である。心配どおり、実際に出てきた公約は、無党派の候補者、田中康夫より見劣りした。

IR(カジノ)誘致反対の立場は、田中も山中も自民党系の小此木八郎も同じである。前市長の林芙美子だけが IR誘致賛成である。

田中はつぎをかかげた。

《在日米軍の上瀬谷通信施設の跡地には医療・福祉、消防・救急の統合型のレスキュー施設をつくる。カジノは敷地の中で食事も宿泊も全部囲い込んでしまい、地元の経済を潤さない。中学校では温かい完全給食を実現する。18区ごとに独自予算をつけ、地域の実情を熟知する市議の予算提案枠をつくっていく。》

山中はつぎをかかげた。

《重点政策として三つのゼロを目指す。75歳以上の敬老パス無償化、自己負担ゼロ。子どもの医療費ゼロ。医療費がかさむ不安を取り除く。そして出産費用ゼロ。追加で自己負担が生じると、出産一時金だけでは足りないケースがある。子どもを産み育てやすい街、横浜を実現する。他にも様々な病気の治療を安心して受けられる街を作りたい。》

選挙戦前半では、小此木がリードしており、山中と前市長の林文子が後を追っているとの報道であった。まわりからの声では、小此木が劣勢になったのは、菅義偉が小此木支持を明確にしてからだという。

今回の選挙の争点はカジノを横浜に誘致するかではない。市民の多数が誘致に反対である。選挙の趨勢を決めたのは、菅が日本の行政に関与することへの拒否である。特に菅の新型コロナ対策への不満が大きいと思う。

菅は自分がバカにされることを恐れ、自分の権力が貫徹しているかに執着する。何が正しいかを追求しているのではないから、人の意見を聞いても、自分がバカにされているかばかりが気になって、他人から学ぶことができない。結果的に優柔不断になる。

今回の横浜市長選の投票率は49%で低く、無党派層の風があったわけでもない。ただただ、菅政治への拒否である。市長選挙の結果は、結局、当選確実が山中、次点は小此木、それにつづいて、田中、さらに、その後に林文子で、カジノ誘致の林は完敗である。また、小此木と林の票を合わせても、山中の票に届かないもようである。

[確定投票数 8月23日午前1時29分現在]

山中竹春 506,392、小此木八郎  325,947、林文子  196,926、 田中康夫 194,713、 松沢しげふみ 162,206 


家庭内暴力は母性原理と父性原理の問題でない、河合隼雄

2021-08-20 23:55:33 | こころ

河合隼雄の『中空構造日本の深層』(中公文庫)を読んでいるうちに、私より20歳上の世代の自己の喪失を発見した。河合は家庭内の暴力を論じているつもりだが、じつは、日本の文化が中空構造なのではなく、彼らの世代の心のなかが空っぽであること、すなわち、中心となるもの、芯となるものが、ないということを論じているのである。

それは、彼の世代が、「八紘一宇」の理念のもと、欧米と戦うアジアの雄、日本の軍国的少年として育てられ、「神風」も吹くことがなく、神の国、日本が敗戦し、占領軍(アメリカ軍)に教科書が黒く塗りつぶされ、これまでの信じてきた価値観が総崩れ、拠り所を失ったからである。

河合は1928年に生まれ、14年前の2007年に死んでいる。彼の世代の多くは死んでいるが、いまなお、日本の保守に大きな悪影響を与えている。だから、河合を徹底的に叩く現在的意義がある。

本書のなかのエッセイ『家庭教育の現代的意義』を取り上げる。これは、前回取り上げた『中空構造日本の危機』の2年前に書かれたエッセイである。

ここでは「父権」「母権」と「父性原理」「母性原理」と区別している。「権」がつくときは、「家」「家族」で「父」と「母」とのどちらかが権力をもっているかの問題をいう。それに対して、「原理」がつくと、どちらの価値観が社会で機能しているかを問題視する。そして「母性原理」であることが日本社会の欠陥で、これが子どもが親に暴力を振るう原因だと言う。「父権」「母権」の問題を避け、進歩的知識人のフリをしているのだ。

それでは「母性的原理」「父性的原理」を河合はどう考えているのだろうか。

《母性の原理とは、端的に言えば、すべてのものを平等に包含することで、そこでは個性ということを犠牲にしても、全体の平衡状態をの維持に努力が払われるのである。これに対して、父性原理は善悪や、能力の有無などの分割に厳しい規範をもち、それに基づいて個々人を区別し鍛えてゆく機能が強い。》

私はこれを読んで「母性原理」のほうが「父性原理」よりマシだと思う。ただ、「平等」は「同質」とは異なり、「平等」が「個性を犠牲」とは結びつくことはない。「平等」とは対等の人間関係のことを言う。「能力の有無の分割に厳しい規範」をもつ社会なんて狂っている。「個々人を区別し鍛える」なんて、私はごめんこうむる。

「家庭内暴力」というが、河合は子どもたちと話し合っていない。ただ、親たちの相談にのっているだけである。そして、「父として、母として生きてゆくにはあまりに成熟していない」と相談者を罵っているだけである。そして、昔にかえることではなく、日本人の意識変革を唱える。

では具体的にどうすればよいと河合は言うのか。

《専門家として、明確に言えることは、そのような名案は存在しないということである。》

《文化の根本的な変革が強いられているときには、簡単な子育ての方式など存在しないのである。》

《われわれのいい方法は無いという確信に支えられ、親たちは他人に頼ることをやめ、自ら最も個性的な方法を見だしてゆくのであり、そのときこそ問題は解決してゆくのである。》

親たちをさんざん罵っておき、親たちに自力で解決しなさい、というのもおかしい。「個性的な方法」とは何を言いたいのか。

子どもによる「家庭内暴力」の問題は、たんに、(1)未然に暴力の発生を防ぐ、(2)暴力が起きたら退避か外部の力の利用でとりあえず抑える、(3)暴力を抑えた後、親と子が和解するという問題である。

未然に暴力を防ぐには、親と子が言葉で意思疎通ができる環境をつくることである。このためには、子どもを一人前の人間として扱い、対等に話し合うようにすることである。私の経験からすると、知的に障害がある子どもが親に暴力を振るうことはない。知的だからこそ、自分ひとりで苦しみ、わかってくれない親に暴力を振るうのである。世の中には、どうしようもなくひどいことがある。悪意とは感染症のように、人から人へとうつるものである。家族はそれと戦う同志なのである。仲間なのである。友達なのである。

対話ができず、家庭内暴力がおきてしまったら、とにかく、暴力を止めないといけない。暴力の本質は恐怖によって相手を操ることである。暴力は対等な人間関係を壊す。そして、最悪なことに、暴力を振るう人間は、相手の恐怖心をみて、万能感に酔うのである。したがって、暴力を慢性化させてはならない。一番簡単で効果的な方法は暴力から退避することだ。外部の力の利用は、警察にとどめるのがよい。ビジネスとしてやっている「××塾」などは信用できない。警察は「民事不介入」の原則があるので、その場の暴力を止めるだけで、深入りしないから、安全である。

暴力がとまっても、解決にはならない。NPOでの私の役割は、子供と親を和解に導くことである。人を信頼しても良いということを子どもに体感してもらう。人と人が争うより、人と楽しく暮らしたが、ずっと楽しいということを子どもに体感してもらう。世の中に屈服しなくても生きていけるという自信を子どもにもってもらう。世の中に屈服しないためには、家族の団結がだいじだということを話す。

親からも子に歩み寄らないといけない。暴力が生じたのは何かの社会的問題があったからだ。対話ができるには、まず、声かけからはじめる。しかし、目標は、世の中と戦う同志になることだから、冷静に対話できるまで、根気よく、たわいもない声かけをつづける。

だから、未然に暴力を防ぐほうがずっと楽である。

家庭内暴力は、けっして、母性原理とか父性原理とかの問題ではない。人と人との対等な関係を築き、仲間として団結できるかの、問題である。

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