猫じじいのブログ

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ウクライナとロシアの戦争を消耗戦に放置するではなく、強引にでも停戦へもっていくべき

2022-08-17 23:49:46 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

きょうの朝日新聞夕刊の時事小言に藤原帰一が、半年になるロシアのウクライナ侵攻について、これからも消耗戦が続くという月並みのコメントを寄せていた。この消耗戦に全世界の経済は巻き込まれて行くわけだから人ごとではない。消耗戦をいかに終えるかを国際政治学者なら論ずるべきだろう。

政治学者の豊永郁子は朝日新聞に『ウクライナ 戦争と人権』を寄稿し、メディアが正義を振りかざして、ウクライナ政府に徹底抗戦に追い詰めることを非難している。彼女はウクライナ政府が白旗を掲げてロシアが停戦交渉を始めることを提案している。

藤原は「ロシア軍の……焦土作戦とも言うべき殺戮、戦時捕虜の虐待や非戦闘員の強制移動は、ウクライナ国民の厭戦感情を高めるどころかその結束を強めている。さらにこの戦争の奇怪な特徴は、ロシア軍も抗戦の意思がまだ固いことだ」と言う。

戦争が始まれば、政府は、士気を高めるために、いろいろな情報戦を行う。その最たるものは、国民のみんなは戦争継続の意思が強いと「同調圧力」をかけることだ。しかし、豊永の指摘するように、非人道的殺戮は恨みの気持ちを強めるが、勝てない戦いは、戦い続けることの虚しさをつのらせる。

ウクライナ大統領ゼレンスキーはロシアの非人道性を世界に訴えて各国の支援を求めている。しかし、各国の政府は、選挙で選ばれた政権だから、その国の人びとの利害を無視できない。いつまでも支援続けるわけでない。藤原はヨーロッパや日本のウクライナ支援がずっと続くと思っているようだが、それは疑わしい。各国は、新型コロナ騒動や温暖化による気候の不安定化を抱えている。経済的余裕があるわけではない。

当事者のウクライナ政府やロシア政府は、引き下がれない事情がある。

クリミナ半島は、エカテリア2世がタタール人の国を攻め滅ぼし、ロシアの軍事基地、リゾート地に仕立てのである。別段、ウクライナ人の土地であるわけでもない。

ウクライナのドンバス地方は、ソビエト連邦時代に、石炭や鉄鉱石の豊富な土地だったので、ロシア人が大量に移り住んで重工業地帯が形成された地である。都市にはロシア人が、農村にはウクライナ人が住むということになった。ウクライナ東部の都市は、ロシアと経済的につながっている。

だから、ウクライナ政府も領土回復が無理なことは知っている。しかし、ロシア政府は、ドンバスとクリミナ半島だけの領有で満足するのではなく、ウクライナに親ロシア政権を打ち立てたいと思っている。

停戦は外部から強引に実現するしかない。停戦の実現は、ロシアとウクライナ以外の正規軍を導入するしかない。ロシアとウクライナより強いと思われる軍隊は、アメリカ軍と中国軍しかない。アメリカ軍と中国軍がウクライナに軍事基地を作って駐留するしかない。

ウクライナ政府も白旗を掲げて降伏する必要がない。アメリカと中国によって、強引に、停戦協議の場に引き出されただけである。

ウクライナの地がアメリカ軍と中国軍を引き受けてくれれば、極東も静かになると思う。日本から、沖縄から、アメリカ軍の基地がなくなる絶好の機会ともなる。


ウクライナとロシアとに停戦をもたらすにはアメリカ軍とイギリス軍をウクライナに駐留させるしかない

2022-08-15 02:27:32 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

77年前の8月15日は、昭和天皇が「無条件降伏」の意思をラジオを通じて大日本帝国軍部の中枢に伝えた日である。日本国民を天皇の言葉の証人とすることで、天皇は軍部の反乱を未然に防ごうとしたのだ。

数日前の豊永郁子の朝日新聞寄稿『ウクライナ 戦争と人権』はウクライナ大統領ゼレンスキーにロシア大統領プーチンとの「和平」を迫るものである。

私は、ロシアから一方的に攻められているウクライナの政府を、批判する気にはなれない。私は怒ったり泣いたりする「心情倫理の人」である。

それでも、ウクライナに平和が早く戻ってほしいと思っている。どうしたら、ウクライナとロシアとの和平が実激するのか、考えてみた。そこで出てきた案は、アメリカとイギリスがウクライナの戦闘地域に停戦維持団を送ることである。公平を期して、ロシア側には中国軍が停戦維持団を送ればよい。

ウクライナもロシアも戦争に消耗している。戦争を行えば、両方で人が死ぬ。人の補給は時間がかかる。しかも、ミサイルや弾薬も尽きかけている。和平が実現しないのは、失ったものが大きく、和平で得るものは「戦争で殺されることがない」という休息だけである。

本来、土地は誰のものでもない。人間は一時的に大地に養っていただいている通りすがりの生き物である。領土問題の解決は今回あきらめて、遠い未来に委ねるしかない。ミンスク合意に基づいて停戦合意を、外部から強引にまとめるしかない。

ウクライナ政府にとって、ロシアが停戦を守らず攻めてくるのが、怖いのである。停戦が永続的に守られれば、ウクライナに同情する人びとの援助で経済復興ができるだろう。ミサイルが飛んでくることを心配せずに、前線から帰ってきた夫や息子と共に、働いて食べることほど、幸せなことはない。思うに、それは日本が77年前に敗戦で得た幸せである。

しかし、ウクライナ政府もウクライナ国民も、合意書の紙きれが停戦を維持できると思わないであろう。私も思わない。唯一の停戦の保証は、今の戦闘地域にアメリカとイギリスの戦闘員を大量に駐留させることである。

現在、アメリカは全世界に基地をもち、軍隊を駐留させている。そのうちの日本とEU諸国のアメリカ軍基地を閉じ、アメリカ軍をウクライナの戦闘地域に移動させればよい。国連の平和監視団と違い、停戦違反があれば、容赦なくミサイル攻撃や戦闘機による爆撃や戦車の砲撃で壊滅させるのである。50万から100万人の兵力があれば、戦闘を抑え込めるだろう。

今までのアフガニスタンやイラクの駐留と違い、ウクライナ人を敵にまわしていないから、アメリカ軍やイギリス軍は活動しやすい。

いっぽう、日本には戦後77年たってもアメリカ軍が駐留している。もはや日本がアメリカを軍事攻撃することはないから、安心してアメリカ軍はウクライナに行ってもらう。日本国民もせいせいして気持ちが軽くなるだろうし、ウクライナ国民はNATOに加盟するよりももっと安心できるだろう。100年ぐらいアメリカ軍とイギリス軍がウクライナの戦闘地域に駐留すれば、ウクライナとロシアとの憎しみも薄れてくるだろう。

私は、アメリカ軍とイギリス軍のウクライナ駐留で、第3次世界大戦が勃発すると思わない。また、核戦争が勃発すると思わない。ウクライナ政府もロシア政府も内心は戦争を続けたくないのである。しかも、駐留軍は停戦の維持を目的としている。ミンスク合意が守られなかったのは、実力による停戦の実現という仕組みがなかったからである。永続的平和が実現できるなら、ドネツク州、ルガンスク州、クリミナ半島がロシアに併合されたとしても、ウクライナ国民は耐えることができるだろう。

土地は誰のものでもない。住む人が入れ替わるのは仕方がない自然の定めである。


豊永郁子の『ウクライナ 戦争と人権』を考える

2022-08-13 00:24:24 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

きょうの朝日新聞に豊永郁子の寄稿があった。タイトルは『ウクライナ 戦争と人権』である。徹底的な抗戦よりも降伏という手がウクライナにあるのではないか、というものである。確かにその選択肢がある。

今から80年前、4年間近くアメリカと闘った日本を思い返すとき、その考えにうなづける。戦争を続けているかぎり、人が殺され続ける。

しかし、アメリカとの戦争は日本から仕掛けたものだ。ウクライナはロシアの侵攻に対しての本当の「専守防衛」である。しかも、ウクライナは独立国であり、議会も機能している。日本にいて、他国であるウクライナに降伏した方が良いとは、私には言えない。

「戦争」は暴力である。自分の意思を暴力によって貫徹することである。東ヨーロッパやバルカン半島の歴史を見るとき、暴力が荒れ狂っていた歴史がある。自分の小さな幸せを守るには、山間部に逃げ込むしかなかった。しかし、人口が増えた今となっては、山間部に逃げ込むといっても、現実的ではなく、難民として周辺国に逃げ込むしかない。

私の子ども時代は、戦後であるが、町には暴力団がおり、学校には番長がいた。いつでも、闘うのだという緊張関係のもとに、平和があった。情け容赦のない無茶な要求には闘うという姿勢を堅持することで、小さな幸せが守られた。さもなければ、暴力によって際限なく奪われ続けるのである。

ウクライナの徹底抗戦にはそれなりの理由があるのではないかと思う。また、ロシアの侵攻にもそれなりの理由があるだろう。兵器は無料ではない。弾薬には限りがある。殺される兵士、民間人の数も限りがある。戦争の無意味さを味わうだけ味わって、すべてを失って、戦争が終わるだろう。

今回の戦争勃発に至った誤りは、アメリカ政府が最初に戦わないという意思を表示したことにある。この2月にロシアのウクライナ侵攻があるとわかったとき、アメリカ政府は、ウクライナに在留のアメリカ人を引き上げさせ、選挙で選ばれたゼレンスキー大統領に国外逃亡を勧めたのである。アメリカ政府はウクライナに軍事侵攻しなかったが、あのとき、ウクライナの国民を裏切ったのである。

ウクライナの北部は森林と沼地である。ベラルーシからウクライナ北部に侵攻したロシア軍は一本道の道路をだらだらと進むしかなかった。日本のメディアはバカなロシア軍と報道したが、この段階で「短距離」ミサイルがウクライナ軍にあれば、最初の侵入を食い止めることができたのである。ロシア軍の侵攻はアメリカ政府がウクライナを見捨てたことを知った上での作戦であった。

勘ぐれば、ロシア政府とアメリカ政府のあいだに何かの了解があったのではないかとさえ、思える。

自分の尊厳のため、家族を逃がし、死ぬという選択肢も個人にあると思う。自分の尊厳とは、自分は奴隷ではなく、自由意志をもった人間であることだ。イマニュエル・カントの「啓蒙」とは、自分が自由意志をもった人間であることを自覚させることである。「信念だけで行動して結果を顧みない心情倫理の人」とゼレンスキー大統領を非難するのは一方的すぎないかと思う。

豊永はガンジーの「非暴力主義」に言及するが、「非暴力主義」はそれが通用する社会制度の存在を前提としており、私の経験では、「非暴力主義」が通用する社会を築くには継続的な戦いがあると思う。そこでは多少の暴力が必要になるかもしれない。悪が善に打ち勝つことにも耐えて、「善」を掲げ続ける局面もあるのだろう。

日本の現実に戻ると、日本は中国や北朝鮮に戦争を仕掛ける必要がない。軍備の拡大もいらない。改憲もいらない。それよりも、アダム国とエバ国の論理で信者に一方的献金をさせる統一教会と関係をもってきた日本の政治家の無節制ぶりを批判するほうが急務だと思う。


「セキュリティークリアランス(適正評価)」とは何か知っていますか

2022-08-11 22:48:25 | 経済と政治

けさの朝日新聞によると、経済安全保障担当相の高市早苗早苗が、就任会見で、「セキュリティークリアランスは非常に重要だ。これを何としても(法律に)盛り込みたい」と、経済安全保障推進法の改正に意欲を示した。

この「セキュリティークリアランス」とは「先端技術を扱う民間人らに対して、政府が借金の有無や家族関係などの調査を行う適性評価」のことである。トンデモナイことである。

科学技術は人類共通の財産であり、本来、隠しだてするものではない。また、科学者や技術者のプライベート生活や内心に政府が立ち入って選別することは、科学者技術者を委縮させ、科学技術の振興を抑えることになるだろう。

科学技術は人類共通の財産という理念から、科学者には新しい発見に対し、ノーベル賞のように、名誉と賞金が与えられる。技術者には新しい発明に対し、特許制度を通して、経済的特典が与えられる。いずれも、発見、発明の公開を促すためである。

朝日新聞によれば、高市が「定性評価」の考えを述べるのは、今回が初めてでない。彼女が自民党政調会長時代も、「経済安保法に適性評価が整備されていなければ、先端技術をめぐる欧米との共同研究に支障を来す」と問題を提起していた。首相の岸田文雄も、これまでの国会答弁で、適性評価について「今後検討していくべき課題のひとつ」と発言しており、この高市の考えを了解しての、経済安全保障担当相の起用と思われる。

科学技術の知識の伝播は防ぎようがない。防ぐよりも、お互いに協力して、人類全体の生活を豊かにした方が良い。

アメリカは戦後間もない頃、核爆弾製造の秘密をソビエト連邦に漏らしたとして、イギリスの科学者を殺害したが、核爆弾が実現できるという情報があれば、設計図を盗まなくとも、製造インフラが整っていて科学者、技術者がいれば、どの国でも、核爆弾を開発製造できるのである。

その後の水爆の開発競争では、ソビエト連邦がアメリカに勝った。もっとも、水爆の開発も核爆弾の開発も良いことではない。

半導体の知識はすでに世界中に広まっている。製造インフラも世界中に広がっている。止めようがない。

バイデン政権が推し進めている「経済安全保障」という考えは、これまでの「自由経済」という考えを否定するものであると同時に、「啓蒙思想」に挑むドン・キホーテのように無理な戦いであると思う。どこかの国が、富を独占するために、知識の流出を抑えるということは、決して良いことでもなく、統治者の妄想で、科学者や技術者の自由な活動を抑え込み、科学技術の停滞を招くだけである。


こころあたたまるイギリス映画『ラスト・クリスマス』

2022-08-09 23:01:15 | 映画のなかの思想

きのう、テレビで、2019年のイギリス映画『ラスト・クリスマス』(Last Christmas)を見た。この映画は、アメリカでまったくヒットしなかったが、心あたたまるクリスマス映画と私は思う。

物語は、緑色の妖精の衣装を年中つけた店員ケイトが、トムと出逢って、半分死んだような だらけた生活から しだいに抜けて出て、ホームレスの人たちのためのボランティア活動も始める。ケイトはトムの部屋に訪れたとき、たまたま いた不動産屋に、この部屋の住人は去年のクリスマスに交通事故で死んだと知らされる。そして、ケイトは、自分の心臓が脳死のトムから移植されたものと気づく。ケイトはトムがいつも自分の中にいると知り、みんなとともに生きていくことの勇気を得る。

そう、last Christmasは「去年のクリスマス」という意味である。

ウィキペディアを見ると、映画評論家のつけた評価は、10点満点で5.52点となっている。「『ラスト・クリスマス』の主演2人には好感が持てるし、スタッフにも才能豊かな人が揃っている。また、音楽の使い方も巧みだ。しかし、それらを以てしても、お粗末なストーリーという欠点を相殺できていない」と評されている。

ケイトもトムも魅力的だし、ロンドンの下町が美しく撮れているのに。

アメリカ人やアメリカの批評家に受け入れられなかったのは、「お粗末なストーリー」というより、イギリス人にとってはあたりまえのことが、平均的なアメリカ人にとっては、許せない現実なのである。

トムは中国系イギリス人なのである。しかも、背が高くてかっこいい。アイススケートをケイトに教える。自転車に乗ってケイトの前に現れる。自動車ではないのだ。アメリカ人には、ケイトのヒーローが、中国人であるだけでなく、自動車も買えない貧乏人なのが許せない。

ケイトの両親はユーゴスラビアからの難民である。ケイトの父親は故国では弁護士であったがロンドンではタクシーの運ちゃんである。(ケイトを演じたエミリア・クラーク自身はインド人の血が混じったイギリス人である。はじめて映画で見たとき、私はイラン人かと思った。)

ケイトが働いているクリスマス飾りを年中売る店の主人は中国系女性である。彼女に思いを寄せるのはオランダ系男性である。

ケイトの女友だちは、アフリカン(黒人)と同棲している。

ケイトの姉(弁護士)はどうもレスビアンらしい。しかも相手はアフリカンである。

ホームレスの世話をしているのは教会ではない。貧しい人たちの自立組織だ。アメリカ人は左翼だと警戒する。

ケイトは歌手にあこがれていたが、結局、ホームレスの人たちとともに企画したクリスマスの集会で、無料で歌って踊るのだ。アメリカ人の大好きな成功話しでない。

しかも、福音派の期待するキリスト教の教えが一切出てこない。キリスト教徒の決まり文句が出てこないから、聖なる気分になれないのだ。

クリスマス映画にしては、アメリカ人の期待するおとぎ話ではない。

この映画の監督、脚本家、出演者はイギリス人なのである。アメリカ文化とイギリス文化との違いをおもわず見てしまった。