北の旅人

旅行や、ちょっといい話などを。そして、時には言いたいことを、ひとこと。

愛の流刑地

2007-03-06 11:43:11 | Weblog

女優の寺島しのぶさんがフランス人男性と結婚したという。最近、大ヒットした映画「愛の流刑地」を見て、なかなかいい演技をしていたなと思っていたので、「あぁ、やっぱり」というのが率直な感想だ。恋愛が芸の肥やしになっていたのだと思う。

ところで、「愛の流刑地」の作者・渡辺淳一氏は、次ぎのように言っている。
いま、純愛ブームだという。肉体関係がない、精神的なつながりだけの愛が純粋だと思いこむ。だがそれは単に未熟な幼稚愛にすぎない。精神と肉体と両方がつながり密着し、心身ともに狂おしく燃えてこそ、愛は純化され、至上のものとなる。 今度の小説は、その純愛のきわみのエクスタシーがテーマである。その頂点に昇りつめて感じた人と、いまだ知らぬ人との戦いである。最高の愉悦を感じるか否かは、知性や論理の問題ではなく、感性の問題である」

ちょっと 待っていただきたい。ほんとうにそうだろうか。冬香は「今まで生きてきた中で今日が一番幸せ」と言っているが、両方の家庭を捨て、お互いの快楽に溺れきっていくのが、果たして純愛と言えるのか。宣伝文句にあるように、究極の愛と言えるのか。はなはだ疑問だ。そもそも、純愛という言葉の定義もよく分からない。大好きな新明解国語辞典によれば、「その人のためになら一身を犠牲することもいとわない、ひたむきな愛」だという。

とすれば、私は、長い人生を共に歩む過程で、色々な荒波を乗り越えたその先にある、お互いの信頼感が、より高まったところにこそ、純愛というものが存在するのではないかと思うのだが。確かに、精神と肉体の両方がつながることは大事だ。しかし、それは、いつまでも続くものではない。その両方がつながらなければ、愛は純化されないのか、愛は至上のものとならないのか。否である。

 テレビが結婚詐欺の話を伝えていた。9人だかがだまされ、何百万、何千万と騙し取られたという。多くは人妻だとか。そして、訴えたのは34人だけだという。そのうえ、裁判で証人出廷した女性は、刑を終えてきたら結婚すると証言したそうだ。他の女性も、「今まで自分もいい思いをしてきたから」という。

まったく、男と女は分からんものだと、つくづく思う。そして、女は怖いなー、というのが正直な気持ちだ。だから、一度ぐらい、菊治役を演じてみたいものだと考えないでもないが、やっぱり止めておこっと。


もっと、静かな社会を

2007-03-05 11:46:36 | Weblog

日、妻と街へ買い物に出かけた。電車に乗ると、女子校生のグループが、あたり構わず大きな声で話し、ゲラゲラ笑う。学校の休み時間の延長のような感じなのだ。一言注意しょうかと思ったが、次の駅ですぐ降りたので何も言わなかったが、他の乗客も迷惑そうな顔をしていた。

きな衣料品店に入ると、若者向けの賑やかな音楽が、かなりの高音でかかっていた。私は、できるだけ早く店を出たかったが自分のものを選んでもらうということもあって、やむなく20分位いたが、あれでは若い人たちにはいいかもしれないが、年配者には、ちょっと抵抗がある。ゆっくり商品を選ぶということには結びつかない。

食にしようと、洋食屋さんに入った。何かのキャンペーンとかで安さに魅かれたのがいけなかった。ここでも、ガチャガチャという忙しい若者受けするような音楽がかかっていた。食事は落ち着いてしたいものだが。これからは高齢者が多くなっていくという流れのなかで、経営者は、もっと音に敏感であるべきではないかと思う。

がしさは街中ばかりではない。例えば、最近のテレビ番組もその一つだ。ワイドショーときたら、司会者のほかに、コメンテーターと称して4人も5人も並んで、ああだ、こうだと言い合っている。一体あんなに大勢必要なものなのか。長い時間の構成であることや、扱うテーマが多岐にわたっていることもあるだろうが、チョットうるさ過ぎだ。

番組にしても、好きな歌を聴きたくてチャンネルを合わせるのだが、まるでバラエティ番組と間違ったかと思うほど司会者がくだらないことを喋っているケースが多い。要は、いい歌を聴きたいのだ。昨年のNHK紅白歌合戦も、そうだった。お笑いタレントを連れてきて、たいして必然性もないのに時間を割いていた。だったら、もっと歌唱力のある歌い手の歌を、じっくり聴かせるべきだ。

の時代、すべてにおいて落ち着かない、騒々しい世の中だ。次の時代を担う子どもたちを取り巻く環境としても、もっと静かな社会を取り戻す必要がある。


小学生時代の恩師との交流

2007-03-04 11:34:04 | Weblog

は、卒業式のシーズン。テレビでも野球の田中将大君や卓球の福原愛ちゃんなど、次代の星たちの姿をとらえていた。ぜひ大きく羽ばたいてほしい。

んなテレビ画面を観ながら、何十年前の自分の卒業式やクラス仲間、恩師の顔を思い浮かべていた。仲間たちとは、何年かに一度は同期会などで会う機会があり旧交を温めているが、先生たちとは、なかなかそうもいかない。

かし、私には、手紙や年賀状をやり取りしている小学、中学、高校時代の恩師が4人いる。いずれも、住んでいる地域は違うが、年賀状だけの先生、年に一回美術工芸展に参加しているからと案内をくれるので会いに行く先生、そして書くことが好きな先生だ。

くに、書くことが好きなS先生は、小学5年生のときの担任だった。この先生は授業中に、よく物語を話してくれたのを覚えている。マクベスだの、リヤ王だの、小公子だの、とにかく授業が楽しかった。自然豊かな田舎の学校だったので、授業以外にも野球、釣り、キャンプなども一緒に遊んでくれた。

の先生とは、卒業以来、特別な交流はなかったのだが、10年ほど前、先生が勤務している地域の郷土史を出版したのを新聞で読み、勤務している学校も分かったので連絡。以来、ときどき手紙をやり取りしている。最初のころは、学校での思い出やクラスメートの消息、その後のお互いの歩みなどが中心だった。

近は、旅行好きでもある先生だけに奥さんと車で何か月も全国を旅しており、それぞれの土地の歴史・文化、旅先で知り合った人々とのふれあいなどを教えてくれる。また、地元新聞に書いているエッセイのコピーを同封してくることもある。私がちょっと面倒な病気になったと報告すると、その治療に関するアドバイスや食事も大事だよと、「わが家の今日の三食は、こんな具合だけど参考にしてよ」と、こと細かく書いてある。

は学校が荒れていると、よく見聞きするが、教える側も学ぶ側も、今一度、考え直すことが大事ではないかと思う。時代が違うといえば、それまでだが、当時をかえり見れば、先生も一生懸命愛情を持って教えてくれていたように思う。生徒も先生を尊敬していた。

それ故か、こうして、何十年の時を経て小学生時代の恩師と親しく交流を持てることは、大変幸せなことだと改めて感じている。


東京都知事選挙①

2007-03-03 13:51:00 | Weblog

京都知事選挙の対決構図が、ほぼ見えてきた。マスコミ報道を見る限り、民主党は相変わらず迷走しているが、前宮城県知事・浅野史郎氏が立候補するのは間違いない。少し前までは、出馬はしないと言っていたのだが、昨日は出馬表明でもないのに、わざわざ記者会見を開くなど、まさに選挙戦略の一環としてマスコミを上手に利用している。

城県知事に初当選したときは、告示3日前の出馬だったことを考えれば、今回も選挙の戦い方としては、なかなか、したたかだ。改革派知事として、情報公開、福祉政策などで実績を上げたとされるが、312年で、県の借金は7105億円だったのが、13653億円へと約2倍に膨れ上がったという。人気取りやパフォーマンス先行型の知事に往々にしてありがちなパターンだ。

つて、革新の旗手として、もてはやされた横路孝弘・元北海道知事の場合も、同じように1100億円あった貯金を1期目でほぼ使い果たし、2期目には例の「食の祭典」の失敗で100億円の大赤字を出した。横路氏の場合も、やはり人気取りが先行した結果で、さしたる実績も残さずに知事の座を去った。

方、石原慎太郎知事はどうか。一言でいえば、「驕り」が過ぎるのではないか。はっきり物を言う姿勢は評価できるが、トップの立場としては、言動にはもっと謙虚であるべきだ。有権者は、こうした点については敏感に反応するものだ。今や、マニフェストいう言葉が花盛りだが、政策を細かく比較して投票する有権者は、それほど多くはない。果たして、この候補者は信頼できるかどうかを、その言動、表情から、厳しくチェックしているのだ。候補者は、このことを肝に銘ずるべきだ。

策についても、東京オリンピックを招致する前に、地球規模の温暖化や、大地震対策などといった緊急課題に重点を置くべきではないのか。民主党の対応がイマイチはっきりしないので断定はできないが、ぜひ首都・東京にふさわしい選挙戦を見たいものだ。


東国原知事現象

2007-03-02 11:31:11 | Weblog

国原・宮崎県知事がテレビを席捲している。ワイドショーは各局とも連日取り上げている。上京したと言えば、朝から晩まで密着取材と称して、車やエレベーターの乗り降りまでカメラを回すなど、なんの関係もない場面まで追跡する有様。時の人だからやむを得ないかもしれないが、ちょっとやり過ぎだ

議会は知事としては無難に乗り切ったというところかもしれないが、オール野党といわれた議員の皆さんからも、それほど切れ味鋭い質問もなく緊張感に欠けていた。お互い様子見といったところだろうが、議員にとっては4月が選挙。知事をいじめているという印象を県民に与えると、自らの選挙に直接影響してくるという議員心理がみえみえなのだ。選挙で政策を競ったのだから、もっと堂々とした論戦を交わすべきなのだが。

 ころで、知事の真価が問われるのはこれからだ。今はタレント業の乗りで宮崎県のセールスマンとして、それなりの役割を果たしているとは思うが、統一地方選挙後は、そう簡単に事が運ぶとは思われない。選挙での公約を如何に実現していくかが問われるからだ。「県民の意識改革の必要性」「宮崎県の潜在能力の発揮と情報発信」「公正でクリーンな県政の実現」など、いいことを沢山言ってはいる。

 かし、宮崎県には現在9050 億円の借金がある。そうした状況の中で、知事は任期中のできるだけ早い時期に、単年度で350億円の歳出削減による財源捻出と、事業見直しを目標とする財政改革を掲げている。この額は、あの北海道夕張市が18年間で解消しようとしている赤字353億円とほぼ同じなのだ。県民に厳しい痛みを強いる場面が必ず出てくるが、そのとき、いかに県民の理解を得られるか、あるいは庁内の人心を把握して県政を推進することができるのか。知事が思うような政治手腕を発揮できるのか。

 つて、いわゆるタレント出身知事として、青島幸男・東京都知事、横山ノック・大阪府知事などがいたが、見るべき実績を上げることなく、退場していった。マスコミは物珍しさも手伝って今は好意的に扱っているが、長続きするかどうか見ものではある。


電車の中で

2007-03-01 13:09:47 | Weblog

員電車で座っていたら、私の前に立った5歳ぐらいの子どもが乗ってすぐ、「ママ、座りたい」と言った。母親は、「○○ちゃん、座りたいねぇ。いつもは皆立ってくれるのにねぇ」と、大きな声で催促するように言った。

5歳なら立っていてもいい年齢だ。ましてや母親はまだ若い。子どもを連れていたら、みんなが当然立ってくれると思っているらしいので、私は決して立たなかった。私の周りの人たちも、私より若かったけれど、多分私と同じように感じたのか立たなかった。

親は不機嫌そうに別の車両に移って行った。そこでも同じことを言って立ってもらったのだろうか。

い人だって、一生懸命仕事をし、疲れて家路に着くのだ。この子が大人になったとき、果たして席を譲れる人間になれるのだろうかと思った。