女優の寺島しのぶさんがフランス人男性と結婚したという。最近、大ヒットした映画「愛の流刑地」を見て、なかなかいい演技をしていたなと思っていたので、「あぁ、やっぱり」というのが率直な感想だ。恋愛が芸の肥やしになっていたのだと思う。
ところで、「愛の流刑地」の作者・渡辺淳一氏は、次ぎのように言っている。
「いま、純愛ブームだという。肉体関係がない、精神的なつながりだけの愛が純粋だと思いこむ。だがそれは単に未熟な幼稚愛にすぎない。精神と肉体と両方がつながり密着し、心身ともに狂おしく燃えてこそ、愛は純化され、至上のものとなる。 今度の小説は、その純愛のきわみのエクスタシーがテーマである。その頂点に昇りつめて感じた人と、いまだ知らぬ人との戦いである。最高の愉悦を感じるか否かは、知性や論理の問題ではなく、感性の問題である」
ちょっと 待っていただきたい。ほんとうにそうだろうか。冬香は「今まで生きてきた中で今日が一番幸せ」と言っているが、両方の家庭を捨て、お互いの快楽に溺れきっていくのが、果たして純愛と言えるのか。宣伝文句にあるように、究極の愛と言えるのか。はなはだ疑問だ。そもそも、純愛という言葉の定義もよく分からない。大好きな新明解国語辞典によれば、「その人のためになら一身を犠牲することもいとわない、ひたむきな愛」だという。
だとすれば、私は、長い人生を共に歩む過程で、色々な荒波を乗り越えたその先にある、お互いの信頼感が、より高まったところにこそ、純愛というものが存在するのではないかと思うのだが。確かに、精神と肉体の両方がつながることは大事だ。しかし、それは、いつまでも続くものではない。その両方がつながらなければ、愛は純化されないのか、愛は至上のものとならないのか。否である。
テレビが結婚詐欺の話を伝えていた。9人だかがだまされ、何百万、何千万と騙し取られたという。多くは人妻だとか。そして、訴えたのは3~4人だけだという。そのうえ、裁判で証人出廷した女性は、刑を終えてきたら結婚すると証言したそうだ。他の女性も、「今まで自分もいい思いをしてきたから」という。
まったく、男と女は分からんものだと、つくづく思う。そして、女は怖いなー、というのが正直な気持ちだ。だから、一度ぐらい、菊治役を演じてみたいものだと考えないでもないが、やっぱり止めておこっと。