6丁目のつぶやき

歩く、登る、耕す、聴く、造る、採る、乗る、見る、の写真ブログ徒然草

夕闇せまる松山城

2019-11-23 | 
松山には若い頃から何度も行ったが
ほっちゃん湯 ばかりに魅かれて
松山城は遠くから眺めるだけだった

城巡りに興味を持ち始め
現存12天守の一つ
重要文化財の
この城は是非観なくてはと・・・

交通渋滞で松山へ入るのが遅くなり
黄昏時に登る











高さ132mの勝山に築かれた
五重天守閣の連郭式平城





秀吉の家臣加藤嘉明が
伊予20万石を与えられ築城
完成まで26年の歳月
その後蒲生氏入城、親藩の松平氏が
入封幕末を迎える

天守は江戸時代から現存する
まさに松山市のシンボルと実感

海上に沈みかけた夕陽が
高く聳える石垣と城に
煌々とあたり
戦の無い現代の今
城は平穏な日々で
平和のありがたみを感じ
それは綺麗感激の瞬間







まさに
 春や昔
   15万石の城下哉  正岡子規
でした


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阿波踊りの徳島城跡

2019-11-21 | 

徳島城は
秀吉四国平定の後
蜂須賀家政が吉野川河口の山に築いた
悌郭式平山城
標高61mの山頂に本丸を築き
周囲の自然河川を巧みに利用して
東に内堀を配し
石垣は阿波の青石を
高石垣として築き
西の丸の石垣は屈折を繰り返し
横矢がかりの工夫がわかる



天正13年から明治8年まで
280年間蜂須賀家の居城で
お濠に面した脇戸つきの薬医門
「鷲の門」が瓦と共に
残された建物(再建)で
昔を忍ばせる





ボルトノキが当地の銘木とか
幹の太い先に葉がところどころ
赤く染まりそれが実で有るかの様な
不思議な木が本丸近くに生えて
在し日の天守を想う







蜂須賀家の入封と
徳島城の完成を祝って
領民が無礼講で踊った踊りが
阿波踊りの起源らしい

蜂須賀家政公銅像での表情は
いかにも領民に好かれる様な
温和な顔で阿波踊りも
さもありなんでした

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雅な一乗谷城朝倉館

2019-10-14 | 

NHKの大河ドラマに
戦国時代の知将
明智光秀の謎めいた幼少期から
信長を打つまでの生き様が
放送されるらしいが
ご当地が関係しているらく
観光客は多くなっていると・・・

でも駅より乗ったバスはガラガラ
一乗谷城の山城については
バス運転手もよくわかってなく
どこで降りるのか小首を傾げ
まだ観光ずれしてない

復元街並下車と言う所で
降りることを決断して
押ボタンを押し慌てて降りた

丁度昼時 地元 おろし蕎麦をかきこんだがこれがシンプルで蕎麦の香りムンムン美味い

1人で打っているそうだが
まわりの人も
皆おろし蕎麦を注文していた
 
広場には観光バスから
ツワー客が降りて
400年以上埋もれ
復元された街並を観るが・・・

一乗谷城の山城については
誰も行き先が分からず
幸運にも山頂から戻った
5、6人の登山客に
城跡を聞いたが
城に興味が無いらしく
ただ石碑があるだけだと・・・

築城1471年 越前守護朝倉氏の居城で
標高473mの山上に
畝状竪堀に防御され
千畳敷跡、一の丸跡、二の丸跡、三の丸跡等の曲輪には
樹木が生い茂り
屋敷跡を想像するだけで
たくましくしたが・・・
 
 山裾の武家屋敷群は
唐門、朝倉氏館跡、庭園等
朝倉家 の京都を意識した
雅な雰囲気で
こんな山深い所に
豊かな美意識があり
感無量だが


5代義景が信長に敗れて滅亡

戦国の城下町が煤塵と化した


遺跡からは川の護岸、石垣、庭石、瓦、井戸枠、排水溝、水樋、亀、石箱、町家の礎石、灯篭、行火、屋根飾り等々
ふんだんに使つた石造り文化で
何と言っても附近から産出された
笏谷石の利用で
独自の空間を作っているようだ

街道を歩きながら
下城戸跡

朝倉氏遺跡資料館
まで2時間ほど散策して
戦国時代のロマンに浸った

街道には紅い可愛らしい
さるすべりの花が
栄華を誇った朝倉氏の世界に
誘い込むようで・・・


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夕やみせまる福井城

2019-10-08 | 
夕食の為
泊まったホテルのすぐ裏を
歩いていたら
偶然にも
大きな水堀と孕んだ石垣に
出っくわした


イヤホーンを両耳に入れ
颯爽と歩いている
年の頃30代後半
小柄美人にすれ違ったので
思いきってここは福井城ですかと
聞いたらイヤボーンを
ゆっくり外して
嫌な顔せず

そうです。あそこの橋を渡れば
中に説明板があり
由来がわかりますからと・・・

笑顔で応えて指差してくれた
その仕草が
誠実で嬉しく
丁寧に礼を言って別れた

その余韻が残り
振り返ったらイヤボーンを
つけ始めながら反対方向へ
歩き始め
夕陽が眩しかった


外濠の橋は
めがね橋になり
濠水がキラキラと夕陽が輝き
絶景ポイントとなっていた

ウキウキしながら橋を渡れば
立派な県庁等々が立ち
傍に城の経緯が書かれた
銘板が有った


築城者である
家康の次男 秀吉の養子だった
結城秀康はまさか
こんな大きな官庁街に変わるとは
想いもしなかっただろう

翌日 もう一度観なくてはと
朝早く起き
誰も居ない後廊下橋をわたり
平成29年に復元された
山里口御門から
天守の大きな礎石を観る
石垣は無惨に
福井地震の傷痕が今も残る


天守は高さ約30mもある
5階の望楼型天守
石瓦は笏谷石で
葺かれていたそうだ
寛文9年(1669)に
大火で焼失
以後再建されなかった


福井城は明治維新を賑わした
松平春嶽の居城で
ここへ坂本龍馬も再三
来城したことを想ったり・・・

ちょうど朝のラジオ体操が
静かな官庁街にこだまして聞こえ
お濠を歩く犬の散歩に
時のうつろいを感じていた



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山城 七尾城跡

2019-09-24 | 
能登守護畠山氏の居城 長尾城
室町時代は砦のようなものであったが
その後169年間の間に
応仁の乱、一向一揆、百姓の強訴
などあり
徐々に山全体が城の様な
強固な山城になっていった

山の下の城下町は
禅僧が住み北陸を代表する
戦国都市であったと
最近わかってきた

それを上杉謙信が1年間猛攻して
畠山氏の重臣の内通により
落城 畠山氏滅ぶ

以後謙信はここへ居住
信長と対戦する為
平地まで降りて
有名な手取川の戦い
信長は実際には
この地に出撃していなく
秀吉も途中で引返し
柴田勝家だけが戦い敗れ去った

戦国の英雄 謙信は城から
七尾湾の絶景をみながら
詩など作り
春日山城へ戻り半年後に
あっけなく脳溢血で死んだ

その後信長の配下である前田利家が
能登の領主となり
もはや山城の時代ではないと
廃城にして
小丸山城に移る

以上歴史を踏まえ
日本100名城でもある
山城七尾城へ
登って見なくてはと・・・

能登半島の
JR七尾線七尾駅より
七尾城史料館まで循環バスで
そこから登り始める

以前に
越後上杉謙信の本家本元の
春日山城を喘ぎながら登って
山城の防御と厳しさに浸ったが
能登守護畠山氏の七尾城も
本丸まで標高300mの急峻な山道が
続く連郭式山城だつた

城はまだ高い石垣を
築く技術が無く
本丸に続く低い野面積みの石垣が
段々に繋がり


見た限りでは
難攻不落とは思えないが
この標高では攻めきれないのか
今は樹木が生い茂っていた


調度丸と桜馬場間の圧倒する石垣






本丸からの展望は七尾湾が一望でき

堀切、竪堀等を体感しながら
下山道の所々に門跡を見て
難攻不落の城だったなぁと
改めて知る


あいにく麓の懐古館は休館で
観られなかったが
厚い茅葺屋根が豪雪地帯の
風情をいまだに伝えていた










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最古が覆された丸岡城

2019-09-20 | 
日本100名城 丸岡城を観たく
JR北陸本線森田駅よりバスで
本丸岡下車、徒歩15分とのことが
車社会の影響かバスは廃止となり
止むを得ずタクシーで
行く羽目になった

お陰で時間短縮と
運転手さんの地方弁混じりの
観光案内で
旅気分を満喫し
歩くことなく丸岡城横付け
真正面に
無骨で素朴な城が
眼前に現れた


小さな広場は
観光バスから人々が次々と降り
歓声が大きくなった

最古の現存する12天守といわれているが
最近の学術調査で
三代将軍家光の時代に造られ
昭和23年の福井大震災で倒壊して
修復再建された

家光の時代に造られたにしては
石垣が質素な野面積の上に
1階は塗籠と下見板張
3階は真壁造り
屋根瓦は笏谷石の石瓦
天守各階の出窓や破風など
古風を感じる
誠に素朴で疑問が残るが?


何故重い石瓦か
戦国時代の屋根瓦は脆く
風に飛ばされやすく
瓦を結わえる銅線も無かったので
高価ではあるが耐久性のある
石瓦を用いたと


また来年の大河ドラマ
「麒麟がくる」で
明智光秀が過ごした所と
天守の最上階でパネルを前に
ボランティアのおじさんが
熱っぽく誇らしげに口角泡を飛ばし
ツワーのお客さんに
大きな声で
話していた

最古の城の代名詞がなくなり
しかも都市化の波で
周囲のお堀は埋め立てられ
城のみ可愛く存立して
可愛いそうな風情
現存する天守と思うだけでも
尊いものだと思うけど・・・


よく考えればこれが現代
致し方無いのかも・・・
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雨中の高岡古城公園

2019-09-16 | 
日本百名城の高岡城をみたく
富山駅からJRで行く予定が
高岡行きのバスに運良く乗れ
高岡古城公園前で下車

重い荷物を預ける暇もなく
生憎の雨が降り始め
公園内のあずま屋に飛び込んだら
老人達が談笑していた


ザックを置いて良いかと
聞いたら大金とられても
責任は取れないがと前置きして
本丸位置、石垣、お堀、滝等
丁寧に経路を説明して
周囲ざっと1時間
ゆっくりまわっておいでと・・・

おまけに帰りの新幹線駅まで
電車、バスで行く方法を
教えてくれたが
乗り継ぎより
タクシーに乗った方が楽だと
タクシー予約場所の茶屋まで一緒に・・・

加賀藩2代藩主
前田利長が隠居城として
計画したが
利長病死の為未完のまま廃城


現在は石垣と水堀が鬱蒼とした樹木に
覆われ自然そのものだ




水堀は公園面積の3分の1あるそうで
この水は川に接続されず
多分湧き水らしいが
枯れずに
滝まである


本丸広場、二の丸、二の丸から本丸に続く今も残る築城時の石垣、小竹薮、等
東京ドームの4.5倍にあたる広さの
水濠公園になっている






周囲に
市民体育館、動物園、博物館、市民会館
神社があり

春の桜、秋の紅葉が
水堀に映えて名所になるらしいが
今は酷暑で
緑豊かな自然が息づいている

ヤブランの濃い紫花が
雨に濡れて一面
妖しく咲いていた
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奈良平安時代の多賀城跡

2019-08-14 | 
JR多賀城駅で降り.
多賀城跡はどう行ったら良いか
JRの案内おばさんに聞いたら
キョトンとしていた

駅の売店でも
小首を傾げながら
駅をまちがったのではと?

多賀城と駅名が付いている以上
城跡はこの近くと
タクシーに乗ったら

運転手は

近いのは国府多賀城駅ですよぉ
皆さん間違えるんですよぉ
我々は感謝していますが・・・

駅を間違った私が悪かったが
多賀城跡は
地元ではあまり知らないらしい


奈良平安時代
古代東北の政治、文化、
軍事の中心地となった
律令国家要の900m四方に城柵に囲まれた
小さな平山城


中央に政務や儀式を行う政庁と
平城京にならったらしいが
高台の草原の中に
柱の礎石が
整然と並んで露出し
想像たくましくするだけ


圧巻なのは
政庁に向かう南北大路
ドーンとこの高台の政庁に
つながる一本道の下部には
碁盤の目の様な道路があって
官吏の住宅や兵士の宿舎が
あったそうで・・・





今は田んぼと県営球場や施設が
高台から見おろせ
当時のおもかげは無いが・・・

政庁に出這入りする南門を
南北大路に再建するようだが
完成すれば
一大スペクタルとなり
観光名所になること間違いない


多賀城碑は江戸時代に
土中から発見され た石碑で
大野東人による
724年の創建と刻まれ
芭蕉も
奥の細道の壺の碑で
石碑を見たことを書き残している


今、眼前に古人の心をけみす。行脚の一徳、存命の悦び、き旅の労を忘れて、
涙落つるばかり也 と

あたりに遅咲きのアヤメが一面咲いていたが

 菖蒲草
  足に結ばん草鞋の緒
とも仙台で詠んで
それに因んで植えたものか?

その1.2km先に
多賀城廃寺跡があり
今は公園だが
礎石だけが残っている

行ってみれば本堂、三重塔、講堂等の
伽藍配置が見られその奥に僧坊、倉、
鐘楼、経楼
こうした伽藍配置は大宰府の観世音寺と
共通していて
この地域が奈良平安時代に
タイムスリップしたようで
ロマンが尽きない






礎石を見て当時を偲ぶのは
復元された建物があるよりかえって
侘しさ、寂しさ、切なさが
伝わり想像力がわく

万葉集の編纂に携わった
大伴家持の最後の赴任先は
多賀城だった事
令和の年号も万葉集から等々
心に強く残った多賀城史跡であった


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哀れを誘う二本松城跡

2019-08-09 | 
東北本線二本松駅より
タクシーに乗り込み
阿武隈山系すそのの丘陵
標高345m
日本100名城の二本松城へ向かった

タクシー降りたところはいきなり
戊辰戦争で戦った
二本松少年隊の群像前
ここでも会津若松の白虎隊運命か・・・


中世から近世迄の
山城から悌郭式平山城として
幾多の変遷を経て
丘陵地に入り組む石垣は
いわく因縁があったのでは

二本松のいわれは良く分からないが
なぜか城と桜と言うように
城門も松によく合って絵になっていた




高い石垣山頂の本丸跡から見る
下界は敵がどこから攻めてくるのか
晴れた日なら一目瞭然




だが戊辰戦争の様な
鉄砲、大砲の時代では堅固な石垣も
ままならず
尊い命を大義のため捨てていったとは・・・


昔の山城だった頃の面影が
今も感じられるが
その木立の中に紫陽花が
やけにあちこち咲き
尊い命が乗り移っているような
はかない風情だった





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端正な白河小峰城

2019-08-05 | 
日本100名城 白河小峰城
歴史は古く
頼朝に従った結城氏が築城し
度々領主が変わって
江戸時代に入って
丹羽長重が10万石で立藩
小峰城を奥州の抑えとして
梯郭式平城で整備し
白河の関と併せてにらみを利かしていた

その城は
東北本線白河駅の電車を
降りた途端、兵庫の赤石城のように
ホームの向こうに
端正な三重櫓が見えて
思わず声を上げる


駅舎は大正ロマンの漂う雰囲気の
無人駅で出口は一ヶ所
そこから反対側の小峰城は
外へ出てガード下の広い地下道を
迂回しなければならない


その地下道には小峰城の大きな
歴史パネルが壁面に飾られ
成り立ちの知識を得る
そこを出れば眼前に広がる
高い石垣の上に三重櫓が
華麗に聳えている


平成3年に史実をもとに
新築したが
幸い東日本大震災では倒壊せず
石垣は残念ながら 10箇所の崩壊で
今も復旧中である


白河藩は幕府の直轄領となり
戊辰戦争で焼失してしまった
幕府軍の死者は700名に及び
戊辰戦争最大の激戦だったそうだ

シルバーボランティアおじさんが
口角泡を飛ばし
親切に説明してくれた

再建された三重櫓は
木の香りがまだ残って
小屋組の梁は手斧削りと
リアリティある造りだ


名城に値する立派な石垣が
壮大に何重にも取り囲み
太鼓櫓、月見櫓、等数々の櫓が
聳えていた頃の城は
石垣との対比で
堅固な城であったに違いない




桜の名所と聞き
一面に咲いた風景を想像すると
戊辰戦争で散った命の儚さで
複雑な気持ちになったが
城と桜は日本の風景にピッタリ
さぞかし圧巻だろうと・・・







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日本100名城 足利氏館跡

2019-08-01 | 
東武伊勢崎線足利駅より
徒歩10分
日本100名城 足利氏館
平安時代末期に築かれ
周囲900m角の水堀と土塁で
囲まれた中に
中世武士の館がある平山城である


館内に鎌倉時代に足利義兼によって
持仏堂を建立
鑁阿寺(ぼんなじ)国宝の始まりだそうだ

後に足利尊氏が室町幕府を開くと
氏寺として厚い保護を受けた

朝7時半、境内は小雨の中
静謐をきわめ
国宝の鑁阿寺本堂、国重要文化財の鐘楼、経堂、県指定文化財の多宝塔が






しっとりとこじんまり鎮座して
いた

国宝の本堂はさすが木材寸法が大きく
目を見張る
本堂内に安置されている大日如来の
鏡だけが暗い中一際ひかって神秘的だ

周囲に誰もいなかったので
身を正して
世の中平穏である様に
般若心経を3分半
声を出して唱え祈願

樹齢550年前後、幹回り8.1m、樹高31.8mの大銀杏から命をもらい
中世の館を清々しく観て
城というよりお寺さん詣でだった
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総石造りの太田金山城

2019-07-25 | 
群馬が誇る日本100名城 太田金山城は
標高239mの金山に
金山城本丸を新田一族
(鎌倉幕府討幕の立役者新田義貞の一族)
が1469年に築いた

その後下克上によって由良氏が
城主になり
由良氏の時代が全盛
上杉謙信、武田勝頼など有力大名から
10数回攻撃を受け
一度も落城することなく
その堅固さを誇っていたが
北条氏の謀略に落ち
その支配下となり
豊臣秀吉の北条征伐で金山城は廃城

以上の歴史を踏まえ
金山城に登る

三の丸、南曲輪迄タクシーで
行くこともできるが
山城は歩かなければ
防禦の地形がわからないとあえて
アスファルト舗装の道を避け
取っ付きから山道を
歩くこと90分

西城モータープールから
やがて急登の階段を登り
土塁、堀切、石垣が突然現れ
防禦施設として良く計算された
場所だったと・・・




三の丸、南曲輪には
あらゆる所に精緻な石垣が現れ
通路まで石敷き、土塁石垣で
また儀式が行われていた大きな池
二ヶ所ほど
石で囲まれ今も水を湛えていた







推定樹齢800年と伝えられる
大ケヤキが本丸手前に立ちはだかるが
金山城の興亡を
ずーと見てきたに違いない


山頂の本丸は見晴らし台に
なっていたが
晴れた日には遠く富士山、日光男体山、
赤城山、榛名山、妙義山、浅間山
関東平野を見られるとか
若かりし頃登った山々が見られず
残念!


帰りは見付出丸の土塁をみて
麓の大光院まで山路を歩く




本丸から尾根を削り
曲輪を造り石を積み
堀切、土塁で堅く守った
総石造りの落城しにくい
戦国山城だった




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寂しい箕輪城跡

2019-07-21 | 
日本100名城 箕輪城跡は
高崎駅からバスで35分
箕郷本町バス停で下車
箕輪城跡への道筋看板が所々にあり
迷うことはない

次第に山里を登ること15分
大手門跡にたどり着く


小雨の中小高い山に登って
中世の巨大な土塁、大堀切を見ながら
最近造られた城門をくぐり
土橋をわたる


堅固な土造りの悌郭式平山城で
群馬の名城と言われたらしいが
わたしにはただの山城としか見えない

今はエコトイレの備わる
閑静な野趣溢れた
公園になっていた


城主長野業盛は武田勢の猛攻を受け
遂に落城
辞世の句を残して地刃

春風に梅も桜も散り果てて
名のみぞ残る箕輪の山里



その後も武田、織田、北条と度々城主が変わり
徳川の井伊直正が8年の歳月を費やし
近世城郭に直したが
高崎城に移封され
存在価値を失い
廃城になった

今は住宅密集地域の先にある
土豪と堀のある公園となり
石垣もなく
二の丸あたりの灌木の合間に
白と紫色の紫陽花が小雨に濡れ
寂しく際立っていた

早朝だったためか
雨が降っていたためか
人一人会わない
観光案内所のない
静かな廃城跡の公園だった
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久しぶりの 元離宮二条城

2019-07-12 | 
京都には寺院見学で
度々訪れてはいたが
二条城は
高校時修学旅行で
二の丸の豪華絢爛な破風板が
印象に残っているぐらいで・・・


城巡りに興味を持ち始め
日本100名城の城として
じっくり観なくてはと・・・

世界遺産でもあり
観光客が多く
落ち着いて見られないのではと
開門時間前に行ったら既に
外人客が長蛇の列
いやはやまいった


家康の征夷大将軍就任
儀式に始まって
慶喜の大政奉還で終わる
徳川幕府のメモリー的な城

正式名称 元離宮二条城


六棟からなる住宅様式の書院造り
徳川家の輪郭式平城で
国内の城郭に残る唯一の住宅群
安定していた270年間だからこそ
防備のない
篭城して戦うには全く不向き構成だ


内部は狩野派による障壁画
多彩な欄間彫刻、飾り金具で装飾
豪華絢爛な空間には
驚く

さらに進んで
お濠の本丸櫓門をくぐると
観光客も急激に少なくなり
本丸御殿は改修中
天守閣は石垣だけで
掘りの淵に高く聳えていた

籠城戦に備え米蔵、井戸、鉄砲穴もあり
ここなら城の体を成して
要塞としての
防備策が取ってあるなと・・・






400年の時を経て
今も純欄たる
桃山文化の遺構を観られ
感激だ

それにしても
京都の外人観光客が多いことに
驚いた!
世はまさにグローバルだ
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日本三代山城の高取城

2019-06-25 | 
奈良盆地の南
標高583mの高取山山頂に築いた
高取城は
備中の松山城、岐阜美濃の岩村城
と並んで日本三大山城のひとつ
山城歩きを行なっている者には
欠かせない城だ

古都奈良の古墳群を
車窓から次々に望みながら
近鉄線壺阪山駅を下車
徒歩で土佐街道から
武家屋敷藩主植村家長屋門を横目に



急登の続く山へ入る
この間30分

坂道の続く
七曲りを汗拭きながら喘ぎ
登山気分で60分登る

途中
石垣用の石を飛鳥から運んだ
転用石、猿石 (礎盤は古墳石だそうだ)
を見て一休み

また登り
国見櫓跡で下界を見下ろし休み

二ノ門跡の崩れそうな石垣を経て

急峻な坂道を登れば
次々と朽ちかけた城門、櫓跡
二の丸、本丸の立派な石垣が現る








南北朝時代から
周囲3kmに及ぶ広大な縄張りに
いくつもの枡形虎口、石垣の高さ等
度肝を抜かれ
明治の初年まで三重の天守が


あったそうで
往時の栄華を感じる










石は平地から担ぎ上げ
その量たるや想像するだけでも・・・
中には石膏のついた石も
発見されたそうで
これは切石古墳から
運び出されたものと・・・

時の権力者の横暴、権威、シンボル性、
食料や生活物資の担ぎ上げ、等々
当時の苦労は血と汗と涙
並大抵ではなかったかと
唖然とする


泰平の江戸時代は
城番を置いて藩主以下大部分の人が
下界に降りていたそうだ

天空の城だったのでは!

嶮さ、壮大さ、複雑さにおいて
日本三大山城まちがいないと実感した

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