何か食べたいものはと聞かれれば
即座にビールとうなぎ
たまらなくなり友人と目を合わせ
値段も同じならと
うな丼を頼んだ
タレも少なからず多からず
うまっ‼
何か食べたいものはと聞かれれば
即座にビールとうなぎ
幼少時利根川源流に育ったが
谷川岳の雪解け水の中で唇を紫色にして
水泳や川魚を獲ったりして
時々石にはりついて暖を取り
日の暮れるまで遊び狂った
この水が
海にたどり着くまで
いろいろな出会いがあって・・・・
どういう経路で流れていくのか
想像たくましく思ったものだ
水郷下総の霞ヶ浦、鹿島、潮来、佐原、の地図を見て
沼が多く
大湿地地帯を形成しているのは
利根川が日本で2番目の長さで大量の水が
起因しているのではと・・・・
行ってみたい思いを強くして
鹿島神宮詣でのついでに足を延ばした
閉鎖間近の神宮は
参拝客が大鳥居を背にして
あわただしく帰路を急いでいる様だ
神戸三ノ宮で飛行機に乗るまで
半日余裕ができ
六甲山へ行ってみる
岡山からJR津山線
快速列車で山々の終わりかけた
紅葉を観ながら
山間の津山駅に下車
駅前は人影が少なく
観光案内所も見当たらず遠くの山に
それらしき城を見出した
今にも降りそうな空模様の中
歩き始め徒歩15分
出雲街道に接して
標高41mの小山にシンボリックな備中櫓が
天守の様に見えてきた
一二三段と呼ばれる高石垣が重なり
石垣のオンパレード
枡形虎口があちこち
川に面して防禦が実に複雑で
戦国時代の城造りに
知恵を絞ったに違いない
江戸時代初期の傑作
兎も角石垣石垣石垣の
平山城で日本百名城だ
信州川中島の戦いで功のあった
信長の小性だった盛蘭丸の弟
森忠政が津山城生みの親
美濃から美作18万8千500石に封じられ
その後元禄10年嫡子がいなく
廃城 城を松平家に明け渡し
以後大政奉還まで172年間
津山城を守り続けた
ここは別名鶴山公園
日本桜の名所100選
今は紅葉が終わり千本の桜幹
が目立つが
春の満開時には城の石垣と
併せて
さぞかし美しい
日本情緒豊かな風景となるに違いない
しきしまの大和心をひと問わば
朝日に匂う山桜花かな
それを観にまた行なければ‼️
広島県福山市に
毛利氏ら西国大名監視のため
大坂の陣から5年経ち
幕府が資金援助と現物供与までして
最前線に築いた
徳川譜代の水野氏5代
松平氏1代阿部氏10代と廃藩置県まで
西国大名に睨みを利かし
明治6年廃城
そして戦災により焼失
鉄筋コンクリート造で復元
以上の知識をもって
快晴の福山駅に着いた
新幹線駅前から徒歩1分
目の前の石垣を登れば
豪壮な筋鉄御門
潜れば
天守閣が聳える真正面にでる
五重六階の天守閣、伏見櫓(重要文化財)御湯殿、月見櫓、筋鉄御門等々
数々の建築物が風格を表して
目を見張る
折しも天守閣での博物館
徳川家康と歴代将軍ゆかりの名宝展
が開かれており
刀、甲冑、烏帽子、陶器、木器、
櫛、簪、衣類等々
偉大な権力をつぶさに魅せられ
その時代の武士の様子が
わかって興味深かった
高松城、中津城とならんで
日本三大海城の一つ
今治駅から海側へ徒歩20分
関ヶ原の戦いで戦功のあった藤堂高虎
に伊予半国20万石を領し
この今治に
築城名人高虎が輪郭式海城として
「吹上の浜」と呼ばれた砂丘に築城
脆弱な砂浜の上に重い石垣を巡らした
今治城は瀬戸内海を睨んで防御していたのに違いない
大洲城は
駅から循環バスに乗って
細い道を迂回しながら
通り過ぎたのではと不安に
なりながらたどり着けば
眼前に新築の城が聳えて
立派過ぎて
かなり浮いているかなぁと・・・
14世紀前半に建てられ
それを近世城郭に改造し
慶長年間に天守を築き
明治21年に廃城令で取り壊され
平成16年木造で肱川を堀にして
威風堂々と木造で再建し
新たによみがえった
檜の匂いがプンプンして
吹き抜けの木組が迫力あり
建築基準法違反で有るが
非常灯や隠しカメラ等々苦心して設置
建前はともかくとして
特例措置で史実に従って忠実に
造られたことに
敬意を表したい
天守から見る眺望は素晴らしく
小さな家々がこじんまりと拡がり
肱川が防禦の要となっていることが
よくわかる
人は城 人は石垣 人は堀
情けは味方 仇は敵
信玄の名句が当てはまる様な
こじんまりした
大洲市のシンボルに
市民は誇りを持っているだろう
日本100名城の湯築城跡が
松山市道後公園内にあると聞いて
市電車で行く
公園前で降りて看板はあったが
公園の縁に高さの低い土塁が
城跡らしい
南北朝時代より存在して
丘陵部は71mの小山で