青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

ElvisとBeatlesの狭間で~Johnny Tillotsonの時代【再開第6回】(全面再編草稿)後半

2013-06-02 15:07:49 | アメリカン・ポップスearly60’s


ともかくジョニーへの待遇は“例外中の例外”と言って良いでしょう。C&Wの住人たちが大歓迎で仲間として迎えてくれ、この年のグラミー賞には「涙ながらに」が最優秀C&Wシングルにノミネートされています。

これは想像ですが、、、、結果としてジョニーはその温情?を見事に裏切ったのではないかと。その後も、ハンク・ウイリアムスの「どうにも出来ない」、自作の「涙でいっぱい」(現在ではカントリークラシックとして紹介されています)と、ギンギンのC&W調の曲を発表し続けますが、結局はC&Wから締め出されてしまった。想像するに、歌唱そのものは正調のカントリーであるにせよ、ティーンアイドルのスタイルのまま(例えば「デイック・クラークの“アメリカン・バンドスタンド”」などのアイドルの世界に身を置いて)歌い続けたのでしょう、せっかく迎え入れてやったのに、なんだその姿勢は、と反感を買ったのかも知れません。

翌63年には、ジョニーよりはやや年上ながら若手の範疇に入る何人かのC&W系の歌手が、クロスオーバー ヒットを放ちます。すなわち、ボビー・ベアーの「シェイム・オン・ミー」「デトロイト・シティー」「500マイル」、ジョージ・ハミルトン・4世の「アビリーン」、ビル・アンダーソンの「スティル」、スキーター・デイビスの「この世の果てまで」など。彼らもジョニー同様、この機会に“ティーンアイドル”歌手として君臨する選択肢もあったはずですが、きっぱりとカントリーの世界に戻ります。

もっとも、スキーター・デイビスは、60年代において唯一究極のクロスオーバーヒット(Pop/R&B/C&W/ACの4大チャート全てのトップ10にランク=ある意味60年代最大のヒット曲)となった「この世の果てまで」の成功によって、その後、長い間、一部のC&Wの世界の住人たちから妬まれ続け、辛い思いをしてきたと聞いています。

ちなみに、以前にも紹介しましたが、60年代に於ける“4冠曲”は、「この世の果てまで」一曲だけ。“3冠曲”は60年代を通して何曲か存在しますが、そのほとんど全てがP-R-A、P-C-A、A-C-Rの組み合わせで、最も難しいと思われるP-C-Rの組み合わせは、ジョニーの「涙ながらに」一曲だけです(「夢の枕を」以降の主要曲が軒並みAdult上位に食い込んでいることを考えれば、「涙ながらに」もAdultにノミネートされていたなら当然トップ10に入り得、“4冠曲”となっていたでしょう、それを想うとちょっと残念です)。

話が逸れてしまいました。ジョニーは、本国でも「ギンギンのカントリーを唄う典型的ティーンアイドル」として、相当に特殊な位置付けにあったわけです。日本での状況は、もって知る如し。全盛期とは言えども、リアルタイムでのヒット曲は全てC&W調。せっかくの大チャンスなのに、そのまま勝負しても日本のリスナーには受け入れられるはずがありません。

といって、せっかく本国でヒットを放ち続けているわけですから、それを出さないわけにはいかない。ということで、販売権獲得以降「涙ながらに」「夢の枕を」「どうにも出来ない」「涙でいっぱい」と、アメリカンヒットをそのままリリースし続けました。でも、さすがに4曲連続ハズレとならば、幾ら本国での成功曲といえども、日本では駄目だということが分かります。もしかしたらジョニー本人も悩んでいたでしょうし、日本キングレコードの洋盤製作スタッフや営業も頭を絞ったに違いありません。

同じ洋楽とは言っても、日本とアメリカではヒットする曲が全く異なる、という例は、これまでにも少なからずありました。ニール・セダカの日本での最大のヒット曲は、アメリカではB面で全くヒットしなかった「恋の片道切符」ですし、ブライアン・ハイランドは、やはり本国ノンヒットの「ベビー・フェイス」ほか、多くの日本独自のヒット曲(おおむね本国ではB面)を持っています。ジーン・ピットニーに至っては、幾多の本国リリースシングルのうち、ただ一曲ヒットに結びつかなかった「ルイジアナ・ママ」が、皮肉なことに日本に於ける唯一の大ヒット曲と成っています。

ジョニーの場合も、リアルタイムの本国ヒット曲で勝負することはこの際きっぱり止めて、日本のリスナーに受け入れられそうな昔のヒット曲で勝負したほうがいいのではないか?と考えても不思議はありません。次の本国ヒット曲も「A4位」「P18位」と依然好調を維持する「You Can Never Stop Me Loving You」。そのまま出したいところですが、迷った末の決断は「古い曲」のリリース。2年前のヒット曲の、しかもそのB面曲の「キューティー・パイ」。これが予想を上回る大成功を収めます。

こと日本に於いては「イット・キープス・ライト・オン・ア・ハーテイング」「センド・ミー・ザ・ピロウ・ザット・ユー・ドリーム・オン」「アイ・キャント・ヘルプ・イット・イフ・アイム・ステイル・イン・ラブ・ウイズ・ユー」「ユー・キャン・ネヴァー・ストップ・ミー・ラヴィング・ユー」といった長ったらしいタイトルの曲が、(日本人でも意味が分かる)「キューティー・パイ」「プリンセス・プリンセス」に叶うわけがないのです。

この決断、この成功は、今考えると“紙一重”の結果でした。もし、「せっかく本国でヒットし続けているのだから、もう一曲アメリカンヒットにかけて様子を見てみよう」と「ユー・キャン~」を先にリリースしていれば、永久にチャンスを逃していた可能性大です。というのは、本国では「ユー・キャン~」リリース直後、MGMへの移籍が決まったのですから。むろん、新曲の日本に於ける販売権は、日本キングの  許から、MGMを配下に収める日本コロムビアに移ってしまいます。となれば、あえて冒険はしなかったかも知れない。

しかも、その直後にビートルズ米国上陸。ヒットチャートも新勢力に占圧され、ファンたちの嗜好も一気に大転換してしまいます。決断が数ヶ月遅れていたならば、(たとえ移籍がなかったとしても)「キューティー・パイ」等の曲は既に時代遅れの音楽となってしまって、大ヒットには結びつかなかった可能性があります。「恋のウルトラC」「涙くんさよなら」ほかMGM傘下の日本ヒット曲も「キューティ・パイ」の成功を持って成されたわけですから、それなくしては企画自体が成り立っていなかったでしょう。ジョニーの日本での大成功は、唯一可能なタイミングをものにした、というわけです。

上記したように、決断がひと月でも遅れていればブレイクは無かったでしょうし、早めに切り替えが決行されていればいたで、日本でもそれなりの人気を有していた他のティーンアイドル(ニール・セダカやポール・アンカやリッキー・ネルソンやブライアン・ハイランドやデル・シャノンやボビー・ヴィーやボビー・ライデルやフランキー・アヴァロンetc.)同様、(こと63~64年頃の日本に於いては)賞味期限切れということで、「新世代」に対抗する「旧世代一番手」としての位置付けは得られなかったでしょう。「日本ではついにブレークすることのなかった伝説のティーンアイドル」として、それなりの評価(現在の状況を考えれば、むしろその方が評価が高くなっていた?)は得られたことでしょうが。

といったような話は、これまでにも何回もして来ました。ここからは、その後のこと(これも一応何回かは話してきた)について。

本国旧ヒット(61年「ウイズアウト・ユー」)B面曲「キューティー・パイ」での、日本初ブレイクに続いて、同じく本国旧ヒット(60年「ポエトリー」)B面曲「プリンセス・プリンセス」も大ヒットします。ここで興味深いのは、この2曲の間を縫って、一応順番通りに、リアルタイム本国ヒット「ユー・キャン~」もリリースされていること。ただしAB面を裏返し、いかにも日本人受けしそうな「ジュディー、ジュディ、ジュディ」をA面に持って来ました。

上に記したことを自ら否定することになってしまいますが、仮に、本国ヒット曲のリアルタイムリリースを一端中止し、旧ヒットB面曲の「キューティ・パイ」で勝負を賭ける決断が成されなかったとしても、順番通りにリアルタイムヒット曲(ただしAB面を裏返して「ジュディー、ジュディ、ジュディ」)が発売されていれば、日本での初ヒットとなった可能性もあるような気がします。

「キューティー・パイ」でのブレイク直後に、いかにも日本受けしそうな「ジュディ、ジュデイ、ジュデイ」と、あまりによく出来たシュチュエーションではあるのですが、実は意外なことに、日本ではほとんどヒットしなかったのです。その原因は、相次いでリリースされた日本独自企画の“旧ヒット裏返しB面曲”「プリンセス・プリンセス」のほうがより日本人受けする曲であったこと、さらに、いわば起死回生の企画物「キューティー・パイ」「プリンセス・プリンセス」と、全く偶然たまたま順番が回ってきた「ジュディ、ジュディ、ジュディ」とでは、レコード会社営業部の力の入れ方が違ったのだろうと思います。その結果、「ジュディ、ジュディ、ジュディ」は、2つの大ヒット曲の間に埋没してしまった。案外、綺麗すぎるメロディーの曲は、日本受けしないのかも知れません。

「ジュディ、ジュディ、ジュディ」は、謎の曲です。58年から唄い続けてきた“ティーン・ポップス”は、62年1月8日に録音した「素敵なガールハント」で終止符をうち、同じ日、同じスタジオで録音した「涙ながらに」以降は、C&WやAC系の曲が中心となって、(現在に至るまで50年の間)ティーン・ポップス系の曲は封印されてきました。唯一の例外が63年になって録音された「ジュディ、ジュディ、ジュディ」(ただしすでに62年から何度か繰り返し別バージョンが録音されていた)。イギリス映画「ジャスト・フォー・ファン」(63年)の収録曲であること、ジョニー自身と有名作家コンビの、3人の共作という変則的作品であること、などと併せ、アメリカ、イギリス、日本では全くヒットしなかったのに、それ以外の多くの国で大ヒットしたことなど、よく分かっていない謎が多数あります。その実態の検証と謎の解明は、改めて「ジュディ、ジュディ、ジュディの謎」として、一項を設ける予定です。

それはさておき、旧ヒットB面曲「キューティー・パイ」で大成功を収めてからは、新ヒットB面曲「ジュディ、ジュディ、ジュディ」、旧ヒットB面曲「プリンセス・プリンセス」、新ヒットB面曲「素敵なガールハント」、、、と、順風漫歩。ケイデンスからの最後のリリース曲「Fanny How Time Slips Away」(アルバム「涙ながらに」収録の別テイク)と、MGM移籍後初リリースの「Talk Back Trembling Lips」は競作となり、本国ではもちろん「トーク・バック~」の圧勝となりましたが、逆に日本では引き続きAB面ひっくり返してリリースされた「素敵なガールハント」の圧勝に終わりました。

こうなれば、日本キング洋楽関係者にとって怖いものなし。MGMのほうは本国ではヒットを続けるかも知れませんが、日本人受けしないカントリー系の曲が大半でしょう。キングのほうには、日本人受けすること確実の、本国旧ヒット曲やそのB面曲(61年以前のティーン・ポップス)が、何曲も未発売のまま残っている。こののち2~3年は独自のヒット曲を量産できそうです。ほかの同時代歌手は(少なくとも日本に於いては)かつての勢いを失っているので、一人勝ちです。

まずは満を持して4年遅れの「ポエトリー・イン・モーション」。もちろん日本でも大ヒットを記録します。ちなみに、ごく最近、クリフ・リチャードがこの曲を録音、新アルバムの目玉としてリリースされたニュースが伝わってきました。これはもう、絶対に聞きたいですね。

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(10数年後にリリースされる予定の、、、笑)ジョニーへのトリュビュート・アルバムです(●は自作曲)。

「ポエトリー」 クリフ・リチャード
「ポエトリー」 パット・ブーン
「●ウイズアウト・ユー」 (未定)
「●涙でいっぱい」 ジョニー・シンバル
「ジミーズ・ガール」 リッキー・ヴァランス or 「恋に弱い子」ケニー・リンチ 
「こんなに愛して」 (フィリッピンの女性歌手)
「●ジュディ、ジュディ、ジュディ」 ぺトゥラ・クラーク
「●夢見る瞳」 ブライアン・ハイランド
「トレンブリン・キッス」 コニー・フランシス
「夢の枕を」 エヴァリー・ブラザース
「●キューティー・パイ」(伊東ゆかり?) or 「●プロミス・ミー」 カール・ダブキンJR
「●Who’s Gonna Take the Garbage Out」 アーネスト・タブ&ロレッタ・リン
「恋はつらいね」(少女C&Wシンガー)
「シー・アンダースタンズ・ミー“ダムディダ”」 ボビー・ヴィントン
「●君の面影」 コニー・スミス
「●アナザー・ユー」 スキーター・デイヴィス
「恋のウルトラC」 ジェイ&アメリカンズ
「涙くんさよなら」 ジミー・オズモンド
「●涙ながらに」 ハンク・ロックリン
「●涙ながらに」 エルヴィス・プレスリー

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「ウイズアウト・ユー」とか「こんなに愛して」とか「アース・エンジェル」とか「ネヴァー・レット・ミー・ゴー」とか、、、、いかにも日本でもヒットしそうな本国旧ヒット曲や、そのB面曲は後に残し、小出しにして行こうと考えたのでしょう、次はアルバムカットで「カム・ソフトリー・トゥー・ミー」。これもそこそこのヒットを記録します。

日本コロンビア(MGM)のほうは、本国ヒットの「I’m A Warred Gay/ナイスガイジョニー」で対抗しますが、可哀想なことに、勝ち目はありません。日本キング(セブンシーズ~ケイデンス)にとっては“ウハウハ”というところでしょう。しかし思わぬ事態が相次いで起こります。

ひとつはビートルズの登場。以降、リスナーの嗜好は一気に変わってしまいます。もっとも、考え方によれば“旧勢力”の代表として新勢力への対抗馬の役割を一手に引き受けるわけで、当分、一人勝ちということも考えられたのです。

もうひとつは決定的な出来事です。ジョニーがMGMへ移籍して間もなく、ケイデンスは解散、アンデイ・ウイリアムスによる全楽曲権利の買収に伴い、キングレコードは日本での販売権を失ってしまいました。残された日本でのヒット確実の、無尽蔵(はちょっと大袈裟だけれど)とも言えるケイデンス音源のティーン・ポップスは、半永久的に日の目を見ることが出来なくなってしまったのです。ウハウハ一転、ジ・エンド。

そこで漁夫の利を得たのが、MGMの発売権を持つ日本コロンビア。日本で人気絶頂のジョニーを独り占めすることが出来ます。ケイデンス音源の日本人好みの旧録音曲は望めなくとも、新勢力への対抗馬一番手として、なんとか別の形で突破口を開かねばなりません。

まずは順番通り、本国ヒットの「君に心を奪われて/I Rise, I Fall」をリアルタイムでリリース。ここで予想外のことが起こります。旧譜の発売権をなくした日本キングが(即刻廃盤になることを承知の上で)消滅直前に“新譜”をぶつけてきたのです。僕が聞いた話では、個人的にジョニーのファンでもあったキングレコードのディレクターが個人の判断(リリース直後に廃盤ですから会社にとっての利益はほとんどない)で新譜をリリースしたのです(“ファンへのプレゼント”と聞きました)。発売権がなくなっていなければ、次の順番は「アース・エンジェル」に決まっていたそうです。しかし、最後のリリースになってしまうわけですから、ここはカントリータッチの曲、なおかつ日本人リスナーにも受け入れられそうな曲、ということで、一度、1年前に「涙でいっぱい」のB面「悲しき恋心」として発売された「Empty Feeling」を「うつろなハート」の邦題で再リリース。

これが、想いのほか人気を呼び、日本の各ヒットパレードを駆け上がりました。日本キング(セブンシーズ~ケイデンス)に於ける、日本最後の(売れ行きには繋がらない)ヒット曲となったのです。

この曲は、日本キングからリリースされた「キューテーィ・パイ」以降の7曲の中では異色のカントリータッチの曲、なおかつポップス色要素も色濃く残されています。日本ではカントリータッチの曲がほとんどヒットしなかったジョニーにとっても、何よりのプレゼントになったものと思われます。

僕のファブロートソングは、この曲の本国(アメリカ)でのA面「涙でいっぱい」、この「うつろなハート」もそれに負けない素敵な曲です。「涙でいっぱい」がポップ要素満載のC&Wなら、こちらはカントリーフレバーに溢れたPopチュエーンということが出来るでしょう。

実は、イギリスでは組み合わせが違っていて、「涙でいっぱい」のB面が、あの「ジュディ、ジュディ、ジュディ」。アメリカでの「ジュディ~」のA面「ユー・キャン・ネヴァー・ストップ・ミー・ラヴィング・ユー」は、イギリスの黒人ポップ歌手、ケニー・リンチのヒット曲(ジョニーとは仲がよく、彼の勧めで録音 したとされています、幾つものバージョンがあり、初期録音のアレンジは、ケニー盤にそっくりです)であるため、彼に配慮して発売されなかったものと思われます。

いずれにせよ、ケイデンス最後期(ジョニーの移籍、レーベルの消滅寸前)に録音・リリースされた「涙でいっぱい」「うつろなハート」「ジュディー~」「ユーキャン~」は、いずれも謎を秘めた曲なのです。

「涙でいっぱい」は、ジョニーのキャリアの中で“谷間の曲”ということが出来るかも知れません。「涙ながらに」「夢の枕を」「どうにもできない」と同一アルバムのカッティング曲を3曲続けてリリースした後のこの曲は、なぜか以降どのアルバムにも収められることがありませんでした。同じく自作の「涙ながらに」勝るとも劣らないポップ・カントリーの名曲だと思いますが、シンプルな歌詞と曲、モノラル録音で伴奏も単純(コーラスもない)、人気の絶頂期とはいえ、よくヒットしたものと思います。ただし、アウトテイクの別の2テイクを聴く限りでは、ひとつは澄んだ響きのベース、もうひとつはリリカルなギターが印象的で、じっくり聞けば極めて凝った構成であることが分かります(共にステレオ録音です)。

この曲は、ブライアン・ハイランドのために作成した、という話をどこかで読んだ記憶があるのですが、彼が取り上げた記録はありません。ハイランドが録音したジョニーのペンによる作品は、「涙ながらに」(ノンリリース)と「夢見る瞳」(シングルリリース)。ちなみに「涙でいっぱい」は、「ミスター・ベースマン」や「僕のマシュマロちゃん」など、日本ではジョニーと同時期にヒットを飛ばした、ジョニー・シンバル盤があります。

B面の「悲しき恋心/うつろなハート」は、ジョニーのプロデューサーでマネージャーも兼ねていたポール・タンネンの作品。ジョニーとタンネンは、初期にはこのAB面のようにそれぞれ単独で作詞作曲を行っていましたが、後に多くの曲を共作しています。どちらかが詩/曲を分担したというのではなく、(ジョニーの最初の奥さんルシルとの共作の場合ともども)その時々で臨機応変に受け持ちを分担したようです。

ただし、僕の感想では、タンネンが一人で作った曲(例えば「不思議なことが起こった/Strange Things Happen」「どうしようかな?/What Am I Gonna Do」)に、特に佳曲が多いように思われます。「うつろなハート」もそのひとつです。

タンネンはジョニーとの共同出資と言われる「タンリッジ・プロダクション」を設立、その後大出世して、今ではジョニーを上回る業界知名人になっているようです。ジョニーのHPのリンクのコーナーには、イの一番に、タンネンとタンリッジ・プロダクションが紹介されています。ちなみに、歌手のコーナーには、トミー・ロウとボビー・ヴィーが、友人のコーナーには、やはり多くの曲をジョニーに提供している作詞作曲家のもう一人のポール、ポール・エヴァンスが、最初に紹介されています。

僕にとってのタンネンに纏わる思い出。66年の2回(映画と講演)の来日時、確か一回目にはタンネンが同行していたと思うのですが、2回目のときは姿を見なかったように思います。大阪公演を終え、新大阪駅のプラットホームで見送ったとき、関西支部からのお土産として、(僕の母の妹のご主人が神戸で日本人形やこけしの卸業をやっていたため、そこで貰ってきた)人形をジョニーにプレゼントし、それに付け加えて「こけし」のほうを「タンネンにあげてください」とジョニーに渡しました。ジョニーは「ポールにプレゼントだって?彼、喜ぶよ!」と、笑いながら大袈裟にびっくりして、とても喜んでくれたことを思い出します。

本題に戻ります。

漁夫の利を得た、日本コロンビアは、まずは順番通り本国ヒットの「君に心を奪われて」をリリースするわけですが、立場上、まるっきり不利なはずの「うつろなハート」に完敗してしまいます。しかし、次からはどこからも邪魔される(?)ことはありません。

まず、日本独自のユニット(?)「コロンビア・ヤング4」をでっち上げました。

ボビー・ヴントン「There I’ve Said It Again」
ジーン・ピットニー「That Girl Belongs To Yesterday」(*)
ディオン「Drip, Drop」
ジョニー・ティロットソン「Talk Back Trembling Lips」

「」内は当時本国でヒットしていたそれぞれの曲。(*)は、まだアメリカでは全く無名だったローリング・ストーンズのミック&キースの作によるアメリカ初ヒット曲で、その他の3曲もベスト10入りを果たした大ヒット曲。ビートルズ上陸直前の“ポップス黄金期”最後の絶頂期、最高のラインアップだったのですが、まるっきり反響を得ることなく、この後述べるMGM発売権消滅によるジョニーの脱離で、代わってフランキー・アヴァロンが加わったのだけれど、すでに第一線から離れていることもあって、すぐに解消してしまいました。

ただ、この時期、唯一カルテットの一員の日本でのヒット曲となったのが、日本独自シングルカット、ボビー・ヴィントンの「ミスター・ブルー」。たまたまジョニーのほうも、旧レーベルからの「カム・ソフトリー・トゥー・ミー」をリリースしていて、ともにそこそこのヒットとなったように覚えています。その時点では 気付かなかったのですが、60年代初頭の“ポップス黄金期”No.1コーラスグループといって良い、しかし日本では全く無名だった「ザ・フリートウッズ」の2大ヒット(ともにBillboard Hot100 No.1)が、ジョニーとボビーのカバーによって、ほぼ同時期に日本のリスナーに紹介されたわけです。

ミスター・ブルー Bobby Vinton
カム・ソフトリー・トゥー・ミー Johnny Tillotson

そんなような状況で、“ポップス黄金期”最強のカルテットといえども、もはや日本ではお呼びではなくなってしまっていました。

どうやら、ジョニーの場合、今後とも日本向けじゃない本国ヒット曲が続きそうです。リスナーの嗜好はビートルズらの新世代音楽へ急速に移行しつつあります。普通に勝負しても勝ち目はない。作戦を考えました。出された結論は、「日本語で唄う」こと。MGMと言えば、コニー・フランシス。コニーといえば日本語です。64-65年に関して言えば、コニーとジョニーはMGMの2枚看板です。で、「君に~」に次いで(というよりも踵を接して)、前作の「ナイスガイ・ジョニー b/wドント・ゴー・アウェイ」を日本語録音することにしました。漣健児(すなわち新興音楽出版社社長の草野昌一)訳詩による、このジョニーの日本語盤第1弾は、テスト盤が出来上がり、表紙も刷り上って、後は店頭に並ぶだけだったのですが、結局発売されませんでした(たしか、相次いでリリースする予定だった「君に心を奪われて b/w恋のいらだちI’m Watching My Watch」の日本語盤も、完成していたように覚えています)。

なぜなら、僅かほんの数ヶ月(数週間?)前に、日本キングレコードに降りかかった同じ災難が、突如、日本コロンビアにも降りかかり、MGMとの契約が消滅してしまったのです。

日本での人気絶頂にあって、ジョニーの曲は旧譜・新譜とも、相次いで発売が成されなくなってしまった。これが64年の中頃です。65年に入って、日本グラムフォンがMGMとの契約を結びます。このあと、「恋のウルトラC」「涙くんさよなら」など、ジョニーの日本での第二期ブレイクに繋がるわけですが、それらのゴタゴタの中にあって(あるいはその前から)「涙くんさよなら」をはじめとする日本作成(英語/日本語)盤の企画が、ジョニー、新興音楽出版社(漣健児)、浜口庫之介の間で、企画検討されていた可能性があります。

それに伴う、様々な予想外の出来事の連鎖。日本キング、日本コロンビア、日本グラムフォン(担当者の渡辺栄吉氏は後の大作曲家「筒美京平」)の、それぞれの洋楽企画部や宣伝部の思惑。ことに、漣健児訳詞による(発売されなかった)本国ヒット曲群の日本語盤と、浜口庫之介が依頼を受け作成したといわれる「バラが咲いた」や「涙くんさよなら」の由来、後年「涙くんさよなら」が、なぜか「坂本九」のヒット曲と誤認され続けていることの理由、等々の詳しい検証と実態の解明については、「涙くんさよならの謎」の項に譲ります。

【2012.5.30~31 昆明-広州の車中、および6.1~2 広州のY.H.にて記述】


Out Of My Mind/涙でいっぱい
Empty Feeling/うつろなハート(悲しき恋心)
I Rise, I Fall/恋のウルトラC(君に心を奪われて)


Ⅱ「涙くんさよなら」の謎

Good-by Mr. Tears/涙くんさよなら JOHNNY TILLOTSON 1965
http://www.youtube.com/watch?v=B4NpJQfvKF0

【文章後送】

Ⅲ「Judy, Judy, Judy」の謎


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