読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。
【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?
【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。
*毎回(リンドウの項目奇数回)のブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けることにします。
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さっき、駅に向かう途中の青梅街道沿いにパンジーの道端ポケットが8つ並んでたので、全部写してきました(笑)。個人の庭を撮影すると「個人情報ナントカ」でややこしくなるけれど、公道なら良いでしょう。
青梅の市民の大多数は、いわゆる「小金持ち」(自分たちは貧乏だと思ってるかも知れませんが僕から見れば十分なお金持ち)でしょうから、家々の庭は「花と緑」で溢れています。
この写真を見て、「綺麗」「春の暖かさを感じる」「心地いい」と思う人、どのくらいいるんでしょうか? たぶん、かなりの割合を占めると思う。僕も一応、そう感じてもいます。
でも、「醜い」「寒々としている」「嫌な気分になる」、、、そんな気分になる人がいても、良いのです(むしろ、全ての“バイアス”を取り除いたなら、そう感じる方が“まとも”なんだと思う)。いずれにしても、それも正鵠を得た捉え方の一つです。99%と1%、どちらかが「正しい」と言うわけではないでしょう。
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前回の続きです。冷静に、客観的、ロジカルに、物事に対することの重要さ。そのこと自体には賛同します。
問題は、その基盤に、こうあらねばならぬ、というバイアスが、「教育」や「成長」(知能の構築)の過程で無意識のうちに加わっていること。
僕は自信を持って言い切ります。
皆が右に行くならば、左に行きます。左に行くならば、右に行きます。構築を目指すなら、破壊を目指します。それで結果として破壊するならば、構築します。
人と違っている、というのとは違うのです。違っている、というのは、そのこと自体が「安定」じゃないですか。常に意識的に違おうとすること。違うことに対しても違うという立場をとること。例えば、カウンター・カルチャーへのカウンター。
人間の社会が成り立つためには、調和をとる努力をしつつ構築していかねばなりません。しかし、そこには常に破壊が伴っている必要がある(調和とは反対の要素も両有しなければならない)。ただの調和は、終滅への道を辿るだけです。
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今日は、この後、とても難しい話をします。僕の頭では解き明かすことの出来ないpropositionです。
ウイグルについて。
その前に、僕の「中国観」を改めて述べておきます。
文章に表すと、NGになってしまうかな?
一言で言えば、とにかく、大嫌い(笑)。例えば、たまたま旅先で出会った日本人と(久しぶりに)日本語で会話したりします。お互いに、これでもか、というぐらい、中国の悪口で盛り上がってしまう。
僕は、ここまで言いますね(中国の方にゴメンと謝っておきます)。
>人がいて、獣がいて、ウジ虫がいて、その下が中国人。
>中国の自然は素敵だけれど、中国人がそこに住んでいることだけが欠点、中国から中国人がいなくなれば、どんなに素晴らしいことか。
↑これを僕が言うのです。大抵の日本人が同意してくれます。
なんせ、35年日本と行ったり来たりしてるので、筋金入りの中国“下げ”です(筋金入りの日本嫌いのモニカに負けていない)。
僕は本来外国大好き人間で、東南アジアや欧米各国もそれぞれに好きなんだけれど、中国(と韓国)だけは嫌い。その辺、ヤフコメの人たちと、たいして変わりません(笑)。
その前提で。
ウイグル(あるいはチベット)の人たちが、どれだけ謂れなき差別を受け、酷い迫害に会っているか、その事自体は(知識とかではなくて実際に肌身に感じて)知っています。たぶん、「ウイグルを迫害する中国を許すな!」と声を上げる一般日本市民よりも、ずっと知っていると思います。
しかし、今「中国(の国家、、、国家ということは国民も含まれる)」が彼らに対して取っている政策が「間違っている」のかどうかについては、僕には分かりません。
個別の事例で言えば、人に暴力・危害を加えたり、貶めたりすることは、間違っている、と断言します。だから、ウイグルの人たちが、実際に辛い目に会っている、ということは事実だと思う(実際に自分の目でも見ている)ので、そのことに対しては深く憂慮しています(日本に死刑制度が残っていることを憂慮するのと同じレベルで)。
損得とか、単純な問題ではないのですね。でも大衆(ことにエリート)は単純にしか考えない。そこから前や、そこから先の事を考えない(無意識的に「考えないように」制御が成されている)。
「人に思い遣りを」
「自己中心的にならずに」
そのようなことを言う人ほど、(広く深い意味での)思い遣りとは正反対の方向に走っている(むろん自分では自覚はない)。
僕の言うところの「集団的自己中心」なんですね。そこから見た、別次元での“思い遣り”は、「自己中心」と見做されるわけです(共同体共通の利益に反するから)。
暖かいところにいて、痛みを伴わずに、目先の「自由」「平和」「正義」を求める。
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ウイグルは、地史的、生物地理的に見れば、中央アジアの一角です。地誌ではなく地史としての「中央アジア」。ユーラシア大陸中部の西北側の、その先に中東を挟んでヨーロッパ(地中海周縁地域)がある。ちなみに、ユーラシア大陸中部の東南の四川・雲南の、その先に漢民族居住圏を挟んで、東北アジア(日本海周縁地域)がある。
*中央部は、概ねチベット高原、南縁がヒマラヤ。
東アジア(日本海周縁地域+長江流域周辺)文明と、ヨーロッパ(地中海周縁地域+中東)文明の移行地(の西側)でもあります。
そのような意味で言えば、雲南一帯(横断山脈周辺地域)も移行地の「東側」ということになりますね。雲南は、生物相にしろ、人類の文化にしろ(生物の種の歴史と人類の歴史は時間的なスケールで全く別の次元にあるけれど僕の言う“時間のフラクタル”を鑑みれば合致する)、いわゆる典型的な「中国」とは、著しく異なります。「中国」というより、東南アジア諸国、インドの東、ヒマラヤ、チベットなどの要素を色濃く含み、それらの地域とむしろ親和性があります。
全然関係ない話に成りますが、、、、僕の大好きな町の一つ(中国大嫌い!と言っておきながら矛盾しますが、笑)、ミャンマー国境に近い謄沖。いろんな想い出があります。
(山奥の村で)「僕は日本人です」と言ったとたん、そこにいた人々が皆一目散に逃げて行ったこと。食堂のオバちゃんに「私、昨日インドから歩いて帰って来たのよ」と言われて、そんなわけないだろ、と思って地図を確かめたら、意外に近かったこと。
歩いてきた、と言えば、サヤン地方を挟んでインド(アッサム)に抜ける道は、外国人には容易に通行許可が出ないはずなのに、昔「猿岩石」というお笑いタレントが、そこをヒッチハイクで越えた、と言って、それがバレたことなどもありましたね。
謄沖からミャンマーに入った最初の町が、ミッチーナ(密支那)です。この名前、大好きです(ミャンマーの話題は余りしないようにとモニカから釘を刺されてるのでここまで)。
いずれにしろ、雲南は「典型的」な中国ではありません。でも雲南の人々は「俺たちを中国と一括りに見做してしまうことはケシカラン」と言ったアピールはしていない(しているかも知れないけれど特に表立っては現れていない)。文化は異なるとしても、人種がモンゴロイド(ただし南方系)であることには違いないですから。
そこに行くと、ウイグルは、人種的には、コーカソイドとモンゴロイドの移行(混合)地帯です。欧米人もコーカソイド。
どういうことかと言えば、、、、、。
僕の能力ではここまで。ここから先に踏み入る力はないので。
一応、「ここから先」の、さわりだけ。
ウイグルと「中国」の問題は、仮にも(気高き)アングロサクソンの末裔(先祖の一部?)が、モンゴロイドの(出鱈目極まりない)中国に統合されるなど、許すことは出来ない、、、視点を変えて見れば、逆転現象としての「アジア人差別」に繋がってくる、、、のかも知れないのです。