青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

ドリー・パートン、リンダ・ロンシュタット、エミロー・ハリス

2021-01-20 13:23:06 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


ドリー・パートン、リンダ・ロンシュタット、エミロー・ハリス

いや、もう、これは全く偶然としか言いようがなくて、、、、、。

唐突なんですが、今日1月19日は、ドリー・パートンDolly Partonの75歳の誕生日だったんですね。僕の中じゃ、ドリー・パートンは、「アメリカン・ポップス黄金期」より一世代後(1970年代以降)のC&W界の大スター、という認識しかなかったのですが、、、。

僕は、たまたま、、、、ドリー・パートンと同時代のカントリー/ポップスのスター女性歌手のリンダ・ロンシュタットLinda Ronstadtの“隠れファン”で、もう一人、エミロー・ハリスEmmylou Harrisと、80年代後半になって(40歳を過ぎてから)女性ボーカル・トリオを組んで、「逢ったとたんに一目惚れ」などのC&Wヒットを放っていて、ここんところ、その「逢ったとたんに~」を三人で歌う映像に嵌っていて、、、。

その「逢ったとたんに~」は、もちろん、テディ・ベアース(フィル・スペクター)の60年の大ヒット(ポップチャートNo.1)で、先日、そのフィル・スペクターが亡くなって、その追悼の記事に、彼女たちがカバーしたその曲の映像を添付して、、、、。

昨日、たまたま、その“トリオ”の、一時間に亘る「伝記ビデオ」をユーチュブからパソコンに取り込んでいたので、昨日に一度、今日は二回も(英語の聞き取りは一割ぐらいしか出来ていないけれど)、なぜかその映像を見ていたのです。

色々と思うところがあって、明日のブログに、その感想を書いてみようかな、と考えたのです。彼女たちの年齢は僕より1~2歳上、ということは知っていました。一番メジャーで、かつ誕生日が早いのは、ドリー、確か今月75歳になるはず。リンダは、今74歳で夏に75。一般的に見れば最もマイナーなのかも知れないエミロー(僕などは、80年のロイ・オービソンの10数年ぶりのヒット曲「ザット・ラビン・ユア・フィーリング・アゲイン」のディエット・パートナーとして記憶している)は、春が来て74歳、、、、等々も、なぜか知っていました(歌手の誕生日を覚えるという“全く何の役にも立たない特殊才能”が僕に備わっているらしい)。

さっき、一応誕生日調べて置こう、と思って、ふと、ドリーの誕生日は今頃じゃなかったっけ?とチェックしてみたら、ドンピシャ、今日だったわけです。

確か一年ほど前にも、アニタ・カー・シンガーズのアニタ・カーのことを書こうと思って、改めて誕生日調べたら、ちょうどその日だった、ということがありましたっけ。でも、長年のファンだったアニタとは違って、ドリーの場合は先にも書いた通り、これまでは彼女の曲を聴くことも、存在を意識したことも無かったものですから、“初めて意識した日が誕生日”というのは、まさかの奇跡の偶然だと思います(まさに“逢ったとたんに一目惚れ”です)。

いずれにせよ、そのこととは無関係に、この一時間映像の感想を、ちょっと書いておこうと思ったのです。

ちょっとだけです(リンダの病状に不謹慎な触れ方になるかも知れないので)。

僕は、以前から、リンダ・ロンシュタットの“隠れ”ファンなのです(ジョニー・ティロットソンとの関連なのですが、それについてはまた別の機会に)。なぜ“隠れ”というのかと言えば、“リンダ・ロンシュタットのファン”とカミングアウトするのは、なんとなく恥ずかしいと思いませんか?(別に何の根拠もありませんが)。

もっとも、“ドリー・パートンのファン”というのも、更に恥ずかしいような気もしますが(やはり何の根拠もありません、なんとなく、です)。

“エミロー・ハリスのファン”というのが、(何の根拠もないですが)最もカッコいいような気がします。

この、その時点でスターだった、かつ、互いに全く対極の(ある意味それぞれ実に分かりやすい)個性を持つ同時代歌手三人がトリオを組んだ、というのも、目から鱗が落ちるような思いです(昔から友達同士だったそうですが)。キャラが確立していて被らない。まるで、(病院の待合室で読む)少女漫画のようです(これが、例えばアン・マレー、リン・アンダーソン、オリビア・ニュートンジョンとかだったら、大してインパクトは無かったと思う)。

この、“トリオの伝記”の映像で紹介されている「現在の姿」は、60歳を過ぎてから(もしかすると70過ぎてから?)のものと思われますが、ちょっと不謹慎な言い方に成るけれど、リンダ・ロンシュタットの劣化状態が、飛び抜けて著しいですね(昔可愛かった分、、、むろん長く病気を患っていることもあるので仕方ないのですが)。

それとは対照的に、若い頃は全然あか抜けていなかった(正直、僕の好みとは真逆で、ロイ・オービソンは何でこんな不細工なのとわざわざコンビ組んだのか、と長年思っていた)、今は白髪ばあちゃんのエミロー・ハリスが、断然女らしく、綺麗になっている。

そしてそして、若いころの“あか抜けなさ”に関しては、さらに上に行くのがドリーですね。ただし、エミローが女性らしい色気ゼロだったのとは反対に、露骨に“女”強調(いわゆるぶりっ子)で、なんでこんなのが人気あるのだろう、とずっと思っていました(僕の趣味から言えば完全パス)。

改めて今回、若い頃の映像を見ても、その思いは変わりません。でも、「逢ったとたんに一目惚れ」を三人で唄う、40歳超の映像を見ると、なるほど、ドリーのぶりっ子色気過剰も、20何年も続けていると、それはそれで他の追従を許さない唯一無二の芸になっている、と思わせるものがあります。

付け加えると、エミロー・ハリスの相変わらずの“色気のなさ”も、それはそれで以前よりも素敵です。その“ポジティブに進化している”2人と違って、リンダ・ロンシュタットは、ただオバサンになってるだけのような気が、、、。まあ僕はリンダのファンなんで、それはそれでも良いのですが。

でも、そのまた20年後の(ほぼ現在の?)映像は、ちょっとショックでした。前記したように、リンダの劣化が激しく(病気は別としても、有態に言えば、太りすぎ)、エミローが予想外に女らしくなっている。

そして、何より感動したのが、ドリーの“露骨な女らしさ(セクシーと言っても良いのかな?)強調”が、道を究めた感がある、いや、僕から見ても魅力たっぷり、ということです。

ところで、一昨日「フィル・スペクター逝去」の記事をチェックしていたら、「リンダ・ロンシュタット逝去?」の記事(「哀れな晩年」と紹介されていた)も見つけました。まだ死んでないよ~~。フェイク記事ですね。こんなの書かれないように、元気で頑張ってくださいね!


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コロナと金太郎飴

2021-01-19 20:29:49 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



(「幹事長が首相発言を評価」ニュースに対するヤフコメ)

ネットニュースを開くと、相変わらず、正義の大衆の金太郎飴の洪水で、彼らの余りのアホさ加減を想うと、ほとほと哀しくなってきます。

あるコラムに、勇気ある発言をしている人がいました。

Kanさん。。。

>おそらく政府は新型コロナがそれほどの感染症でないことを見抜いているんですよね。
>だからGo Toも推進してきた。
>それでよかったのに、マスコミに洗脳された国民が騒ぎ散らして支持率が低下。
>無視できなくなって、コロナ対策重視の姿勢をとらざるを得なくなった。
>無知な国民ほど恐ろしいものはない。
>人間はしょせん自分がよければいいという生き物。
>わずかなリスクを避けるために、何十兆円も国費を投じさせて後世の若者に負担を強いることを何とも思わない。

もちろん、正義の民たちからは、避難轟轟ですね。「そうは思わない」の嵐です。それで助け舟を出すことにしました。

Milk。。。

>kanさんの言う通りですね。
>僕は、安倍さんもスガさんも2Fさんも嫌いだけれど、マスコミに洗脳されてひたすら騒いでいる無知な国民よりはマシなのではないか、と思っています。
>(いわゆる)コロナは、唯の風邪です。そして風邪は大変に恐ろしい病気です←[ここ強調]。これまでにも多数の人が亡くなり、今後も同様です。マスクで敵から逃げて、ワクチンで敵をやっつける。まさに昔の、鬼畜米兵、の時代に逆戻りしている。
>大衆の同意強要で「異見」を排除する「日本民主主義」(それを支える大衆)は、一党独裁の「中国共産主義」より始末が悪いと思います。
>ちなみに、経済などは回復しなくてよいです。科学も過信するべきではない。一度人類は滅びて(少なくても現行の「正義」に基づく体系は壊滅して)、もっと謙虚になって出直した方が良いと思います。

反応はむろん全員「そうは思わない」。








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中国のリンドウ(竜胆Gentiana)についての断片的話題 Ⅰ

2021-01-18 20:09:31 | 中国の竜胆



リンドウ属の2種 2009.7.2 四川省康定~雅江(標高4500m付近)




せっかく、あや子さんが(「ブログ村」登録に当たり)「自然科学」のジャンルに入れてくれた(ジャンルは一つしか選べない)ので、一応自然科学関連の話題をアップしておこうと思う。

その前に、以前にも述べた「前口上」を、もう一度繰り返しておく(年寄りは同じ話が多い、笑)。「前置きいらない!リンドウの話だけでいい」という読者の方は、前半2/3ほどは飛ばすこと。
 
坪内逍遥(1859~1935)が「小説神髄」を著した直後の明治19年(1886年)、山田美妙(1868~1910)と二葉亭四迷(1864~1909)がそれぞれ別個に「言文一致」小説の制作に取り組んだ。

逍遥は、良くも悪くも謙虚な(小説家としての資質が欠如していることを自覚している?)人物なので、誰かが新しい文体の小説を著すことにそれとなく期待をかけていたように思える。

すぐさま、美妙と二葉亭(二人はたまたま幼馴染だったそうな)が名乗りを上げた。

美妙は、出たがり屋パフォーマー、いわば「軽い人」であったそうで(でも実は非常に謙虚で重厚な部分もある)、新しい文体創始者一番乗りを目指して(望み道りそれを果たして教科書にはそう書かれている、それ以外の実績は無視されちゃってるけれど)、いの一番に「言文一致」小説を発表した。

二葉亭のほうは、美妙とは正反対の「重厚な」人だった(「偏屈」と言い換えても良い?)らしく、「どうすれば新しい様式の小説を書くことが出来るか」深刻に悩んだ末、翌明治20年に「浮雲」を(逍遥名義の単行本で)刊行した。

二人とも、「最初の言文一致小説」に挑戦するにあたり、「~です(ます)」調で行くか、「~だ(である)」調で行くかで、 迷ったそうだ。

二葉亭は、一度は「~です」にする方向に傾きかけたが、逍遥に相談したところ、逍遥は「~だ」の方が良い、という意見だったので、最終的には「~だ」調を選択した。

一方美妙は、(二葉亭とは全く別経路で)「~です」調の小説を発表した。両者は殆ど同時期だったようで、今でもどっちが先との結論は出ていず、教科書には2人の名前が「言文一致の創始者」として並列されている。

後に、二葉亭が美妙から聞いた話として、“美妙も最初は「~だ」で行こうと考えていたそうだが結局「~です」を選んだとのこと、(最初「~です」調にしようと思っていたけれど結局「~だ」調を選んだ)自分とは正反対の推移だ”、と回想している。

スタートの時点から、「だ」にするか、「です」にするかで、悩んでいたわけである。ということで、135年経った今も、僕は、どっちにするかで迷っているわけだ。

美妙と二葉亭では、現在では圧倒的に二葉亭のほうが評価が高い(しかし嵐山光三郎氏の指摘のように、美妙を見直すべき、という意見もある)。また、現在の文体に於いては、一般的には「だ」が主流のように思う。だからというわけでもないけれど、前回に引き続いて今回も「だ」調で行く。別に今後これに決定するというわけではない。途中でまた「ます」調に変える可能性も大いにあり得る。

本題に入る。その前に、もひとつ別の前口上(笑)。

僕が全力で取り組んできた「野生アジサイ(アジサイ科アジサイ連)の系統と分布についての再検討」の膨大な写真と資料、および纏め終えた論文の全ては、修復を終えたまま未回収(修復費を毎月3万円づつ支払ってあと35万円、年末には戻ってくる予定)のHDD内に収納されている。

やはり長年取り組んできた“麦菜(中国の野生レタス)”関係の資料は、中国の部屋(現在は移動してモニカの実家)に置いたままだ。

僕の“本職”と言ってよい、蝶や蝉を纏めるには、(やはり上記の諸事情も関わって)少なくてもまだ2年や3年はかかる。

とりあえずは、手元に残っているハード・ディスクの整理を行うことにした。幸い、2009年と2010年に撮影した全原版写真、および野生アジサイや麦菜をはじめとした僕の専門(守備範囲)分野以外の、中国の野生植物の大半のデジタル写真は、何台かの健在HDDの中に収められている。

何かの拍子で再度アクシデントにあうと困る(また47万円かかる)ので、今のうちに、(僕がいなくなった後も利用できるように)モニカに原版写真を渡しておこう、と考えた。
 
むろんUSBメモリなりHDDなりに全ての資料を収納して手渡せば簡単なのだけれど、次にいつ中国に行けるか分からない(K氏の言うに“早くても再来年以降じゃないか”と)。また、それらを日本から国際郵便で送るとしても、いろんな制約があって、非常に手間がかかりそうである。それで結局メールで送信することにした。

野生植物といっても、僕が実際に自分で調べているのは、アジサイなど一部の分類群だけだ。しかし、写真は様々なグループに亘って撮影している。種数にして数千種、写真枚数にして数十万枚あるはずだ。

そこで、(とりあえずアジサイ以外の写真を)適当に選びつつ送り始めることにした。

最初は、以前モニカからリクエストのあったシャクナゲ(ツツジ)にした。シャクナゲについての知識は皆無に近いが、写真だけは腐るほどある。

「雲南」と「そのほか」に分け、「中国の植物全100巻:第一回【シャクナゲⅠ雲南】」として、2500枚の原版写真と、385頁のPDFテキスト(英語版)のモニカへの送信を開始した。

PDFテキストはともかく、原版写真(軽くしてあるがそれでも1枚1~2MBはあるので全部で数GBになる)の送信は並大抵ではない。一度に送る方法もあるそうだが、僕はその方法を習得できないでいる。だもので、アナログ的に数枚づつ送信していくことになる。

先日、約100回の送信で500枚ほど送り終えたところで、モニカのパソコンが受納キャパシティを越えてしまった。それで一時中断し、今後の方針を思案中、というわけである。

シャクナゲの次は、サクラソウに取り組むことにしていた(そこそこ見栄えがする準メジャーなグループだ)。というか、シャクナゲと並行して、既に整理を終え、一部送信を開始していた。写真の整理とテキスト作成を別個に行いPDFテキストを送り終えてから原版写真の送信にかかっていたシャクナゲと比べれば全体量がずっと少ない故、テキスト作成・送信と並行して原版写真の送信も行っていた。しかし、それも保留。

アジサイ(の生物学的な視点からの分類)については、誰よりも詳しく、的確な(たぶん多くの研究者が知らなかったり間違えていたりすることも含め)意見を述べることが出来る。

他にも、“麦菜(アキノノゲシ属)”についてや、屋久島がらみの(例えば、キイチゴ属、カエデ属、キッコウハグマ属など)幾つかの分類群については、自分の脚と目と頭で培ってきた、それなりの知識を持っていると自負している。

しかし、大多数の植物については、全く無知に等しい。知らない、分からない事だらけである。そこで本やネットで 調べるのだが、知りたい情報はなかなか見つからない。誰に聞けば良いのかもわからない

そこで、ブログの読者から、いろいろと教えて貰いたい、という想いを持った次第である。僕の方は情報を公開する。といっても、アジサイなどの例外を除けば、僕の知識は、かれこれ40年ぐらい前でストップしたままだ。1990年代に刊行されていた「週刊朝日百科植物の世界」、中国科学院からの「中国植物誌」、それに植物の形態学の(とんでもなく難しい)単行本。知識の供給源はそれぐらいしかない。

ことに「植物形態学」の本は常に手元に置いて持ち歩いていたのだけれど、この間、思うところがあって突然段ボール150箱の整理始めたら、どうやらその中に紛れ込んでしまったようである。下手に中途半端に整理を始めるから、いつもそうなってしまう。「中国植物誌」も概ね段ボールの中だし、よって、頼るべき参考書は、「週刊朝日百科」ぐらいしかないのである。そんなわけだから、情報公開といっても、僕自身の側に十分な知識がない故、正確に伝わるかどうか、不安である。

僕に於ける、初歩的な知識の欠如、といえば、例えば、今書こうとしているリンドウの花についても、そうかも知れない。

ということで、やっとリンドウの話。

「リンドウ」は「サクラソウ」とともに、中国の高山植物を代表する一群だ。科全体としても「準メジャー」な存在と位置付けて良いだろう。シャクナゲとサクラソウのモニカへの原版写真送信を一時保留して、何気なしにサクラソウの横のファイルに収納しているリンドウでもチェックしておくか、と思い、それを開いた。

すると、ファイル中に収納してある多数の地域別のフォルダの中から、(たまたま)一枚の写真がはみ出していた。それが最初に示した写真である。

この写真を見て、思わず首をひねってしまった。

いや、見る人(リンドウに詳しい人)によっては、別にどこもおかしくはなく、当たり前のことなんだろうけれど、リンドウの仲間に対する生物学的知識がほとんどない(唯一センブリ属のヘツカリンドウについては詳しい)僕としては、この写真には戸惑ってしまうのである。

とりあえず考えたことを、思い浮かんだ順に記す(結論らしきものは最後に)。

国道318号線に沿った康定(その西の新都橋)と雅江の間の標高約4500mの峠上で撮影した、小型のリンドウ属の種である。

白と青の小型(花冠直径約9mm)種。青花の種のほうは、雄蕊が花被にくっついているように見える。そして雌蕊が良く発達し、柱頭が2分している。一方、白花の種の方は、一見したところ雌蕊だけで、雄蕊が無いように見える。でもよくよく見ると、一見雌蕊に見える中央の部分は、雄蕊の(葯の)集合体であることが分かる。

ということは、雄蕊だけで雌蕊がない。雌雄異株ということも考えられるわけだ。

もとより白青の両者は明らかに別種だろうから、リンドウの仲間には、2つのパターンの(花の構造の)種がある、と考えた方が良いのかも知れない。

で、いろいろと(上記した手元にある)文献に当たってみた。雌雄異株のことも、種によって雄蕊や雌蕊の状況が大きく異なることも、書かれていない。少なくても「雌雄異株」ではない、と判断すべきだろう。おそらく、(開花の過程に於ける)もっと一般的な理由による「状況」の、たまたまその両極が2つの個体に示されている、と考えたほうがよさそうだ。

他の写真をチェックしてみた。しかし、(種の違いに関わらず)やはりそのほとんどが、ここに示した2パターン、すなわち、雌蕊が明瞭で雄蕊が花冠内側にくっつく、あるいは、雌蕊のない(少なくとも外側からは見えない)雄蕊の集合体、のどちらかに収斂する。

同じ種の同じ株の中で両方のパターンを備えている例はないだろうか、と探してみた。いくつか見つけた。

結論はこうである。やはり最初に見た(上掲の)写真は、リンドウ属の花の展開期に於ける典型的状況の個体が、たまたま2つの異なる種に示されて隣接して並んでいたのであって、それほど特殊な例ではないのであろう。

何枚もの写真をチェックしていくと、明らかに同じ種の同じ株に、それぞれの状況が示された個体(花)が共存していることが分かる。

ひとつは、雌蕊が中央に上伸突出(花頭が二分岐)、雄蕊は花冠内側にへばりついた状態の花(上写真右)。もうひとつは、中央には雌蕊は見当たらず、(おそらく雌蕊を包み込んだ)雄蕊が集合して一見雌蕊のように上伸突出し、その先端に、原則として花被裂片数(通常5片、しかし各裂片間に副片を伴うので見かけ上は10個の裂片、というよりも10枚の花弁のように見える)と同数の葯が集まった状態の花(上写真左)。

前者のほうが後者より時間的に後であることは、明らかである

ただ、だとしたら移行時の(中間的な)状態の花もあるはずだ。なぜか、それがなかなか見つからない。ほとんどが、上記どちらかのパターンである。

といって、全く見つからないというわけではなく、いくつかはあった。「雌蕊から外側に向けて少し離れかけた雄蕊」の状態の花である。ということは、「雄蕊の群れに包み込まれて隠れていた雌蕊」がその隙間から見えるはずだ。

ところがその姿がない。やはり雌雄異株なんだろうか?とチラリと思うが、でも子細にチェックし続けたところ、雄蕊が中央に集まっている時点では雌蕊は未発達で、柱頭はまだ上伸せずに基方に隠れていることが分かった。幾つかの(雄蕊が周囲に分離しかかった状態の)写真で、下の方に潜む雌蕊の姿も確認できたからである。

いずれにしても、どうやら、「雌蕊が未発達で雄蕊が中央に集まった状態」から「雌蕊が発達し雄蕊が分離して花冠の内壁にへばりつく状態」までは、極めて短い時間の間になされているようなのである。

それらを検証する写真の紹介は次回に。

なお、四川・雲南の高山性小型リンドウの大半の種は(僕の写した写真で見る限り)上記のパターンが示されているが、(例えば日本のリンドウなど)他のリンドウ属各種も同じように「雌蕊発達後の雄蕊が花冠の内壁にへばりついている」のだっけ? それについては、よく知らない。(たぶん僕が知らないだけだと思うので)誰かご存じの方がいらっしゃれば教えて下さい。

注:文献を改めてチェックしたところ、雄蕊が先に発達した後に、時間差を置いて雌蕊が発達する、リンドウのような パターンの花の展開様式を、「雄性先熟」というらしい。





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緊急ブログ!!

2021-01-18 15:24:07 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


フィル・スペクター逝去

世界的な大ニュースですが、日本ではどのように報じられるのでしょうか?



Trio - To Know Him Is To Love Him (Official Music Video) - YouTube

Dolly Parton, Linda Ronstadt, Emmylou Harris






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「コロナ騒動」一周年に際して/マスクとワクチンが人類を滅ぼす

2021-01-16 20:26:29 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



“無意識強要同調空気”への恐怖

今日で『「コロナ問題」問題』発生、ちょうど一年になる。

僕は、問題発生以来、基本的にはずっと同じことを書き続けている。事態は、概ね僕の言っている通りに進んでいるようである。誰も素直に認めようとはしないが、、、。

当初から僕の意見は同じである。一言で言えば、「俯瞰的な見方をすべし」「空気に取り込まれないように」ということ。現在の社会の中で確立されている「体系」に沿って対策を進めるだけでは、解決には至らない。マスクもワクチンも解決策ではない。それどころか、長い目で見れば、人類の滅亡に繋がる、と本気で思っている。

短絡的な答え(世論・空気の流れ)に基づいてマスク社会が構築されている状況を、ただやみくもに肯じるのではなく、背景を俯瞰的に見つめ直さねばならない(それは、個人にとっても、人類全体にとっても、少々苦しいことではあるかも知れないが)。

個人が(あるいは世間が)纏っている感情的な部分を削ぎ落とし、純粋に客観的な次元に立ってのみ見たならば、いわゆる「コロナ」は、地球上に存在する無数の要素(“良きもの”も“悪しきもの”も、その全てが人類に対しての“脅威”と成り得る)の一つが、姿を現した(見つけた)のに過ぎない。敵として、それから逃げる、それを壊滅する、、、そのことを続けている限り、この問題は永遠に解決しない。

と、ずっと同じ意見を、バカの一つ覚えのように一年間言い続けてきたわけで、その結果、メジャーなメディアからは、 “バカじゃないかこいつ?”みたいな感じで見放されてしまうに至っている。

例えば、「現代ビジネス」は、2017年から20数回続けたあと、「沖縄」関係のシリーズを始めようとしたところで、突如打ち切りにされてしまった。その後は(2019年6月から2020年6月にかけての一年間に)断片的に、次の5記事を掲載した。そして最後の掲載の翌日から、全く連絡も取れなくなってしまった。

「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感/ただの「同調圧力の象徴」になっていないか(2020.6.8掲載)

そもそもなぜ中国・武漢は「新型コロナの発生地」になったのか?/自然から人類への警告の可能性(2020.3.22掲載)

香港デモで「正義の香港市民」に暴行されかけて抱いた悲しみと違和感/「正義」とは何なのか?(2019.8.4掲載)

私が目撃した「天安門事件」あの日、中国の若者に訊ねられたこと/「中国は、日本みたいになれるかな。。。」(2019.6.9掲載)

「一年間」と言ったが、(僕の取り組みの)流れは、その半年前の「香港デモ」から続いている。そこで僕は、(香港デモ参加者・群衆の)マスク(に対する日本の大衆の反応)への批判を行なった。それは(今僕が言っているところの)「コロナ」マスクへの批判と無関係ではなく、本質的・大局的な部分で、強く繋がっている。ある意味では、「香港デモ」と『「コロナ問題」問題』は、直結しているのではないか、とも思っている。そのことについては、追々詳しく述べていく予定である。

僕は、「コロナ」への対応に際して、マスクの常時着用を否定する立場をとっている。ただし、否定の根拠は、他の否定派の人とは異なる考えに基づく。「経済優先」か「命優先」か、そんなことは些末的な問題なのである。

「人の命」と「経済」どちらに重きを置くかとすれば、単純に考えれば前者なのであろう(特定の範囲の人々ではなく、全ての人の命)。

と同時に、もとより、命が最優先(生きてさえいれば何でも出来る)とも思ってはいない。もっと大事なものがあるはずだ(それに関しての具体的な意見についてはこれまでにも度々述べてきたのでここでは割愛する)。

「経済優先」で言えば、むしろ経済に軸を置く社会構成など、この際一度破綻してしまった方が良い、と心中では願っている(経済が回復したところで「コロナに翻弄される弱者」よりも更に「最下層の貧民たち」へ直結などはしない)。

そしてマスクの着用は、極論すれば(他の世の中に存在する様々な事例の相互要因の関係性と同列に扱えば)、経済の回復とも命の保証とも無関係である。

マスク社会のもつ“恐ろしさ”は、もっと別のところにある。そのことを、出来得る限り理論的に考察し、より多くの人々に伝えるべく、一年がかりで発信していくつもりでいる。

誤解のないように、いくつかの事柄を箇条書きで示しておく。僕の想いは、以下に記す前提の上に成り立っている、ということを御理解いただきたい。

まず表題。「コロナ問題問題」と「問題」を重複したのは、むろん記入ミスではない。コロナが問題なのではなく、「コロナ問題」が「問題」なのだ、ということである。

「コロナ」の語を安易に使用することは、この「問題」を間違った方向に導くだけである。本来ならば、もっと正確な言葉で表記せねばならない【「青山潤三の世界・あや子版」遺書 4(2020-07-31 08:32:06 | 香港デモ、新型ウイルス、日記)】。ただしここでは便宜上(いわゆる)「コロナ」として表記していく。 

「コロナの脅威」は僕も十二分に認識している。そのうえで(別の角度から見れば)「ただの風邪である」ということも事実だと考えている(“風邪”は、非常に恐ろしい病気だ)。

ほぼ一貫して、日本の立場を批判している(政府に対しても大衆に対しても)。それは、僕が誰よりも愛国者であるゆえにである。また、概ね中国の味方をしているが、中国がとんでもない酷い国であることは、誰よりも良く知っている。むろん中国共産主義は容認していない。

科学(あるいは文明)を批判・否定している。それは、科学「的」な方法論や方向性への過信に対してである。科学そのものには希望を持っている。

上記したようにマスクを拒否しているが、僕自身は、臨機応変にその場その場でマスクを着用している(そうすることが正しいとは必ずしも思っていないけれど)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

僕が言わなくたって、多くの人々は、うっすらと気付いているはずだ。どこかおかしいんじゃないかと。我々は、(人類の歴史の長い間)「何かに」洗脳されてしまっているのではないか、と。

目を覚まして貰いたい。「コロナ問題」の意味するところは、単に「コロナ」の問題ではない、ということに気付いて欲しい。

以下、一年前にスタートした「コロナ問題」の動きを、改めてなぞっていくことにする。一年という時間をおいて再検証していくことにより、我々が今何をしている、どこに向かおうとしているかを、より「客観的」に俯瞰することが可能になってくるのではないかと考えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2020年1月16日。僕は中国広州郊外のボロアパート*にいた。
*ボロアパート=想像を絶する貧民窟に存在(賃貸し月5000円、部屋の中は埃と悪臭にまみれ、水道の蛇口からは黄色い水がでる)。ちなみに周辺は(いろんな意味で)想像を絶する超高級住宅街(超豪華な住宅が次々と建てられ、その何割かは人の住まぬまま朽ち果てていく、僕の知人は一億円余で購入)。

同じころ、別の知人のK氏から、ユーチュバーになることを勧められ、さっそくその翌日から、モニカ*の携帯電話を使って、少なくても一年間、毎日発信していく決意をした。しかし、全く同時に「コロナ騒動」が発生し、第一回目だけの発信に終わって、今に至っているわけである(日本では僕は携帯電話を持てない)。
*モニカ=中国人のアシスタント。大学卒業後、10年間にわたって渾身的に僕を手伝ってくれている(給料は払っていない)。5年前、中国人男性と見合い結婚し、一女がいる(今年2人目が誕生予定)。

何度か書いてきたことだが、最初に「湖北省武漢発生の新型コロナによる人-人感染が証明された」というニュースが報道されたとき(2020年1月16日、第一回目のユーチュブ発信の前日)、その記事と並んで、同じ湖北省の長江に棲む「世界最大の淡水魚の絶滅を認定」という記事が載っていた。僕から見れば、後者のほうが遥かに重大なニュースと思えたのである。

むろん、(僕の想いとは逆に)、一方は忘却、一方は「人類未曾有の大騒動」へと、正反対の方向に進んでいくわけだが、僕にはそのことが、この問題(いわゆる「コロナ」)の本質の全てを象徴しているように思えてならないのである。

僕自身のことを少し述べておく。本職は「ネーチャー・フォトグラファー」である。と共に、僕の守備範囲(研究対象)である幾つかの生物群(主に蝶と蝉、植物では野生アジサイなど)を調べている。系統分類(学)、生物地理(学)という分野に関わりがある。
 
「研究」とか「学問」とかいう言葉は嫌いなので、使わない。「教育」とか「知識」とか「答え」とか言った言葉も嫌い。むろん「名誉」にも全く興味はない。「学問」としてではなく、ひたすら「実態を知る」ために取り組んでいる。本気である。素人ではあるが、趣味では断じてない。

何度も言ってきたように、僕の姿勢は、普遍性の追求であり、「マニアック」な人達とは対極に位置する、と考えている。生き物コレクターは(野草の栽培とかも含めて)大嫌い。もとより、ペットや園芸植物などに対しては、全く興味も知識もない。

「趣味」といえば、1960年代初頭を中心とした「アメリカン・ポップス」、および主に明治20年代の「明治文学」。これは紛い無き趣味である。こちらのほうは、マニアックといわれると嬉しい(本当にマニアックな人達は凄いので、同列に語ると失礼だが)。

ただし、興味の根源は同じところにある。

「事実は一つではない」「正解はない(それを求める努力は否定しないとしても)」

それを「一つに」決めつけようとする「空気」に対する危惧。結果云々ではなく、そこに向かう(無意識に、しばしば一気に為される)「空気」を、やみくもに肯定することに対する、全否定。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

野生生物調査に於ける僕のフィールドは、中国大陸。むろん、湖北省も含まれる。本来の目的は、日本の生物相の成り立ちを知ることである。日本を愛する日本人の一人として、より深く日本を知るために、その「マザーランド」ともいえる中国の生物相を調べているのである。

それから沖縄(「琉球」あるいは「南西諸島」というべきか)。

去年の今日、「中国湖北省武漢発祥とされる新型コロナウイルスの人-人感染」が初めてメディアで報道された。その半年前に、僕は「香港デモに於ける“マスク”の位置づけ」に関する記事を、メジャー・メディア(「現代ビジネス」)に発表した(敢えて「メジャー・メディア」と記したのは、自分のブログには、常時そのことを書き続けているので、我彼を区別するためである)。

その「香港デモに於けるマスクの位置づけ」の流れで、「コロナウイルスに於けるマスクの位置づけ」も書いているのである。誰もそんなことを結びつけはしまい。偶然だとしか考えないであろう。僕は一貫して、同じ流れの中で見つめている。

上記したように、2017年夏から、毎月一~二回続けていた「現代ビジネス」への掲載コラムは、一昨年(2019年)の正月になって、突然打ち切りになってしまった。その数回前のコラムに、「沖縄(琉球/西南諸島)はどこにある?」というテーマで10数回の記事を書く、と読者に伝え、掲載を始めたばかりなのに、、、。

しかし、6月には「天安門事件30周年」の記事を書かせてくれ、その直後に勃発した「香港デモ」についての写真取材を、編集部の名の許に発表、8月になって、やっと自分の記事(「香港デモに於けるマスクの意味」)が掲載された。反響は結構あった。殊に香港&中国のメディアでは大きく取り上げられ、複数の翻訳が成され、香港の出版社での単行本化(欧米の作者たちとの共著)もなされた。しかし、日本のメディア(殊に肝心の「現代ビジネス」自体)からは全く見向きもされず、以降の執筆は許されなかった。

そして昨年1月に、「コロナウイルス問題」が発生。僕はリアルタイムで中国に滞在していた。現場の情報を伝えたかった。しかしなかなか書かせてくれない。3月になって、やっと「ある視点からの記事(武漢発祥の背景にあるもの)」が採用された。6月には、「コロナに於けるマスクの違和感」が掲載された。それ以降、編集部とは連絡がつかなくなり、出入り禁止状態になっている。

僕の文章が下手くそで、思考能力に欠け過ぎる、要するに余りに幼稚である、ということは、自分でもよく分かっている。しかし、その僕の考え方や、文章表現を喜んでくれる読者も、少なからずいるのである。

でも、メディア(現代ビジネス)の側からすれば、そのような読者の存在は、何の意味もない。つまり、僕の記事は「“現代ビジネスとしてのクオリティ”に達していない」ということである。所詮、巨大マスメディアに、僕ごときが逆らうことは不可能なのである(本人としては、別に逆らっているつもりはなく、結構顔色を窺いつつ、かつ自分の考えを素直に表して行こうとしていただけなのだが)。

というわけで、(「香港デモ」から継続する問題としての)「コロナウイルス問題」の一年間を振り返りつつ、今に至る道筋を、改めて辿っていこうと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・

時間が来た(Wi-Fi発信できるスタバなどの施設の利用時間が3時間短縮)ので、以下は端折って(概ね箇条書きに)記す。

「香港デモ」も「コロナウイルス問題」も、突き詰めれば、「民主主義の正義」と「共産主義の悪」という構図の上に成り立っている。僕は、必ずしもその理念を否定はしない。しかし、実相は受け入れがたい。「正義のためになら何をしても良い」と言わんばかりに、あらゆる手段を使って「民主主義の正義」を世界に発信する。

香港デモに引き続いて、「武漢発祥」の「新型コロナウイルス」が世界を駆け巡ったのは、ある意味偶然ではないのかも知れない。穿った見方を承知で言えば、「香港デモ」勃発半年後、(中国共産党の支配下にあるとされる)香港警察への攻撃が手詰まりとなり、敢えて“武漢”の「箱」を開けた。

本来は、世界に向けての中国攻撃のみが目的だったのが、「パンドラの箱」を開けてしまったために、収拾がつかなくなってしまった。いや、もしかすると、“筋書き通りに”かも知れないけれど、中国はしぶといと思う。そう簡単に思惑通りには事は運ばない。案外、利は中国の側にある気もしないではない。

これは皮肉で言うのだが、日本の大衆は、共産主義下の体制を(全く無意識的に)望んでいるのではないかと、ふと思ったりする。すなわち、「大衆が望むコロナへの対応」を、「力」に代弁して貰いたい、無意識のうちにそう望んでいる。

怖いのはコロナじゃなく、人間の意識だと思う。それは正義(空気と同義語)であり、異質の排除である。
「無意識強要同調空気」「合法的な洗脳」

「事なかれ主義」「自己保身」「取得権保持のための異質の排除」

それが(日本発で)世界に広がり、世界中が「日和見」の中に置かれている、、、、。


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「私(漱石じゃないです、僕です)の個人主義」感

2021-01-16 16:12:28 | 香港デモ、新型ウイルス、日記




このあと、重要な記事を発信するので、ぜひ読んでくださいね。今それを書いてる最中なので、それがアップされるまでの穴埋め記事です。

マスク集団怖い!!!
(特に誰もいないところでマスクしてる人)

考えてみれば、もとより日本人はマスク好きなんですね。

自己保身。みんなが揃って自分中心(西洋の“攻める個人主義”ではなく“取得権保守”)。それが標準となると、そこからはみ出した“自己中心でない考えや行動”は、集団となった自己中心社会からは、自己中心と見做されてしまう。

「隠す」ことに喜びを覚えて(正義を求めて)いるのだと思う。

「中国人はお金に汚い」。隠さないから日本人にとってはそう思われるわけで。

ともかく、日本人は、以前からマスクが好きです。顔隠してれば、楽なんですね。今(中国など一部の「邪悪国家」を除き)世界中の国々が、日本の「楽ちんな姿勢」(責任逃れ/自己保身)を見習おうとしているように思えます。






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遺書 99

2021-01-15 16:12:27 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



↓「違和感」といえば、違和感ありまくりの記事です。

性的画像 ビーチバレーの苦悩 - Yahoo!ニュース

Uqg…さん
ビーチバレーに限っては同情しないな~、、
もう少し露出を控えたら?恥ずかしくて観てられないわ。なんであんな格好する必要有るんだろう。って普通に思いますよ。

milk
コメ主(Uqg)さんに同感です。男性ですが、気恥ずかしくなって、見ていられないです。どうしてあんな格好で競技をやらねばならないのでしょうか?確たる理由があるならばわかるのですが、、、。あと、繰り返し使われている「性的」という言葉の意味が、もう一つよく分かりません。あえてその恰好を選んでいるのならば、自ら「健康的」と解釈したほうが良いのではないでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「自粛要請」はおかしな日本語と指摘 両立しない言葉? - ライブドアニュース (livedoor.com)

どう考えても、おかしな日本語だと思いますね。でもそれが「正常な日本語」として認められている(皆おかしいとは思わないでいる)ところが、今の日本の現状を如実に表していると思います。






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遺書98

2021-01-14 20:12:32 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


前回記事、1月16日、コロナ報道一周年に合わせて「遺書第100回」にするつもりで、逆算して適当に「98」としていたのだけれど、あや子さんがちゃんとチェックして、「97」に直してくれていました。それで、今日もうひとつ「98」を追加しておきましょう(笑)。

三世との、ここ数日のやり取りが結構面白かったので、それを載せます。

【三世】
>愛は大事だと思いますが、ジョン・レノンとオノ・ヨーコには違和感を感じてしまいます。
↑注:何の脈絡もなくこんなメールが来たので、

【青山】
>違和感感じまくりです。あれは愛じゃないです。

【三世】
>違和感の理由を教えてください。

【青山】
>たくさんあります。
>スタバもイオンも8時閉店(あと3分)なので、今日は帰って寝ます。
>あいつらは偽物の愛とか平和です。
>その話題は、明日また。

【三世】
>明日待ってます。
>ジョージの陰謀論的にいえばビートルズ時代からユダヤによる芸能界のコントロールが始まったそうです。

【青山】
>そのとおりです。
>たぶんジョージ(ハリソンではない身近なほう)の方が、ジョン・レノンより才能あると思います。

【三世】
>昔から世の中がみえている青山さんはすごいと思います。
>ジョージもすごいと言っていました。
↑注:褒めすぎ。

【青山】
>「ビートルズの正体」みたいなこと書くと、本一冊分になってしまいます(材料は山ほどあるけれど僕にはそれを纏める能力がない)。
>パンドラの箱を開けちゃうと大変なので、閉めたままにしときましょう。
>ちょっとだけ言います。
>ジョン・レノンは、いわゆる「いかにも」な人です(顔みりゃ分かる)。大衆は「いかにも」に弱いですね。すぐに騙されます。
>ビートルズもそこそこ良い曲は作って(あるいは歌って)います。でも、特別なわけではない。
>「いかにも」の空気と、力を持つバックのおかげで、大衆の洗脳に成功したのです。
>ジョン・レノンに才能があるとすれば、その「大衆を騙す」能力でしょうね。
>オノ・ヨーコは言うに及ばずです。彼らの愛は単にHしてるだけで、他は空っぽです。
>コロナと同じです。ジョン・レノンは、マスクみたいなものです。

【三世】
>たしかにジョン・レノンはマスクですね。
>オノ・ヨーコと共にすごい薄っぺらさを感じます。
>海外(特にアジア以外)に住んでる、外国人と結婚してる日本人女性が嫌いです。
>変なプライドを持っていて、大体ブスです。日本で拾い手が見つからず、日本人マニアのブス専外国人をゲットしている感が凄いします。


【青山】
>僕もそう思いますね。
>三世は例外的に素敵ですが(お世辞じゃないですよ)。

【三世】
>ジョージも、ジョン・レノン、ビートルズに関して青山さんの言う通りだと言っています。
>ビートルズの曲は心に響かないとも。
>ただのユダヤの操り人形だったんかもしれないです。

【青山】
>ビートルズを最初に見出したのは、僕の神さまであるベルト・ケンプフェルトです。ハンブルグのライブバーの地下。その時の名前は、トニー・シェルダン&ビート・ブラザース。
>ケンプフェルトが目を付けたのは、ボーカルのトニー・シェリダンとグループリーダーのステュァート・アトクリフでした。それでイギリスに戻って、プロヂューサーのジョージ・マーティン、マネージャーのブライアン・エプスタインのもと、ビートルズとして再デビューします。上記2人の操り人形として。ステュはその直前に亡くなり、トニーは(リンゴの前のドラマーのピート・ベスト共々)メンバーから外されてしまいます。
>イギリスでは、62年からメジャーになります。しかしアメリカでの反応は全くない。イギリスでの大ヒット曲も、全然無視され続けてきました。63年夏になって、イギリスでのNo.1ヒット曲「フロム・ミー・トゥー・ユー」が、やっとビルボードの116位にランキングされます。しかし次の「シー・ラブズ・ユー」は(リアルタイムでは)チャート圏外。
>そこで、(詳細は略しますが)上記マーチンやエプスタインを中心に、裏の勢力?が集結して、大プロジェクトをうった。それがケネディが暗殺された63年秋のことです。
>翌64年1月18日付けのビルボード誌の84位に「抱きしめたい」が初登場します(ジョニー・ティロトソンの最後のトップ10ヒット「トーク・バック・トレンブリン・リップス」がベスト10から滑り落ちた週)。
>そして、3週間後にNo.1に上り詰め、更にベスト5全部をビートルズの曲が独占し、ホット100に一度に12曲を連ねます。
>アメリカ中が、大狂騒の中に包まれ、「文化」の基準が切り替わってしまうのです。ちなみに、アメリカ中のラジオ局が、朝から晩までビートルズの曲をかけ続けた中にあって、カルフォルニアのラジオ局だけは、ビーチ・ボーイズの曲(「ファン・ファン・ファン」)を一日中かけ続けた、という伝説が残っています。
[付記]
>僕は、ビートルズアメリカ上陸寸前の、1964年1月4日に、神戸元町の大蓄レコード店で、ビートルズの曲を3枚買いました(確か「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」、およびトニー・シェリダンが歌ってクレジットは「ビートルズ」になっている「マイ・ボニー」)。
>おそらく、日本の一般市民としては、最初にビートルズのレコードを買った一人だと思います。




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遺書97

2021-01-14 12:44:54 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


東京は今日も、雲一つないピーカンの快晴ですね。
「都心大雪情報」どこに行っちゃったのでしょう。

同じこと書くの三度目ですが、天気予報が当たらなくなった、いや、正確には、(結果として)「予報」することを放棄してしまっている。考えてみれば、何年か前からの傾向です

大きな自然災害が起こった時、予報できていなければ、強く叱責されます。よって、常に、同じこと「脅威への煽り」を繰り返していれば、致命的な失態からは免れるのです。

「天気予報」に関しては、それもありとポジティブに捉えても良いのでしょうが、世の中全体が、そのようなシステムの中で回っているように思います。

「責任逃れ」「自己保身」「異質排除」「既得権保守」、、、僕の言う「無意識強制同調空気」も同様。

今回(いわゆる「コロナ」)は、「パンドラの箱」を開けちゃった(あるいは透明人間を見てしまった)わけで、収拾がつかなくなってしまっているのです。

「パンドラの箱」は開けない(「透明人間」の存在は敢えて確かめようとしない)。それが日本人としての心構え(君子危ゆきに近寄らず)なのではなかったのでしょうか?

よしんば開けて(見て)しまえば、そこから一気に湧出した「答えの出ない脅威」から、徹底して逃げる(マスク)か、徹底して叩き潰す(ワクチン)か、脳がないわけです*。

「パンドラの箱」「透明人間」を見くびってはなりません。所詮、我々が相手に出来る「敵」ではないのです。愛を持って、仲良くすることですね(そりゃあ、大変にハードな事ですよ)**。

まあ、彼らと仲良くしてると、人類大衆からは仲間外れにされちゃうのでしょうが。

・・・・・・・・・・・・・・

*「パンドラの箱」を敢えて開けたのは、「中国湖北省武漢」がキーワード。「香港デモ」からの流れです。

**本来、夏が暑いのも、冬が寒いのも、当たり前だし。 





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遺書96

2021-01-12 20:26:22 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


昨日は嬉しいことがありました。スーリンからメールが来た。三か月ぶりです。まあ、この数年は、2~3月置きぐらいしかメールのやり取りしてないので、今回が特別ということではないのですが、しばらくメールがこないと、心配してしまいます。娘が三人(中国2ギリシャ1)もいると、心配事が尽きません(笑)。

まあ、それはそれで、、、そう、何というか、人生に潤いを与えてくれているとでも思えば、そうですね、有難いことなのかも知れませんね。

ちなみに、プロ野球の試合の勝利のお立ち台に立った外国人選手のヒーローインタビューの第一声は、日本語の“そうですねぇ~”から始まるのが、最近の“お約束”になっているみたいです(阪神だけかな?)。

So,,,,

日本語と英語で、発音も、意味も、ニュアンスも、強さの程度も、広がりの範囲も概ね重なる単語が、“そう”と“So”。

そんなことも加味して、“So”は僕の好きな言葉です。英訳するときも、文章のどこかに、適当に、やたらに差し込んでいます。

翻訳といえば、、、、語学力の乏しい僕にとっては、地獄そのもので、、、。

ここんところ、起きている間の7~8割は、「中国の野生植物」に取り組んでいます。得意分野=アジサイ、キイチゴ、カエデ、タンポポなど=でないところの、なおかつ一般受けしそうなグループを優先、ということで、シャクナゲ(ツツジ) をひとまず終えて、サクラソウを整理しているところです(このあと、バラとかユリとかリンドウとか青い罌粟とかを予定)。

もっとも、原版写真(シャクナゲのセレクト分で2500枚)をモニカにメール送信する作業が大変で、、、マクドやイオンのWi-Fiは速いスピードで送信できるのですが、マクドはWi-Fi自体が繋がらないことが多いし、イオンも色々と問題が山積みで、たまにしか利用できません。結局、一番確実なスタバ主体ということになるのだけれど、スタバは(Wi-Fi自体は確実に利用できるとしても)データの転送が、絶望的に遅い!(マクドやイオンの数10倍の時間がかかる)。いやもう、精神的にメゲてしまいます。

膨大な原版写真を整理→重さとか画像状態とかを調節→それをセレクトしてモニカに転送。と共に、一部の写真をワードに張り付けてテキストを作成、中国語に訳すための下訳として、まず自分で英語に翻訳。

この作業が、心身ともに疲れます。モニカは、「調節しなくてもそのままでいい」「英訳しなくても日本語のままでもいい」と言うのですが、、、ついつい不安になって、というか、念のためにというか、「画像調節」と「文章翻訳」に取り組んでいるのです。

写真の整理については、どれを選ぶか、あるいは選んだ写真をどのような基準で調節していくか、、、、実際の作業自体よりも、「それを決めること」のほうに、多大な時間労力を使ってしまいます(だから、余り考えずに、より多くの写真を送っている)。まとめて送る方法を知らないので、2500枚、アナログ的手法で1枚(実際は7~8枚)づつ送信しています(今日もついさっきまでその作業をしていた)。

文章(解説、あるいはメモ)の翻訳のほうも、辛いです。語学力皆無の僕には、チャレンジ自体が土台無謀なのかも知れません。例えば、冠詞の使い方とか、動詞の活用とか、まるで分らない。そりゃもう酷いものです。僕の能力でもってしては、正しい英語にしようとすればするほどドツボに嵌ってしまいます。

開き直って、「“ちゃんとした英語”にする絶対的な必要があるのだろうか?」とか、考えたりもします。

Send me the pillow that you dream on だって、ひどいのになると、Send me pillow dream on とかまで省略されちゃってる(日本じゃなく向こうで)。それでも、たぶん言わんとしてることは分かるのかも。向こうの人たちは、大して気にしてないのかも知れません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんなことを、ふと思いだしました(共に40年以上昔のことですが、その時の“雰囲気”みたいなものを鮮明に覚えてる)。

昔、確か初めて北海道に行った時のこと。上野から青森に向かう夜行列車の中で、すぐ近くにいたおじさんたちが、夜通し喋り続けていました。僕は、その人たちを、(日本以外の)アジアのどこかの国の人、と思い込んでいました。朝になって青森に着いて、軽く挨拶を交わしたときに、彼らの喋っていた言葉が、実は日本語であったことが分かりました。

やはり、ずっと昔のこと。初めて屋久島に通いだした頃です。屋久島の比較対象地域として、周辺地域(種子島、三島列島、トカラ列島など)にも度々訪ねました。大隅半島南部の「辺塚」という村(稲尾岳の南麓で「ヘツカリンドウ」の名の起源)にも、何度か行きました。村に一軒の旅館があって、そこの若奥さん(たぶん)が、実に僕の好みのタイプで、、、まあ、それはともかく。

ある朝、目覚めると、何人かの人たちが喋っている声が聞こえました。「外国人も宿泊してるんだ」と、夢うつつに思っていました。声の主は、若奥さんや、その家族の人たちでした。僕としては、100%外国語であると信じていた。でも、紛い無き日本語だったのですね。むろん僕との会話は、「普通の日本語」を使っていたのですが。

いや、どう考えても、日本語には聞こえません(僕の聴覚が可笑しいのかも知れんですが)。青森の端っこの村の人と、鹿児島の端っこの村の人との間に、会話は成り立つのでしょうか?むろん成り立ちますね。そのために「標準語」があるわけですから。でも、互いに地元の言葉で話すとしたら、絶対に意思の疎通は出来ません。そこに、「教育」や「文明」(その象徴の一つが共通言語の確立とその浸透)が助け船を出し、実質的な「単一国家」と成り得ているのです。

でも、それぞれの地方の人同士は、それぞれの独自の言葉で会話している。一つの国に、互いに理解不能な言語が何通りもあるのは、いちいち面倒だし、全部「標準語」にしてしまえば良いと思うのだけれど、そうもいかないのでしょうね。より多くの人とは交われないけれど、(それらの世界では成し得ない)より深いプリミティブな人間関係の構築。僕が、その若奥さん(?)の気を惹こうと何か話し掛けるとしても(無論そんなことはしませんでしたが)、深い部分での意思の疎通という点では、絶対的なハンディがあるわけです。

もちろん、どちらが良いか、という問題ではありませんね。一つの言語を完全に極めることと、全てをカバーすることとは、目的の方向性が全く異なります。正しくローカルでプリミティブな方言。正確な標準語(“世界”という範囲に置き換えれば国際語=実質英語)。それぞれの状況下で、どちらかを、より的確に使うことで、より分かり敢える範囲が広がる。

教育を受け、自己の成長に徹する。プリミティブ(愚鈍と置き換えても良い?) 維持に徹する。むろん両方を自家薬籠中に出来れば、それに越したことはないです。どっちも、(正反対の立場ですが)「一か所への集中」ということでは同じなわけですから。

ちょっと、何言ってるのか分からなくなってきましたけれど、面倒なのでそのままにしときます(まあ、痴ほう症老人のプラットホームでの独り言ということでご容赦ください)。

いずれにしても、僕は、どっちの能力もないみたいですね。どちらの方向に対しても極めて中途半端で、いわば適当に「ごちゃまぜ」です。

圧倒的に下手な中国語でスーリンと会話し、圧倒的に下手な英語でモニカと会話。でも、少なくても、僕にとっては、日本語で自由な会話交流が可能なはずの対日本人よりも、良い関係が築けている(単に人徳の欠如、ということなのかも知れないけれど、笑)。

自分のこと以外でも、お手本があります。ギリシャに住む三世だって、相当に出鱈目な英語で、ジョージと(たぶん誰よりも深い部分で)コミュニケートが取れている。

それらの現状に満足して良いとは思っていません。でも、それでも良いかも、とは思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

蛇足。言葉の意味の持つ「標準」の基準は、時代と共に変わっていくのだと思います。

スタバで、一日中、スタッフとお客さんのやり取りを聞いているわけですが、、、。最近、気になって仕方がない言葉。
「大丈夫です」。スタッフ側からもお客側さん側からも、その言葉が発せられる頻度が、余りに多いような気がするのです。いや、どこが変なの?気になるほうが可笑しい、と言われればそれまでなのですが。

客:コーヒーください。
店員:食事は大丈夫ですか?
客:大丈夫です。

本来ならば、
客:コーヒーください。
店員:食事は必要ですか?
客:いりません。
ではないかと思うのですが、、、。

本来「O.K.(=前向き)」の意味を持つ言葉が、「NO」の代用にされてしまっているような気がする。

「ノー」とあからさまに言っちゃいかんのが(あるいは「必要かどうか」をストレートに相手に尋ねないことが)日本の礼儀なのかも知れません。いつの間にか、それが「標準」になっているわけです。

もっと端的なのは、「よろしかった」。1000円でよろしかった(よかった)ですか? なんて言われても、よろしいも何も、僕の中の標準で真面目に反応すれば、過去形で対されることに、どんな思惑が含まれているのか戸惑うしかないのだけれど、それが標準になってしまっているのだから、(戸惑いは無視して)素直に溶け込むしかありません。

「学問」「教育」「空気」一体になって、大衆の間で力をもった「基準」が、そのつど「標準」となるのです。

・・・・・・・・・・・

話がまた逸れ過ぎました。

で、いきなり結論に持っていきます。

「メモや解説の翻訳」についても「写真の整理や調節」についても同じことが言える(全く別次元下の同質要素)
のではないかと思うのですが、、、、。

言語にしても画像にしても、「焦点(目的とする部分)がぴったり」という必要性はあると思います。でも、それが成された瞬間に、周辺は消える。写真の色合いや鮮度などを調節しようとして、その時は“よし、これで決定!”と思っていても、後で改めて見直すと、最初にあった良さのどこかが、欠けてしまっている。

柔らかさ、暖かさ、広がり、、、のような部分と、鋭さ、透徹、集中、、、のような部分の相関性。

言葉を統一・固定することで、より多くの世界の共通認識が為されるわけですが、対象が明晰になればなるほど、広がり、曖昧さ、付随する“一見無駄に思える”部分、、、いわば「動き」のようなものが失われていく。

僕は、必ずしも「曖昧であること」を「よし」としているわけではありません。統一性の構築・基準の追求は、必要だと思っています。でも、それをもってのみ「正解」「正義」を導き出すことに対しては、どうしても拒否反応を示してしまいます。

体系的に、方法論に沿って、理路整然と進められていく、「教育」や「文化」に対する過信を、最近の日本社会の中に感じてなりません。

・・・・・・・・・・・

太陽と暗闇は共存しうる(結論を言えば、してると思いますが)のでしょうか?
考えてみれば、地球に「昼」と「夜」がるのは、凄い事なのかも知れません。

・・・・・・・・・・・

僕が大嫌いなのは、例えば、ローリング・ストーンズ誌(注:ローリング・ストーンズは大好きです)のような方向性、、、、ただただ空気に乗っかって信望する、実は自分たち自身が「カウンターを受けるべきカルチャー」になってしまっていることに気が付いていない、カウンター・カルチャーの民。

・・・・・・・・・・・・・・・

ブライアン・ウイルソンとマイク・ラブがいてこそ、ビーチ・ボーイズです(カール・ウイルソンが亡くなった後、アル・ジャーディンが「カールのいないビーチ・ボーイズはビーチ・ボーイズではない」といって実質解散に至ったことは、また別に考えましょう)。

ずっと後、ビーチ・ボーイズの呪縛から解き放たれて自由になったのであろうブライアンに、日本の某音楽評論家が、このような質問をしました。 
「改めて今、(作詞作曲の)コンビを組むとしたら、誰を選びますか?」
ブライアンは即座に「マイク」と答えました。
質問した日本の(ブライアン信者の)その音楽評論は、(彼からすればまさかの答えに)「そ、それは無いんじゃ、、、」と、戸惑ったそうな。「空気」に乗っかるだけの大衆の多くは、その程度の感性しか持ってないということでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

辻邦夫(たぶん生涯かけて「現象を明確に切り取り表現する」ことに尽くした人)と北杜夫(たぶんその対極)は、非常に仲が良かった。

辻邦夫さん、、、、、。

こんなこと(いわば“犯罪行為”の自慢と変わらない)は、公に書いちゃいけない(でも、当日にもちょっと書いた)ことだと思うのですが、、、。

北杜夫さんが亡くなられた日、新宿から中央線で立川に戻る途中、吉祥寺の手前で隣に座っている人が読んでいた(夕刊フジだか日刊ゲンダイだかの)新聞記事が目に留まりました。
「作家の北杜夫氏が亡くなった、通夜はお断りします」
咄嗟に吉祥寺で下車し、井之頭線に乗り換えて(何年かぶりで)東松原に向かいました。親しい人たち・身近な人達や、交流のあった作家や有名人の方々も、「約束事」を守って通夜を控えていたのです。なのに、敢えて押しかけた。決して、容認されるべき行為でないことは、分かっています。でも、どうしても、最後にお会いしておきたかった。

約束破りの訪問にも関わらず、奥さんは招きいれて下さいました。応接間の、冷凍処置を施された遺骸の前で、最終電車ぎりぎりまで、話をしました(「昆虫の話が出来て喜んでると思う」、と言ってくださった)。

棺以外には何もない簡素な応接間の壁際の、ガランとした大きな本棚の真ん中には、手塚治虫の「火の鳥」の全集だけが収められていました。
「地震のあと、本棚の倒壊を未然に防ぐために蔵書は全て処分したのだけれど、この本だけは身近に置いておきたいと、最後までここに残していた」とのことです。

あと、棺の傍らに、先に亡くなった辻邦夫さんの奥さんからの花束が置かれていました。

思えば、北杜夫さん本人とは、いつも挨拶程度しか言葉を交わさなかったのですが、奥さんには、(ときどきお金を借りに行ったりしていたので)しょっちゅう怒られていた。頑張ることだけが、恩返しだと思っています。

・・・・・・・・・

話が飛びまくりです。以下も全然違う話題です(北杜夫さんのことに触れたのは、この流れからですが)。

人生で、何年かごとに、斎藤緑雨に嵌ります。今回は、かなりどっぷりと嵌ってしまっている。先日、その流れで坪内逍遥の「小説神髄」と「当世書生気質」*に関する明治文学関係の文献をネット・サーフしていた時に、ある評論家の読書感想コラム(立宮翔太さんという方の「文学どうでしょう」)で、北杜夫の「船乗りクプクプの冒険」が紹介されているのを見つけました。

*「坪内逍遥」「小説神髄」「当世書生気質」については、僕の中では否定や肯定を含む様々な思いがあって、とてもここでは書ききれないので、触れません。

「船乗りクプクプの冒険」。凄く推奨されていて、ちょっと嬉しくなりました。

僕のfavorite小説は、
北杜夫「船乗りクプクプの冒険」
澁澤龍彦「高丘親王航海記」
前者には中学生の頃、後者には40歳を過ぎてから出会ったのですが、内容(エキス)はそっくりですね。

そういえば“Sloop John B.”(ビーチ・ボーイズ以前にも多くのミュージシャンによって歌われている)の歌詞にも、両者との共通要素が感じ取れます。
“I Wanna Go Home”、、、、僕は、このフレーズに弱い。
(あともうひとつ挙げれば“Let Me Go”)
「連れてってソング」と「帰りたいソング」。
(連れてってくれる人もいないし、帰るべきところもない)僕には縁のない言葉なのですが、なぜか、たまらなく惹きつけられるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

支離滅裂になってしまいました。

駅のプラットホームも、メディアのプラットホームも、ひと括りすればインフラの場の一つなわけで、どちらにしても“それ自体”には意味はなく、そこから「電車に乗る」「情報を発信する」ことで、初めて意義が齎されます。

プラットホームで独り言を呟くのではなく、なんとか「電車」に乗る工夫をせねば、と考えている今日この頃です。




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遺書 95

2021-01-10 20:49:02 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



「遺書」としたのは86までで、その後の数編は別タイトルで掲載しました。その数編を「遺書」の一つとしてカウントすると、今回が第95回かな? 

一日一回とすれば、1月15日にはちょうど100回に達する予定です。翌1月16日が「コロナウイルス人-人感染認定発表日」から一年目。それに合わせて「101回目」ではなく別のもっとインパクトの強いタイトルに差し替える予定でいたのです(でも待ちきれずに数編前から既に変えている)。 

「百物語」なら、そこでお化けが出るわけです。手塚治虫も森鴎外も、独自の「百物語」を著しています。全然お化けなど出てきません。もっと「本質的」な部分を表現しています。

この2人、他に余り例を見ない共通点があります。年齢2歳胡麻化していること。年齢の誤魔化し自体は結構あります。ただし「若い方」へのサバ読み。アメリカン・ポップスの世界では、胡麻化してない歌手を見つけるのが難しいほど、みなそろって胡麻化している。エルヴィス基準(1935年生まれ)、リッキー基準(1940年生まれ)の話は、ずっと以前のコラムに書いたので、興味ある方は探して読んでください。概ね2歳(Johnny Tillotsonもその口)、5~6歳も結構あって、何人かの猛者は10歳以上サバを読んでいます。

鴎外と手塚治虫は、逆に年上のほうに2歳サバを読んだ。余りの早熟天才ゆえ、そうせざるを得なかったのでしょう。

来たる1月16日の“101回目の遺書”は、「僕の百物語」というわけです。むろん鴎外や手塚治虫のとは、比較の対象にもなりませんが、僕なりの「百物語」を目指します。お化けを出す代わりに、正面から、世間と戦っていきます。 

と気負ったところで、誰かに読んで貰わないことには、どうしようもない。客観的に考えれば「遺書」ではインパクトが弱すぎます。とにかく、不特定多数の人々の目に留まるキャッチ―なコピーでなくてはならない。101回目まで待ちきれずに、既に幾つかを試して見たのですが、余り効果はないようです。

なんか大きな事件でも起こしちゃえば注目されるのかも知れませんね(それでもマスコミによるバイアスの匙加減闇なんでしょうが)。ブログに物騒な内容を記述するとか(ユーチュバーなんて綱渡りでそんなことを続けているのでしょう)。

一体、どのような「表明」をすれば大向うに注目されるのか、一度は試して見たい気持ちもあるのですが、、、もちろん、騒ぎになれば困るので止めときます(笑)。

案外、相当に物騒(危険)なこと書いても、無視されてしまうんじゃないかという気もしますね(炎上狙っても炎上さえしないみたいな)。

ま、永遠の疑問、として残しておきましょう。

結局、どんな扇情的な言葉で煽っても、最初からスルーされる場(空気の居場所)にあれば、相手には届かない。どうやって、不特定多数の人々の目に留まるプラットホームを見つけ出すか。それが問題です。
(あや子さんや三世も知恵を絞って考えてください)

ちなみに、例えば「現代ビジネス」の記事ならば、僕の記事でも100万人単位の人がチェックしてくれます。けれど、「ブログ」に全く同じ記事を書いたところで、見ている人は100人もいないでしょう。中身読んでる人は、下手すりゃゼロかも知れません。

まあ実際は「現代ビジネス」の記事であっても、ちゃんと読んでる人は数千人とか数万人の単位でしょうから、受け取るコメント数でいえば、100前後から多くて1000ですね。でも、自分のブログだと、ゼロなわけで(もう何十年もの間ほぼゼロです)、多い少ない以前の問題なわけです。

そりゃ、メジャーメディアからの発信と個人の発信では雲泥の差があることは当然でしょうが、個人のブログにだって、結構コメントが来ているのもあります。まあ、僻みになってしまいますが(笑)、概ね内容の詰まらなさと、大衆受けとは比例しているようですね。

そのコメントについて、ここではメジャーなメディアの場合について考えてみましょう。別に僕の記事に関してということではなく、一般的に見て、ということで。

賛同にしろ反対にしろ、圧倒的に多いのは、「同じ意見」なわけです。100人からの反応があれば、1人ぐらい「異論」が混じっていても良さそうなのですが、大抵の場合、全てのコメントが「正論」で埋め尽くされます。

ごくごく稀に「異論」が混じっていれば、「正義に歯向かう悪」と見做され総攻撃を受けます。

理想は、異なる意見が半々、だと思いますが、そういった例は、滅多にないですね。

せめて「正論」が8とか9で、「異論」が1とか2、、、、その辺りが、一番健全、というか、安心するのですけれど、それもなかなかない。「共感を得る」か「反発を買う」か、どっちかしかないわけです。

結局のところ、共感を得るのは100人に一人ぐらいでしょうから、まずは100の人に伝達することから始めなくてはならない。

それには、100人中99人が反発することを書けば良いわけで、、、でも、よほどのインパクトがなくては、引っかかっては来ないでしょうね。

「私は明日何時何分000(場所とか有名人とか)をXXします」と書けば、(望み通り)網にかかるのでしょうか?
「私は明日何時何分000(場所とか方法とか)でZZします」と書けば、ちょっと待った、と(救いの手で)さし止められるのでしょうか?
実際に試してはみても(僕は試しません!笑)、結局はスルーされてしまうのではないかという気がします。

それはともかく、有効な「釣り」の方法を考える(水のないところで糸を垂れている可能性があるので「釣り」以前の問題という懸念はありますが)。幾つか例に挙げときます。

●韓国素晴らしい!日本はクズ。
●中国共産党万歳!!
●秋篠宮(「眞子さん圭くん」でもいい)は立派な人、世間の批判にめげず頑張ってください。
●上を(英国元メーガン妃)に置き換えてもよい。
●上を「二階さん」に置き換えても良い。

●みんなでマスクを外しましょう。←昨日のブログはこれにしました。

上記各例、僕が(必ずしも)そう思ってるわけじゃないですよ。

●コロナから身を守る方法(「秘訣」でもよい)を教えます
↑案外これかな?




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ワクチン

2021-01-09 21:21:10 | 香港デモ、新型ウイルス、日記

 
WHOのテドロスさんが、「高所得国家がワクチンを独占しないように」
という声明を出しましたね。
 
それに対してのヤフコメたちの意見。
「俺たちが金出して作ったんだから、俺たちが先に使うのは当然だろ?」
民主主義国家市民の本音でしょうね。
どうぞ真っ先に思う存分使ってくださいな。(長い目で見れば)たぶん役に立ちませんから。
 




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みんなでマスクを外しましょう!

2021-01-09 21:20:07 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


以前から毎年、ウイルス性肺炎の脅威に悩まされ続けている我が身としては、突如湧き出したマスク(必須)集団社会(もともと日本人のマスク好きには呆れていたのだけれども)は恐怖です。
 
マスクしてない人みると、なんだかホッとしますね。
 
飲食店(スタバを含む)内は別です。半分ほどの人がしてません。だから別にホッとはしません(むしろ苛立つ)。
 
どうせなら、飲食もマスクしたままして欲しいですね。アレするときもマスクしたまま(というか、アレ自体しちゃいかんでしょう)。




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問:コロナはいつ終結するのでしょうか? 答:永久に終結しません。

2021-01-08 16:23:31 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



とにかくブログ読んでくれる人がいないと書く意味がありません。「釣りタイトル」をいろいろ考えて、これにしました。

相変わらず大衆は、壊れた蓄音機(例えが古い!笑)のように、全員がおんなじ「正義」の意見。

ネットニュース(なかんづく記事に対するヤフコメ)など精神に悪いので見ちゃいけないのだけれど、怖いもの見たさ(笑)でついつい覗いちゃいます。

「皆おんなじ方向性」「事なかれ主義」「取得権の保持」「責任逃れ」「異質の排除」「合法的一律洗脳」そして何百回でも繰り返し言うけれど「無意識強要同調空気」。

頭のいいアホたち(人類、ことに日本人の大半)には、自分たちがどれだけアホなのか、永遠にわからんのでしょうね。

あるコラムへのコメント、もちろん皆一斉に同じ意見(正義の意見)の大合唱。

↓これなども、もちろん、「正義」(のヤフコメ民)が「悪」を揶揄してるわけですが。程度が低すぎます。

日本医師会中川会長の連日の記者会見を要約すれば…
①『我々はコロナに関しては全くの無能力者です』
②『厄介ごとを我々に押し付けないでください』
③『根拠はありませんが感染拡大は飲食店と国民のせいです』

でも、笑ってしまった。これ(会長の言ってること)、当たってると思います。

そもそも、あらゆる「表現」は、微妙な伝達様式の差(語彙の選択)で様々な解釈が為されるものと思います(例えば、別の言語に直訳すれば上記①~③からもネガティブさが消えるかも知れない)。ということで、「別の日本語」に訳してみました。

⓵『皆さんの言う「(いわゆる)コロナ」というものが何であるのか、我々は実態を知らない』
⓶『医学だけで解決できる問題ではない』
⓷『マスコミや大衆が導く「空気」のバイアスによって、いわゆる「感染拡大」が成されている』

そういうことだと思いますよ。





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コロナウイルス(with熱中症/香港デモ)について考える (3)

2021-01-05 21:28:05 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


 
繰り返します(老人は同じ事を何度も言う)。
 
マスクは、「自己保身」「取得権の保守」「異質排除」「付和雷同」「無意識強要同調空気」の象徴で、かつ「民主主義」の象徴でもあります。諸悪の根源、かもしれません。そしてワクチンが人類を滅ぼす、と予言しておきましょう(笑)。
 
日本に於ける死者数は、一日平均3000~4000人、月10万人~15万人(←寒い季節)。もちろん老人主体で、たぶん肺炎(気管系疾患を含む)は死因最上位のひとつでしょう(おそらくは僕もそれでおさらばする可能性大です)。
 
そして肺炎の多くは、何らかのウイルスが関与しています(そのあたりの実態や解釈の仕方が現在の混乱の要因の一つのように思えます)。昔も今もこれからも。
 
「コロナ問題」の発端が、中国武漢というのは、象徴的です。
 
武漢は、人口数千万の大都市です。「新型コロナ」が無くったって、毎年冬には何万人もの人が亡くなっています(その多くは「旧型コロナ」に関わるウイルス性肺炎でしょう)。毎年春節前の病院は、しっちゃかめっちゃかです(死体がそこらに転がっていたりする)。中国人は、ただでさえパニックになりやすいことですし、一年前の騒動による混乱の度合いは、想像して余りあります。
 
2019年夏の香港デモ。香港の若者は正義、民主主義は正義、マスクは正義の象徴。香港の町中がマスクに覆われました。そこから半年後、憎っくき中国で、「コロナ」発生。そして、再びマスクが主役。
 
よく出来ています。




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