1月24日の記事、「ひたすら自己保身の人々、趣味で“人助け”する人々、、、デリカシーに溢れた、美しい日本の「正義」の民」と、1月25日の「コロナとマスクと三四郎」に、いいね!と応援を押していただきました。ありがとうございました。
※前回ひとつ訂正*。
誤:「枠に捉われちゃいけない、君の頭の中より東京は広い、東京より日本は広い、日本より、、、」
正:「枠に囚われちゃだめだ、熊本より東京は広い、東京より日本は広い、日本より、、、、頭の中は広い」
全く正反対でしたね、、、。むろん、こっちの方が、はるかに奥深い言葉です。
*僕のブログ、いつも思い付きのまま書き流してるので、このような(無責任な)思い違いはしょっちゅうあります。気が付いた時は訂正しますが、読み直さないことも多いので、読者のかたが気が付いた場合は、ご指摘いただければ幸いです。ちなみに表題ですが、たまたま三四郎のフレーズが出てきたので、コロナとマスクにくっつけただけ(なんとなく語呂が良い)で、深い意味はありません。
**僕が「いいね!ひとつも来ないよ~(;´д`)」と愚痴を言ったら、あや子さんが「ブログ村」に登録して下さりました。何かのジャンルに所属しなくてはいけないそうです。それで「自然科学」のジャンルを選んでくださったのですが、別に大した根拠はありません。他に選びようがないし、まあ、昆虫や野生植物を対象に50年以上取り組み続けてきているわけですから、それでいいだろうと。
僕の考える「頭」の存在意義は、
「賢い」よりも「広い」
「体系に沿う能力」よりも「俯瞰的に見つめる能力」
「体系」に沿って考え(や研究)を進めていくことは大事なことだと思います。しかし、いくら立派な(人類の役に立つ)成果が成し得ても、その大基に俯瞰的な視点が欠けていれば、無に等しいのではないでしょうか。仮に「永遠の命」が成し得た(可能性は充分あるでしょうね)としても、じゃあ、それでどうするの?ということです。
「民主主義」の「自由」は、人々が皆「自分が望む享楽」を手にすることが可能な自由ですね。自由という言葉は、「自分(自分たち)の自由」と「他の排除」が、セットになって成り立っている。
「自分(たち)の自由」とは、言葉を置き換えれば「“みんなが自分勝手/自己中心になった状態”を保ち続け、自分もその中に身をおくこと」によって成り立つわけです。力を持ったもの、概ね、皆と足並みを揃えたものが勝ちあがり、足並みを揃えぬものを排除していくことによって、「取得権保守」の集団が、正義の存在(自己中集団を自己中と批判する人が自己中と見做される社会構造)として確立される。
しかしそれは、「枠」の中にあってだけ無し得る「囚われた自由」「偽りの自由」です。
「悪」(例えばマスクをしない人)への鉄槌は、上から為されるのではなく、大衆によってです。自由の民によって、別の自由が抹殺される。
無意識同調強要空気の中で「囚われた自由」に従っている限りは、「マナーが良く」「時間を守り」「圧倒的に清潔で」「親切で優しく賢い」、そして「隠すことが上手で」「自己保身に徹する」、「美しい日本人」の一人たる権利が与えられるわけですね。そして日本は(気が付かないうちに、かつ急速に)破滅に向かう。
なんにもできるけれど、なんにもできない。それが「自由な」「民主主義国家」の正体です。
「共産党一党独裁」の中国では、むろん人々の自由は束縛されます。そりゃもう醜いものです。大衆の要求も、外野(国外の)忠告も、完全無視して、(権力者たちは)思い通りの政策を推し進めます。人権蹂躙はなはだしい。
でも、考え方によれば、トップ(権力)からの拘束や圧制は、単純に従ってれば良いだけです。「大衆の空気」への気配り・同調などは、考えずに済みます。
「マナーに欠け」「時間を守らず」「圧倒的に不衛生で」「うるさく乱暴で」「デリカシーはゼロ」「驚くほど間抜け」
そして、なんにもできないけれど、なんでもできる。それが中国。
あるコラムに「共産主義社会の国ほどコロナ感染者が少なく、人々は(例えば普段はマスクなしで)自由に暮らしている」という指摘がありました。良い悪いではなく、事実(のひとつ)です。
「そりゃ隠蔽に決まってる」
(そうかも知れないとしても)それを言ってはなりません。
日本の政府は、大衆の御用聞きです。大衆の「総意」(を最大公約数化したもの)に沿って政治を司る。自分たち(大衆)の要求が、権力とやらのお墨付きを得て自分たちに戻ってきているわけで、それでも不満なネトウヨたちは、日本が共産社会化すれば気が済むのかな?と思ったりします。
「コロナ」ですが。パンドラの箱を開けて、収拾がつかなくなった。どうすれば良いか。箱の蓋を閉めて、無かったことにする。というのも、一つの手ではないでしょうか。たぶん、それしか方法はないと思います。そして、(今後も紆余曲折の末)たぶんそうなるのでしょう。
そして、またそれを繰り返す。その都度、「正義」ではない側の人々が、謂われなき迫害を受け消えてゆき、人類は総ロボット化に向かって邁進する。
僕は「開けっぱなし」でも良いのではないかと思うのですが、、、。
話を変えます。
僕は、なんでこんなに嫌われているのでしょうね(笑)。嫌われ出したのは、いつ頃からだったのだろうか?
今思うと、中学の頃には、相当に酷い(集団的)イジメに会っていました。でも本人はイジメられているとは感じていなかったのだと思います。
成人になってからは、一体何十回何百回と「お前を抹殺してやる」「この社会で生きて行けないようにしている」と言われたことか(具体的な例の一つを、次の次の回の「リンドウの話」で紹介予定しています)。
まあ、物質的な命は繋いでいるわけで。でも社会的には確かに抹殺されていますね。
あと注記。2度続けて同じ話を書きますが、、、。僕の「健康」に対する取り組みは、「健康マニア」の人々や「食生活リスク徹底排除」の人達とは対極にある、それらの人々からすれば地獄と言ってよいだろう劣悪な環境・状況下で成されてきたわけです。
なのに、血液検査で43項目チェックして、CTや脳波や心電図をとって、(骨が曲がっていること、肺の一部と頭の一部に穴が開いてることを除けば)何一つ異常がない。奇跡の73歳だそうです。
なのに、毎日(特に午後)筆舌に表せぬ苦しさが続きます。どのような苦しさなのか表現は難しいのですが、敢えて具体的に言えば、頭が痛い、胸が痛い、お腹が痛い、ということなのかな?それも半端なく。一体何でそうなるんでしょうか?
F先生の意見は一貫しています。
「ストレス」
でも、その意見は甘受しがたい。
「ストレス」には自信があります。世界一強いんではないかと。そんなのに負けてたら、とっくに首吊ってます。でも、考え方によれば、「ストレスに負けていない」からこそ、目に見えぬ(気が付かぬ)ところでの多大な「ストレス」を抱え込んでしまっているのかも知れませんね。
「好きな事やってていいなぁ~」
という言葉を、度々聞きます。一番言われたくない(落ち込んでしまう)言葉ですね。
とにもかくにも、「お金を稼ごう」と必死なんですから。人殺し以外は何でもやります。でも、仕事くれませんね。ハローワークじゃ、ほぼ門前払いです。一年前の冬になんとかありついたマクドの深夜清掃では、背骨をひん曲げてしまったし。
それで、(結局は本業の)写真や文章を売ろうと、あるいは、ブログを書くことで何らかの糸口を見つけようと、必死でもがいているわけです。
それが、「社会の流れの中にいる人」たちから見れば、「自由気ままに生きていて羨ましい」と映るんでしょうね。社会の(空気の)中の住人も、上とか下とか(むろん横とかも)特定の人や組織に気を使って、むろん相応のストレスが溜まることは分かります。でも僕のように、社会から排除されてしまっている(その理由が分からない、ということが最大の問題点です)にもかかわらず、「社会の中で生きなければいけない」という立場にある(すなわち「特定の人や組織」に対してだけではなく、全ての人や組織に気を巡らさねばならない)ことが、どんだけ大変なことなのか。
それを想えば、中国においては、上とか下とか横とかからの理不尽極まりない拘束はあっても、むしろそれがある分、大衆とか社会とかの空気などを気にせずに、ある程度やりたいことが出来る。
ちなみに、好きなことが出来るんだったら(お金があったら、ということですね)、こんなブログとか書いてません。ちまちま日本と香港・中国往復なんかしてません。
部屋に籠って蝶々のオ0000をひたすら覗いているなり、あるいはフィールドに出るとしたら、各地各種のセミの鳴き声の録音に励んでいます(新しい顕微鏡を買うか、録音機材=携帯電話でもよい=を買うかが必須条件)。
究極の夢は、インドネシア(セレベスかモルッカ=ハルマヘラ、セラムなど)で、現地の可愛い女の子と結婚して、蝶の観察・調査を続けたい。今からでは遅いですが、永遠の夢です。