“無意識強要同調空気”への恐怖
今日で『「コロナ問題」問題』発生、ちょうど一年になる。
僕は、問題発生以来、基本的にはずっと同じことを書き続けている。事態は、概ね僕の言っている通りに進んでいるようである。誰も素直に認めようとはしないが、、、。
当初から僕の意見は同じである。一言で言えば、「俯瞰的な見方をすべし」「空気に取り込まれないように」ということ。現在の社会の中で確立されている「体系」に沿って対策を進めるだけでは、解決には至らない。マスクもワクチンも解決策ではない。それどころか、長い目で見れば、人類の滅亡に繋がる、と本気で思っている。
短絡的な答え(世論・空気の流れ)に基づいてマスク社会が構築されている状況を、ただやみくもに肯じるのではなく、背景を俯瞰的に見つめ直さねばならない(それは、個人にとっても、人類全体にとっても、少々苦しいことではあるかも知れないが)。
個人が(あるいは世間が)纏っている感情的な部分を削ぎ落とし、純粋に客観的な次元に立ってのみ見たならば、いわゆる「コロナ」は、地球上に存在する無数の要素(“良きもの”も“悪しきもの”も、その全てが人類に対しての“脅威”と成り得る)の一つが、姿を現した(見つけた)のに過ぎない。敵として、それから逃げる、それを壊滅する、、、そのことを続けている限り、この問題は永遠に解決しない。
と、ずっと同じ意見を、バカの一つ覚えのように一年間言い続けてきたわけで、その結果、メジャーなメディアからは、 “バカじゃないかこいつ?”みたいな感じで見放されてしまうに至っている。
例えば、「現代ビジネス」は、2017年から20数回続けたあと、「沖縄」関係のシリーズを始めようとしたところで、突如打ち切りにされてしまった。その後は(2019年6月から2020年6月にかけての一年間に)断片的に、次の5記事を掲載した。そして最後の掲載の翌日から、全く連絡も取れなくなってしまった。
* 「とりあえずマスク」ですっかり安心している日本人への違和感/ただの「同調圧力の象徴」になっていないか(2020.6.8掲載)
*そもそもなぜ中国・武漢は「新型コロナの発生地」になったのか?/自然から人類への警告の可能性(2020.3.22掲載)
*香港デモで「正義の香港市民」に暴行されかけて抱いた悲しみと違和感/「正義」とは何なのか?(2019.8.4掲載)
*私が目撃した「天安門事件」あの日、中国の若者に訊ねられたこと/「中国は、日本みたいになれるかな。。。」(2019.6.9掲載)
「一年間」と言ったが、(僕の取り組みの)流れは、その半年前の「香港デモ」から続いている。そこで僕は、(香港デモ参加者・群衆の)マスク(に対する日本の大衆の反応)への批判を行なった。それは(今僕が言っているところの)「コロナ」マスクへの批判と無関係ではなく、本質的・大局的な部分で、強く繋がっている。ある意味では、「香港デモ」と『「コロナ問題」問題』は、直結しているのではないか、とも思っている。そのことについては、追々詳しく述べていく予定である。
僕は、「コロナ」への対応に際して、マスクの常時着用を否定する立場をとっている。ただし、否定の根拠は、他の否定派の人とは異なる考えに基づく。「経済優先」か「命優先」か、そんなことは些末的な問題なのである。
「人の命」と「経済」どちらに重きを置くかとすれば、単純に考えれば前者なのであろう(特定の範囲の人々ではなく、全ての人の命)。
と同時に、もとより、命が最優先(生きてさえいれば何でも出来る)とも思ってはいない。もっと大事なものがあるはずだ(それに関しての具体的な意見についてはこれまでにも度々述べてきたのでここでは割愛する)。
「経済優先」で言えば、むしろ経済に軸を置く社会構成など、この際一度破綻してしまった方が良い、と心中では願っている(経済が回復したところで「コロナに翻弄される弱者」よりも更に「最下層の貧民たち」へ直結などはしない)。
そしてマスクの着用は、極論すれば(他の世の中に存在する様々な事例の相互要因の関係性と同列に扱えば)、経済の回復とも命の保証とも無関係である。
マスク社会のもつ“恐ろしさ”は、もっと別のところにある。そのことを、出来得る限り理論的に考察し、より多くの人々に伝えるべく、一年がかりで発信していくつもりでいる。
誤解のないように、いくつかの事柄を箇条書きで示しておく。僕の想いは、以下に記す前提の上に成り立っている、ということを御理解いただきたい。
まず表題。「コロナ問題問題」と「問題」を重複したのは、むろん記入ミスではない。コロナが問題なのではなく、「コロナ問題」が「問題」なのだ、ということである。
「コロナ」の語を安易に使用することは、この「問題」を間違った方向に導くだけである。本来ならば、もっと正確な言葉で表記せねばならない【「青山潤三の世界・あや子版」遺書 4(2020-07-31 08:32:06 | 香港デモ、新型ウイルス、日記)】。ただしここでは便宜上(いわゆる)「コロナ」として表記していく。
「コロナの脅威」は僕も十二分に認識している。そのうえで(別の角度から見れば)「ただの風邪である」ということも事実だと考えている(“風邪”は、非常に恐ろしい病気だ)。
ほぼ一貫して、日本の立場を批判している(政府に対しても大衆に対しても)。それは、僕が誰よりも愛国者であるゆえにである。また、概ね中国の味方をしているが、中国がとんでもない酷い国であることは、誰よりも良く知っている。むろん中国共産主義は容認していない。
科学(あるいは文明)を批判・否定している。それは、科学「的」な方法論や方向性への過信に対してである。科学そのものには希望を持っている。
上記したようにマスクを拒否しているが、僕自身は、臨機応変にその場その場でマスクを着用している(そうすることが正しいとは必ずしも思っていないけれど)。
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僕が言わなくたって、多くの人々は、うっすらと気付いているはずだ。どこかおかしいんじゃないかと。我々は、(人類の歴史の長い間)「何かに」洗脳されてしまっているのではないか、と。
目を覚まして貰いたい。「コロナ問題」の意味するところは、単に「コロナ」の問題ではない、ということに気付いて欲しい。
以下、一年前にスタートした「コロナ問題」の動きを、改めてなぞっていくことにする。一年という時間をおいて再検証していくことにより、我々が今何をしている、どこに向かおうとしているかを、より「客観的」に俯瞰することが可能になってくるのではないかと考えている。
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2020年1月16日。僕は中国広州郊外のボロアパート*にいた。
*ボロアパート=想像を絶する貧民窟に存在(賃貸し月5000円、部屋の中は埃と悪臭にまみれ、水道の蛇口からは黄色い水がでる)。ちなみに周辺は(いろんな意味で)想像を絶する超高級住宅街(超豪華な住宅が次々と建てられ、その何割かは人の住まぬまま朽ち果てていく、僕の知人は一億円余で購入)。
同じころ、別の知人のK氏から、ユーチュバーになることを勧められ、さっそくその翌日から、モニカ*の携帯電話を使って、少なくても一年間、毎日発信していく決意をした。しかし、全く同時に「コロナ騒動」が発生し、第一回目だけの発信に終わって、今に至っているわけである(日本では僕は携帯電話を持てない)。
*モニカ=中国人のアシスタント。大学卒業後、10年間にわたって渾身的に僕を手伝ってくれている(給料は払っていない)。5年前、中国人男性と見合い結婚し、一女がいる(今年2人目が誕生予定)。
何度か書いてきたことだが、最初に「湖北省武漢発生の新型コロナによる人-人感染が証明された」というニュースが報道されたとき(2020年1月16日、第一回目のユーチュブ発信の前日)、その記事と並んで、同じ湖北省の長江に棲む「世界最大の淡水魚の絶滅を認定」という記事が載っていた。僕から見れば、後者のほうが遥かに重大なニュースと思えたのである。
むろん、(僕の想いとは逆に)、一方は忘却、一方は「人類未曾有の大騒動」へと、正反対の方向に進んでいくわけだが、僕にはそのことが、この問題(いわゆる「コロナ」)の本質の全てを象徴しているように思えてならないのである。
僕自身のことを少し述べておく。本職は「ネーチャー・フォトグラファー」である。と共に、僕の守備範囲(研究対象)である幾つかの生物群(主に蝶と蝉、植物では野生アジサイなど)を調べている。系統分類(学)、生物地理(学)という分野に関わりがある。
「研究」とか「学問」とかいう言葉は嫌いなので、使わない。「教育」とか「知識」とか「答え」とか言った言葉も嫌い。むろん「名誉」にも全く興味はない。「学問」としてではなく、ひたすら「実態を知る」ために取り組んでいる。本気である。素人ではあるが、趣味では断じてない。
何度も言ってきたように、僕の姿勢は、普遍性の追求であり、「マニアック」な人達とは対極に位置する、と考えている。生き物コレクターは(野草の栽培とかも含めて)大嫌い。もとより、ペットや園芸植物などに対しては、全く興味も知識もない。
「趣味」といえば、1960年代初頭を中心とした「アメリカン・ポップス」、および主に明治20年代の「明治文学」。これは紛い無き趣味である。こちらのほうは、マニアックといわれると嬉しい(本当にマニアックな人達は凄いので、同列に語ると失礼だが)。
ただし、興味の根源は同じところにある。
「事実は一つではない」「正解はない(それを求める努力は否定しないとしても)」
それを「一つに」決めつけようとする「空気」に対する危惧。結果云々ではなく、そこに向かう(無意識に、しばしば一気に為される)「空気」を、やみくもに肯定することに対する、全否定。
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野生生物調査に於ける僕のフィールドは、中国大陸。むろん、湖北省も含まれる。本来の目的は、日本の生物相の成り立ちを知ることである。日本を愛する日本人の一人として、より深く日本を知るために、その「マザーランド」ともいえる中国の生物相を調べているのである。
それから沖縄(「琉球」あるいは「南西諸島」というべきか)。
去年の今日、「中国湖北省武漢発祥とされる新型コロナウイルスの人-人感染」が初めてメディアで報道された。その半年前に、僕は「香港デモに於ける“マスク”の位置づけ」に関する記事を、メジャー・メディア(「現代ビジネス」)に発表した(敢えて「メジャー・メディア」と記したのは、自分のブログには、常時そのことを書き続けているので、我彼を区別するためである)。
その「香港デモに於けるマスクの位置づけ」の流れで、「コロナウイルスに於けるマスクの位置づけ」も書いているのである。誰もそんなことを結びつけはしまい。偶然だとしか考えないであろう。僕は一貫して、同じ流れの中で見つめている。
上記したように、2017年夏から、毎月一~二回続けていた「現代ビジネス」への掲載コラムは、一昨年(2019年)の正月になって、突然打ち切りになってしまった。その数回前のコラムに、「沖縄(琉球/西南諸島)はどこにある?」というテーマで10数回の記事を書く、と読者に伝え、掲載を始めたばかりなのに、、、。
しかし、6月には「天安門事件30周年」の記事を書かせてくれ、その直後に勃発した「香港デモ」についての写真取材を、編集部の名の許に発表、8月になって、やっと自分の記事(「香港デモに於けるマスクの意味」)が掲載された。反響は結構あった。殊に香港&中国のメディアでは大きく取り上げられ、複数の翻訳が成され、香港の出版社での単行本化(欧米の作者たちとの共著)もなされた。しかし、日本のメディア(殊に肝心の「現代ビジネス」自体)からは全く見向きもされず、以降の執筆は許されなかった。
そして昨年1月に、「コロナウイルス問題」が発生。僕はリアルタイムで中国に滞在していた。現場の情報を伝えたかった。しかしなかなか書かせてくれない。3月になって、やっと「ある視点からの記事(武漢発祥の背景にあるもの)」が採用された。6月には、「コロナに於けるマスクの違和感」が掲載された。それ以降、編集部とは連絡がつかなくなり、出入り禁止状態になっている。
僕の文章が下手くそで、思考能力に欠け過ぎる、要するに余りに幼稚である、ということは、自分でもよく分かっている。しかし、その僕の考え方や、文章表現を喜んでくれる読者も、少なからずいるのである。
でも、メディア(現代ビジネス)の側からすれば、そのような読者の存在は、何の意味もない。つまり、僕の記事は「“現代ビジネスとしてのクオリティ”に達していない」ということである。所詮、巨大マスメディアに、僕ごときが逆らうことは不可能なのである(本人としては、別に逆らっているつもりはなく、結構顔色を窺いつつ、かつ自分の考えを素直に表して行こうとしていただけなのだが)。
というわけで、(「香港デモ」から継続する問題としての)「コロナウイルス問題」の一年間を振り返りつつ、今に至る道筋を、改めて辿っていこうと思う。
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時間が来た(Wi-Fi発信できるスタバなどの施設の利用時間が3時間短縮)ので、以下は端折って(概ね箇条書きに)記す。
「香港デモ」も「コロナウイルス問題」も、突き詰めれば、「民主主義の正義」と「共産主義の悪」という構図の上に成り立っている。僕は、必ずしもその理念を否定はしない。しかし、実相は受け入れがたい。「正義のためになら何をしても良い」と言わんばかりに、あらゆる手段を使って「民主主義の正義」を世界に発信する。
香港デモに引き続いて、「武漢発祥」の「新型コロナウイルス」が世界を駆け巡ったのは、ある意味偶然ではないのかも知れない。穿った見方を承知で言えば、「香港デモ」勃発半年後、(中国共産党の支配下にあるとされる)香港警察への攻撃が手詰まりとなり、敢えて“武漢”の「箱」を開けた。
本来は、世界に向けての中国攻撃のみが目的だったのが、「パンドラの箱」を開けてしまったために、収拾がつかなくなってしまった。いや、もしかすると、“筋書き通りに”かも知れないけれど、中国はしぶといと思う。そう簡単に思惑通りには事は運ばない。案外、利は中国の側にある気もしないではない。
これは皮肉で言うのだが、日本の大衆は、共産主義下の体制を(全く無意識的に)望んでいるのではないかと、ふと思ったりする。すなわち、「大衆が望むコロナへの対応」を、「力」に代弁して貰いたい、無意識のうちにそう望んでいる。
怖いのはコロナじゃなく、人間の意識だと思う。それは正義(空気と同義語)であり、異質の排除である。
「無意識強要同調空気」「合法的な洗脳」
「事なかれ主義」「自己保身」「取得権保持のための異質の排除」
それが(日本発で)世界に広がり、世界中が「日和見」の中に置かれている、、、、。