場末の雑文置き場

好きなことを、好きなときに、好き勝手に書いている自己満ブログ。

「仮面ライダーゴースト」第22話感想

2016年03月14日 | 特撮

たった30分足らずの間にいろいろ詰め込みすぎ! でも面白かった。

兄貴の反逆はかなり唐突に感じたけど、まあいいか。親父はあまりにもあっさりやられ過ぎなので、本当は生きてそう。
親父の名前、アドニスだっけ? おっさんにそのネーミングはやめて。ギリシア神話で美の女神に愛された美少年の名前なんだぞ。

物語も大きく動いて、ものすごい盛りだくさんの回だったのに、タンクトップ集団のインパクトに全て持っていかれた。
まあこれは多分、たとえ上半身だけでも、子供の見る番組で裸を出すのは良くないってことで着せたんだろう。モザイク的な何かなんじゃないだろうか。
そういう前提でタンクトップを脳内消去して見てしまうと、冒頭のアラン様がマコト兄ちゃんの体を見つめるシーンの怪しさが倍増するな。
……やっぱりタンクトップ着用で正解だったな。ダサいけど。

騎士眼魔は潔くてかっこよかった。眼魔世界から戻ってきたばっかりでかなり疲れていそうなタケルにすぐに闘いを挑むなよ、少し待ってやれよとは思ったが。
仲魔になってほしかったので死んでしまったのは少し残念だ。でも、これはこれでいい結末だったと思う。敵が悪とは限らない、いい奴でも分かり合えないことはある、っていうことを表現したかったんだと思うので。

マコト兄ちゃんは体を取り戻すという当初の目的を果たせないまま退散、代わりに「体なんか意味はない」と言っていたアラン様が肉体を得るという皮肉な結果に。
アラン様はかなり衰弱して見えたけど、百年以上使っていなかったと思しき体を急にまた使うとなれば、そりゃそうなるか。
人外かと思ってたけど、普通に体を持っているってことは、もともと人間なのかな?

最後に、グンダリ無駄遣いおじさんことジャベルも復活。やっぱりそうなるよね。あのまま終わるわけないとは思ってた。
Twitterのトレンドにも入ってたね。愛されてるな。そして胸毛すごいな。


「ヒロイン」なるカタカナ語の崩壊

2016年03月13日 | ジェンダー・家族等

「ヒロイン」というカタカナ語の使われ方が、元となったheroineという英単語からは大分乖離してきている、という話を以前ここで書いた。
この傾向は全く止まる気配はないどころか、最近ますます加速してきている。

例えば、男性キャラクターが「ヒロイン」と呼ばれていたりするのをよく見るようになった。
「ヒロイン」と呼ばれる男性の特徴は、すぐ敵に捕まるとか、健気とか、可愛いとか、そんな感じかな。こういうのを見るたびに、ものすごく違和感をおぼえてモヤモヤする。
男に健気、可愛いイメージを持つのが気持ち悪い、って言いたいわけでは全くない。そういうことじゃないんだ。

「可愛い」っていうのは女性に大して使われることが多いだけで、もともと女性を意味する言葉ではない。でも「ヒロイン」には明確に「女性」っていう意味が含まれている。
男性をヒロイン呼ばわりするのは一見ジェンダーフラットであるように見えるけど、実際は全く逆だと思う。「ここではたまたまこの役割を男性が引き受けているけど、これは本来なら女性の役割だ」っていうことをものすごく意識させられる感じがして、だから嫌なんだ。

一般的にこうあるべきとされる男性像からちょっと外れた男性を「ヒロイン」と呼ぶ一方、強い、たくましい女性に対してはヒロインという呼称が使わなかったりする。強い女性キャラクターが「ヒロインじゃなくてヒーローだ」って言われたりね。強かろうがたくましかろうが、性別が女性でなおかつ主人公であれば本来の意味から言えばヒロインなのに。
こういうことの積み重ねで、「ヒロイン」という言葉に弱い、健気であるなどの固定的なイメージがだんだんと強化されていっている。

もともとは、「ヒロイン」と言う単語の意味は「女主人公」で「ヒーロー」の女性形だ。大事なことなのでもう一度書くけど「主人公」だ。「主人公の恋人」なんて意味はもともとないし、添え物的な意味もなかった。

日本人で「ヒロイン」と聞いてパッと主人公を思い浮かべる人はどれぐらいいるだろう。もしかしたら半分もいないかもしれない。
オタクの世界に染まっている人ならなおさら、ヒロイン=主人公なんて思わないんじゃないかな。ヒロイン=主人公の恋人なんだと本気で勘違いしている人は少なくなさそう。主体的な女性キャラクターに対して「○○はヒロインじゃなくてもはや主人公だ」みたいな奇妙な言い方をする人もたまに見るし。主人公とヒロインが両立しないものだと心底思っていないと、こういう表現は出てこないと思うんだ。

もちろん今の日本でだって「主人公」の意味でヒロインって言葉が使われることはよくある。でも決して主役ではない、添え物・客体的な存在である女性キャラクターが「ヒロイン」と呼ばれるケースはもしかしたらそれ以上に多いかもしれない。

それと地続きな感じで、物語の中での重要性を問わず、自分にとって女性的魅力のあるキャラクターを「ヒロイン」と呼びたがる人たちがいる。
ある主要女性キャラクターが自分にとって性的魅力に乏しく、脇役でより好みの女性キャラクターがいた場合「この作品のヒロインは○○じゃなくて○○だ」と言ったり。「ヒロイン」であるかどうかと性的魅力の有無なんて、もともとは全く関係ないのに。

もともとの「ヒロイン」は添え物じゃないし、男のために存在する生き物でもない。どちらかというと優秀なイメージを持つ言葉だった。英雄って意味だってあった。それが今の日本では弱々しい、客体的なイメージを持つ言葉に変わってきてしまった。
言葉の意味は変わっていくものだけど、それにしてもおかしな方向に行きすぎじゃないかと思う。


→「ヒロイン」ってなんだ?


山本周五郎人情時代劇 第十一話「おもかげ抄」感想

2016年03月11日 | BSジャパン時代劇

いい話なんだけど、あんまり好みではなかったかもしれない。

なにが引っかかったんだろう。孫次郎と小房の年の差かなあ。一回りくらいはありそうだったよな。若くて綺麗なお嬢さんが、こんな年上のおっさんにあっさり惚れるってのがちょっとなあ。当時は今よりも年の差婚多かったんだろうし、こういうのも普通だったのかもしれないけど。

今回はすごく「普通の時代劇」っぽかった。「腕の立つ武士」という主人公の設定といい、危ないところを救ってくれた男に女が惚れる展開といい、幽霊妻の話を抜きにするとザ・王道って感じ。クオリティは高くなかったけど、チャンバラもしっかりあったし。
「チャンバラがなく、特に優秀なわけでもない普通の人が主人公の話」ってところがこのシリーズの魅力だと感じていた私としては、そこもイマイチに感じた一因なのかもしれない。

男が女をピンチから救い出して、女がその男に惚れるっていうの、フィクションでは非常によく見かけるパターンだけど、実際はどうなんだろう。
助けてくれたら感謝はするだろうけど、それと恋愛感情とはまた別の話だよな。よっぽど容姿が優れているとかでない限り、そこですぐ惚れるなんてことはないんじゃないかな。どういう人かもまだよくわからない状態なんだし。

というわけで、孫次郎と小房の恋愛の話は、私はあまり好きになれなかった。だけど、孫次郎の死んだ妻の亡霊が出てくるところは意外性があって良かった。いままでのこのシリーズの傾向からいって、まさか幽霊話をやるとは思わなかったから。
この亡霊の姿が、痩せていて表情に生気がなくて本当に死人みたいで良かった。小房は綺麗だけど、私はこっちの人のほうが好みだ。年齢的にも孫次郎と釣り合ってる感じだし。孫次郎に前向きに生きてもらうためにはそれが必要っていうのはもちろん分かるんだけど、この人が最終的にいなくなってしまうのはやっぱりちょっと残念。


木曜時代劇、終了……

2016年03月05日 | 映画・ドラマ

「ちかえもん」が終わってしまった。あのふざけたノリが大好きだったから寂しい。

結局、どこまでが現実で、どこまでがちかえもんの妄想だったんだろう。
素直に解釈すれば、万吉は人形の精だったってことになるんだろうけど、万吉の存在自体がちかえもんの妄想かもしれないよな。そうだとすると、次に実在が怪しいのが黒田屋。万吉と同じで、現実の人間にしては行動が突飛だったしな。
それどころか、ほとんど全ての出来事がちかえもんの妄想だった、という可能性すらある。そう言えば、ほぼ確実に現実の存在であろう母上と義太夫さんだけは心中事件に全く絡んでなかったな。

いろいろ考えていると、ちょっと怖くなってくる。好きなように解釈していいし、それが可能な作りにしているんだろうけど。
解釈というよりは私の希望としては、お初と徳兵衛には生きていてほしいし、万吉は人形の化身じゃなくて人間であってほしいかな。思いこみの激しいちかえもんが勝手に人形だと思っただけっていう解釈だって可能なわけだし。ちかえもんとは離ればなれになってしまったけど、どこかで生きていて不孝糖売りを続けている、と思いたい。

この「ちかえもん」の終了をもってNHKの「木曜時代劇」という枠自体も終了らしい。
いま連続物の時代劇を作っているのはBS以外ではNHKだけなんじゃなかったっけ、確か。貴重な枠がなくなってしまったんだな。

時代劇が減っているのはなぜなんだろう。費用対効果の問題かな。制作費がかかる割には視聴率がとれないから?
時代劇ってだけで敬遠する人は結構いるみたいだからな。特に若い人。年輩者向けのイメージがあるらしい。
なぜだ、なぜなんだ。面白い時代劇はたくさんあるのに。「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」みたいに悪人が出てきて正義の味方である主人公が成敗する話ばっかりでもないのに。どうしてそこまで食わず嫌いするんだ。

私は時代劇、好きなんだけどな。特別ファンっていうわけではないけど。現代劇よりも、別世界の出来事にひたっている感じがして楽しいから。今期見ているドラマも、「ちかえもん」、「真田丸」、「山本周五郎人情時代劇」と、たまたまだけど時代劇ばっかり。
そんな時代劇がこれからますます減っていくのかと思うと、なんだか寂しい。

……と思ってたら、今度土曜時代劇っていうのが始まるのか。曜日が変更するだけ、なのか? この前BSでやっていた「一路」をこの枠でまた放送するみたいだけど、過去作を流すだけの枠になるんだろうか。新作も放送されるといいんだけど。


おっさんドリーム

2016年03月03日 | ジェンダー・家族等

次の月9、福山雅治(47歳)が主役で、相手役が20歳の新人なんだとか。ただの師弟だったり親子みたいな感じじゃなく、恋愛関係になるらしい。

うわあ、気持ち悪い。親子にしか見えないだろこんなの。

……と思ったらこんな記事も出ていたようだ。同じことを思っている人も少なくないみたいで、ちょっと安心した。
もちろん私は見ないけど、記事にあるように爆死……するかどうかはわからん。女性からはそっぽを向かれても、おっさんたちは見るかもしれない。福山雅治は女性よりもむしろおっさんに人気があるっていう印象だし、おっさん受けしそうな内容だから。

女性が若すぎ、年の差がありすぎでロリコンくさい、と言われていることを受けて「おばさんたちはロリコンの意味を分かってない」って馬鹿にしている人も見た。
いや、分かった上で敢えてそう呼んでるんだよ。それから、批判しているのはおばさんだけだと思っているようだけど、それは違う。
むしろこういうのに一番脅威を感じているのは若い子たちなんじゃないかな。男性でも気持ち悪いと思う人は少なくないと思うし。

今は「おばさん」になっている人たちだって若い頃はあった。そのときにおじさんに寄ってこられた嫌な思い出がある人も多い。だからこういうのを気持ち悪く思うんだよ。若い子に嫉妬しているわけじゃなくて、過去の自分に重ねあわせてるの。
女は若かろうがそうでなかろうが自分たちに寄ってこられるのが嬉しいものだ、というはた迷惑な勘違いをしている人にはわからないんだろうけどさ。

この逆パターン、女が年上の場合だったら、叩かれようはこんなもんじゃないよな。10歳も離れていなくても、女が年上ってだけで文句を言う奴は大勢いる。
そして、そういうフィクションの中でも、女性たちは自分の年齢を気にして卑屈になったりするのがお約束。男はいくつ年上でも年齢のことを気にして悩むような描写はほとんどないのにね。 

普段目にするメディアは、男はおっさんでもOK、女は若くないとダメというメッセージであふれている。

例えばニュース番組。アナウンサーは中年男性と若い女性の組み合わせだったりすることが多い。中年の女性アナウンサーもいることはいるけど、少ない。

大河ドラマの主役は、女性は20代ばかり、男性は逆に20代が少ない。40代もいる。今やってる真田丸も、好きなんだけど40代の主人公の相手役の女性(同年代設定)が二人とも20代っていうのはなんだかな、と思う。

小説も、おっさんが若い女性と簡単に恋仲になれる、というおっさんドリームがあふれている。渡辺淳一御大はもちろんのこと、赤川次郎の書く小説もそうだと思う。村上春樹もそうだと聞いたことがあるので、売れていても読む気がしない。
テレビドラマでも、「お義父さんと呼ばせて」っていう、28歳年下の彼女と結婚しようとしてる男が主人公の話が現在放送中みたいだし。

こういうのを見慣れると、おっさんたちが勘違いしちゃうんだな。そして若い女の子たちにトラウマを与えるんだ。
年の割にかっこいいと言ったって、20歳の子から見たら福山雅治なんておっさんでしかないのにね。20歳どころか、アラサーの私から見たってそうだよ。

年の差恋愛は男性が年上の方が多いのは事実だけど、それは男性のほうが年齢を気にせずグイグイいくから。そしてお金を持っているから。
性別を逆にしたって、承認欲求をこじらせている貧乏で孤独な若者に、そこそこ綺麗でお金のある女性がアプローチをかけたら、落ちる可能性は高いと思う。

男に年齢は関係ない、歳を重ねていくほど魅力的になる、と力説するおじさんたちは少なからず存在する。女性からはそういう意見をあまり聞かないけどね。ごく一部のおじさん好き以外は。
おじさんがそんなに魅力的だと本気で思っているなら、おじさん同士で付き合えばいいんじゃないかな。少なくとも若い女性相手よりはずっと釣り合いがとれてる。
これなら女性から文句言われないと思う。誰も困らないからね。特に若い女性は助かる。完全に対象外の人からしつこく寄ってこられる苦しみから開放されるから。