場末の雑文置き場

好きなことを、好きなときに、好き勝手に書いている自己満ブログ。

映画「バービー」とグレタ・ガーウィグのホワイトフェミニズム

2023年08月19日 | ジェンダー・家族等

「バービー」は公式が原爆を茶化して批判されたりもしたが、結構多くのリベラルやフェミニストの人が観に行っていて、概ね好意的に受け止められているようだ。

私としては、あの映画を平気で見にいけるんだ、そして称賛できるんだ、という気持ち。バーベンハイマーの件を許していないので。ちなみに私は全く愛国者ではなく、日本は自国のやらかした侵略についての認識が甘すぎると常々思っているしそれにも怒っている。それと同時に、大勢の人が犠牲になった原爆を肯定したり被害を軽視してはならないという立場。あんな風に茶化せるのはアジア人に対する差別意識が根底にあるからだと思っている。

そしてバーベンハイマー以外にもモヤモヤするポイントはあって、それがホワイトフェミニズムっぽさ。
観もしないでこんなことを言うのは、監督がグレタ・ガーウィグだからっていうのも大きい。私は「バービー」こそ観ていないが、グレタ・ガーウィグの前作「若草物語」は観ていて、これはホワイトフェミニズムだな、と感じたので。
「若草物語」は原作に馴染みがあったので観てみたが、エピソードの繋げ方が雑でイマイチな映画だな、期待外れだったなとしか私には思えなかった。でもなぜか絶賛する人が多くて、それがどうもフェミニズム的に優れているから、ということだったようだ。
確かにその「若草物語」では女性の自立や結婚しない自由、みたいなテーマも含まれてはいたが、画面に白人以外が映ることがほぼ皆無の映画でもあった。そんな映画が「フェミニズム」を扱っていたとしても、それは白人女性のためのフェミニズムでしかない。

さらに、ガーウィグの映画の登場人物がほぼ白人なのは、「若草物語」だけの話ではないらしかった。「レディ・バード」も白人の少女たちを主人公にしたリベラル風な話だったとか。「若草物語」なら時代背景がそうだったから、でまだ納得できないこともないが、現代ものではそんな言い訳もできない。
今回の「バービー」にはアジア系やアフリカ系も出ているらしいけど、所詮は脇役。主役は白人のバービーとケンなのである。
文句を言われないために、アリバイ的に白人以外も出しておこう、ついでに白人特権についての自虐も入れとけばバッチリ、みたいな思惑が透けて見えてしまう。ガーウィグとしては、本当は白人だけ出したいんだろうな、でも批判を避けるため、マーケティングのため、自身を「リベラル」なイメージにするために出しているだけ、って感じ。

そのうえ、先住民の天然痘の被害をジョークにするようなシーンもあるらしく。もう最悪だな。予想よりひどいくらいかもしれない。こんな側面を無視してどうして絶賛なんかできるんだろう。

前々から感じてたけど、本邦の多数派フェミニストたちって欧米を理想化しすぎの傾向があるような。そして大概の場合、他の非欧米圏の国々は日本より遅れているという目線とセット。脱亜入欧の時から進歩してない。
例えば、アメリカの男性なんて日本の男性よりずっと男らしさに縛られているし(そしてそれは女性を見下す心理から来ているのは間違いない)、そこから逸脱した者への嫌がらせもあるのに。ジェンダー平等の視点から見てアメリカが日本よりマシとは言い切れないと私は思っている。

彼氏と観に行ってリトマス試験紙にしよう、みたいなこと言ってる人がいたらしいけどそれも相当ひどい。つまり、この映画を観る女性は恋愛をする人で、かつ異性愛者である、となんの疑いもなく思っているってことじゃないか。
この映画のヒット度でその国のフェミニズム的成熟度が計れる、みたいな評価もそれとまあまあ同類。韓国で「バービー」がヒットしなかったのは韓国のアンチフェミニズム的な空気のせいだ、みたいなクソ記事もあったな。

白人女性を主役にしたフェミニズム映画をすべての女性、特にフェミニストが見るべき普遍的なもの、みたいに扱われるのはものすごく違和感がある。こんなことを言える人は、白人中心的な考え方が骨の髄まで染み付いてるんじゃないだろうか。韓国でだって「82年生まれ、キム・ジヨン」みたいなフェミニズム映画が作られているのに、どうしてアジア人がアメリカのものをそこまでありがたらないといけないんだ? しかも、日本もそうであるように、多分バービー人形にそれほど馴染みのない国も多いのに。

バーベンハイマーの件、天然痘の件、ホワイトフェミニズムの件、フェミニストだって不快になるような要素がいろいろあるのに、これで不機嫌になったら「アンチフェミ」ですかそうですか。私だってフェミニズム思想には共感しているけど、ホワイトフェミニズムは嫌いなだけなのに。

このモヤモヤする感じ、「ワンダーウーマン」のときと似ているかもしれない。「ワンダーウーマン」も「フェミニスト」からの評価が高かったから。それでもパレスチナ攻撃を支持したガル・ガドットが関わっていないだけマシかな、あんなのがフェミニズムアイコンみたいに扱われるのは本当に勘弁してほしかった、なんて思っていたら、なんとマーゴット・ロビーもグレタ・ガーウィグも最初はガル・ガドットをバービー役にキャスティングしようとしていた、ということが判明。

ああ、無理だわ。これでガーウィグ完全に無理になった。本当に骨の髄までホワイトフェミニストなんだな。パレスチナの女性たちのことなどどうでもいいと。この人の監督作は二度と見ないだろう。


関連記事
「ワンダーウーマン」にモヤモヤ
「ワンダーウーマン」とシオニズムとホワイトフェミニズム
白人大好きリベラルとホワイトフェミニズム
自国中心主義にも欧米中心主義にもNOを


Twitter上で蔓延するトランス女性に対する差別のこと

2019年01月10日 | ジェンダー・家族等

Twitterでフェミニストを自称していたり女性差別反対を表明して繋がっている人たちの最近の発言にはひどいものが本当に多い。男児ももっと性被害に遭ったほうがいいとか、男児を間引けとか。もちろんこういう発言を批判する人もいるけど擁護する人も多くて、あまり自浄作用がない状況になっている。

その中でも今特にエスカレートしているのがトランス女性に対する差別発言。これに反対しているフェミニストアカウントのほうが少ないんじゃないか、と思えるくらいの状況。

トランス女性のふりをしたエロ目的の男性がトイレに入ってくるのが怖いって、本気でそんなことがあると思ってる? 自分の根拠のない不安のために人を排除しようとしておいて、差別者扱いをひどいと言う。トイレすら制限されてしまったら普通に日常生活を送るのも困難になるってことがなんでわからないのか。自分が安心するために人に不便を強いていいと思えるところがマジョリティの傲慢なんだよ。

こういうのもフェミニズムと呼べるんだろうか? さすがに違うよな。違うと思いたい。でも「こんなのはフェミニズムじゃない」と言うと「フェミニスト鑑定士」なんて呼ばれて批判されたりするんだよね。

それと、「男性に見える人に女子トイレに入ってこられると不安」っていうのをトランスへの恐怖に結びつけるのもずれてる。こういうことを思っている人は、シス女性はみんな普通に女性に見えてシス男性はみんな普通に男性に見える、って前提を疑ってないよね。人間の多様性を舐めてるな。

「私の観測範囲では誰もトランスフォビアを表明なんかしていなかった」って言ってた人のフォロー欄を見てみたらトランスフォビアを表明しまくってた人らがズラリと並んでいたりすることもよくあった。本当に自覚がないんだな。「軽々しく差別認定するのはやめろ」って、それ女性差別に声を上げてきた人たちがミソジニストからよく言われるのと同じことじゃない? 

女性の概念が変わったら困るらしいのだが、なんでそんなものを必死になって守ろうとするのかわからん。むしろぶち壊すべきものじゃないの? こんな性別二元論者・保守主義者が「フェミニスト」名乗ってるってなんの冗談だよ。

こういう空気を諌める人もそれなりの数出始めたけど、それに対して「差別に反対する人同士が分断されるのは悲しい、本当の敵はミソジニストのシス男性なのに」みたいなこと言ってる奴が何人か。差別に反対してる、って図々しいんだよ。奴らは自分の属性に対する差別にだけは反対で他の差別は大好きな人だし、どっちも本当の敵だよ。今回トランス叩きの中心となっているのは間違いなくシス女性たちなのに、それを別のものに責任転嫁しようとする者たちも奴らと同類だ。

そもそも男が原因なんだからどうのこうのって、甘えるのもいいかげんにしろよ。自分だって差別の加害者になりうるんだっていう視点がスポーンと抜け落ちていて、その無自覚ぶりに唖然とする。
女性差別を受けてきたことは自分がやらかした差別の免罪符にはならないし、女性というだけでどんな場合でも絶対的に被害者になるってこともないよ。当然のことだけど。

女性差別問題ばっかりにフォーカスを当てていると他のことが見えなくなる。だから「女性差別が一番深刻な差別なんだ、それに比べれば人種差別その他の差別なんて大したことない」とか言う奴が出てくる。これも本来なら大炎上して然るべき発言だけど、一部の人が批判しただけで大した問題にされなかったよね。こういうのを諌める仲間が存在しないか、あるいはとても少ない。はっきり言わないまでも多くの「フェミニスト」が同じようなことを思っているんだろうね。あの人らの普段の感じからして。

少し前のツイッターレディース全盛期もこんな感じだったな。ヘイトの対象はトランス女性じゃなかったけど。今のフェミニストの連帯の中には、元ツイッターレディースが中心的存在として大量に混じっているからね。
これからもまた、奴らは同じことを繰り返すだろう。トランス差別発言はいずれ沈静化するかもしれない。でも、いつかまた別のターゲットを見つけて攻撃するよ。だから注意深く見ないといけない。

私も前はツイッターレディースのことをきちんと把握しきれていなかった。特に目立っていた人たちのことは覚えていても、積極的に差別発言はしないがツイッターレディースに理解を示していたり、ツイッターレディースを大量にフォローしたりしていた人たちのことまでは。
でも今度は忘れないから。
積極的に差別発言した奴だけじゃなくちょっとでも理解を示した人、無神経に恐怖を表明し続けた人、本当の敵は他にあるといった人、みんなクソだと思うし誰がそういう態度をとったか覚えておくことにする。 
影響力ゼロの私がそうしたところでなんの効果もないことなんて百も承知だけど、それでも。


→ツイッターレディース的なもの


男女二元論とフェミニズム

2018年12月08日 | ジェンダー・家族等

私は女性差別問題に関心があるし、 フェミニズムの思想は概ね共感できるものだと思っている。だけど、フェミニストと名乗っていたり、それ系の主張を多くしている人で、この人とは決定的に相容れないな、と感じる人は少なくない。

特にTwitterで見る女性と思しきフェミニストの中には、私の日常の世界以上のガッチガチの男女二元論者が結構な割合で居た。例えば「フェミニズムは女のものです。男は入って来んな」みたいなこと言ってたりとか。
あの人らの「女」っていうアイデンティの強固さには驚く。私は性別の縛りから逃げたくてフェミニズムに救いを求めたところがあるんで、こういうのには違和感しかない。

加害され続けてきた後遺症ではあるのだろうが、あまりにも強すぎるミサンドリーを見てしまうと恐ろしくなる。男性性を振りかざす人を憎むならわかるけど、男に生まれたというだけで一様に加害者、敵に分類するのは少しおかしいんじゃないだろうか。私は女扱いされたくないから、人を男扱いもあまりしたくない。その人の性別よりもどんな行動をとって普段何を言っているかを見たい。

女性とは小さくて弱いものだ、みたいに男女の差異を殊更に強調するフェミニストも何度か見た。そりゃ平均的にはそのとおりなんだろうけど、そうやって断定してしまうやり方には引っかかりをおぼえる。あの人らの口ぶりだと、でかくて腕力の強い女は女じゃないみたいだし、虚弱な男もいないことになっていそうだ。こういうものは個人差だって大きいし。同性なら力が同じくらいなんてことももちろんないのに。
フェミニズムは、女はこういうものであるとか男はこういうものであるみたいに人を型にはめることからの解放を目指すものだと思っていたんだけどな。

私には自分の性別というよりは性別という枠組みそのものに対する違和感が強くある。自分も性別から自由になりたいし、女らしさや男らしさみたいな世間の押しつけで苦しんでいる人はみんな救われてほしい。性別問わず。だから男の子プリキュアが出てきたときにフェミニストからの否定的な反応がかなり多かったことについてはとても残念に思った。

いろいろ考えると、多分私はフェミニストではないんだろう。女性差別を解消したいっていう気持ちはもちろんあるけど、それ以上に性別の枠組みを破壊したいという気持ちが強いので。フェミニズムは女性の問題を扱うものという線引きがあるけど、私は男性が受けている抑圧についても関心があるし。

だからといってアンチフェミになるつもりも全くない。一部の過激で差別的な人にばかり注目してフェミニスト全体を攻撃するような輩は敵だと思っている。
正直なところ嫌いなタイプのフェミニストはたくさんいるけどそうでないフェミニストだってたくさんいるし、フェミニズムという思想自体はいいものだと思っているので。


「プレバト!!」11月22日放送分がいろいろとひどかった

2018年11月25日 | ジェンダー・家族等

11月22日はいい夫婦の日ということで、兼題写真は結婚式のものだった。それなら既婚者に俳句を作らせればいいのになぜか独身の、それも女性だけを集めていたところにまず悪意を感じた。ナレーションも司会者も名人枠の東国原も、独身の女性たちが結婚したがっている前提で、結婚できなくてかわいそうな人たちとして扱っていたところがとても胸糞悪かった。しかも年齢のことまで出してきて笑いのネタにするし。古い、古すぎるよ。

この番組に限らず、女性がずっと独身でいることを公共の電波で堂々と馬鹿にすることはいまだに横行している。女性は結婚したいものだと思っているところも同じ。セクハラおっさんたちが業界を牛耳ってるんだな。さっさと引退してほしい。

そういうわけできちんと見る気になれず、女性ゲストの作った俳句は覚えていないのだが、東国原の俳句は悪い意味で記憶に残ってしまった。
「冬近し チリ人娶る 過疎の村」
他に相手がいないから仕方なくチリ人と結婚した、みたいなニュアンスで。チリの人を見下している感じがにじみ出ていてものすごく失礼な句だ。こんなものを世に出していいとよく思えたな。夏井先生も技術的なことだけ指摘してそういう問題点はスルーしていたし、なんだかな。

東国原は前からひどいので、こういう句を作ってしまったことに対する驚きはない。なるべく若い、綺麗な女性に特待生になってほしい、おばさんはいらないと公言するセクハラおっさんだから。
ネタのつもりなのだろうが、そもそもそういうものを笑えるネタだと思っているところも、そうやって持ち上げられた若くて綺麗な女性からしても全然嬉しくないのがわかっていないところも駄目すぎる。女性がいたほうが華がある、男性だけだとむさ苦しいというのも、男性陣に対しても失礼。ミッツ・マングローブが恋愛の句をよく詠むことに対して「ゾッとする」と言っていたことも忘れられない。

本当にあの人が口を開くとろくなことがない。名人なので出るのは仕方ないが、俳句だけ詠んであとは黙っててくれないかな。
ただ、東国原だけが悪いんじゃないとは思う。あのひどい発言の数々をカットせずに普通に放送する制作側も問題だ。なんの疑問もなく面白いコメントのように思っているからできるんだろうな。

私は今回この番組を両親と一緒に見ていたんだけど、独身女性を馬鹿にしているのが不快だと言ったら、「楽しみに水を指すな、黙れ」と本気で怒られた。あの番組の内容には全く不快感がないが、私が不快感を示すことだけは不快らしい。
つまりテレビ業界を牛耳ってるセクハラおっさんたちの感覚と、私の両親の感覚はほとんど変わらないってことだ。こういうのが普通でなんの疑問も感じないような人たちが特にテレビをよく見る高齢層ではマジョリティなのかもしれない。だからこそああいうものが公共の電波で堂々と流せるんだろうな。


「彼」と「彼女」という三人称について

2018年10月08日 | ジェンダー・家族等

男性も女性も含んだ集団を表す言い方として、「彼ら彼女ら」という呼称が使われているのを最近よく見るようになった。「彼」は男性を指す言葉だから「彼ら」というのは女性を排除しているようで適切ではない、といったような理由かららしいんだが、どうもこの呼称には違和感があって、いつまでも慣れない。

自分だったら一応平仮名にして「かれら」と呼ぶかな。女性だけの集団でも。女性をナチュラルに排除した表現でも問題ないじゃないか、という意味ではなく、そもそも「彼女」という三人称に違和感があるから。

「彼」の後ろに「女」を付けて「彼女」。つまり「彼」が基本形で、その基本形は男性を表すものとされている。女性の俳優を「女優」と呼ぶのに近い違和感を私は「彼女」に持っている(そもそも「女優」になんの違和感もないって人が大半だとは思うけど、私はめんどくさい人間なので)。

100年以上前に文語体で書かれた「舞姫」を読むと、エリスという女性が「彼」と呼ばれているんだよね。これを見るに昔は「彼女」って三人称なんてなくて、性別問わず「彼」だったんじゃないかな。推測だけど。それを言ったらそもそも「彼」だって元々なくて、外国語の翻訳のために取り入れた三人称だったはずだけど、それは本題とは関係ないので置いておくとして。

そういうわけで「彼女」なんて三人称はいずれなくしてしまって、「彼」で統一したほうがいいと思う。女性でも「彼」で。人を指す三人称にいちいち性別をつけるのは、性別からなるべく自由でありたいと思っている人間にとっては窮屈な感じがするので。

三人称にいちいち性別を付けるという発想って英語由来なんじゃないかという気がする。英語は日本語みたいにはっきりとした女言葉みたいなものはないけど、性別にこだわる言語だと思う。ヨーロッパの多くの国の言葉もそうかな?
例えば日本語なら「あの人」とか「その人」とか「~さん」みたいな性別問わない表現でいけるところが、英語だと「he」「she」、「Mr」「Ms」みたいに、いちいち性別を付けないと気が済まない。ドイツ語なんか名詞にまで性別付けてるし。
ヨーロッパ系言語のこういうところはあまり好きじゃなくて、これも将来少しずつ変わっていってくれればいいなと思っている。