海外で植民地主義者や奴隷証人などの銅像が倒されていることについて、日本のネット上では否定的な意見のほうが目立つ。さすが歴史修正主義が国是の国だなと思う。
かれらは人種的マイノリティが殺されることには特に何も感じないが、命のない白人の銅像が倒されることには怒りを感じるらしい。なんだかな。
少し想像力を働かせてみればいいのに。例えばヒトラーの銅像が建っていたら、迫害された属性の人たちがそれを見てどう思うか。
「ヒトラーの銅像とかありもしないもので誤魔化すな」って言ってた奴がいたけど、なんでヒトラーの銅像が「ありもしない」ものになったと思ってるんだ。ヒトラーの銅像だって元々は元々はあったけど取り壊されたからじゃないか。
そして銅像が取り壊されたことでヒトラーの所業が忘れ去られたかと言えば、結果はご覧の通りなわけで。「歴史の記録として銅像を残しておくべき」なんていう意見がいかにアホらしい屁理屈かってのは、ちょっと考えてみればすぐにわかる。
このニュースについて考えているうちに、トレバー・ノア(アメリカで活躍する、南アフリカ出身で混血のコメディアン)の自伝「Born a Crime: Stories from a South African Childhood (邦題:トレバー・ノア 生まれたことが犯罪!?)」の中で語られていた、欧米の人たちとアフリカの人たちの歴史についての考え方の違いの話を思い出した。
欧米の人たちの多くはヒトラーが世界史上最悪の人間でありホロコーストは人類史上最も残虐な行為であると考えている。しかしそれは欧米人の目から見た歴史であり、南アフリカの黒人にとっては過去に遡って殺せるなら殺したい人物はヒトラーよりもセシル・ローズのほうである。それがコンゴだったらベルギー王レオポルド2世、ネイティブアメリカンならコロンブスやアンドリュー・ジャクソンが殺したい対象になるだろうと。
これを読んでいて、自分含め日本で教育を受けた人たちも欧米諸国の見方を内面化しているなと気付かされた。確かにヒトラーについては明確に否定されるべき人物として習うけど、セシル・ローズその他についてはそうでもなかった。コロンブスに至っては偉人扱い。コロンブスは「発見」なんかしてないだろ、ってのは昔から思ってはいたけど奴隷商人としての側面を知ったのはついこの間。マゼランについては虐殺者でクズってイメージは前からあったけど。
ナチスによるユダヤ人の迫害が他に比べて「特別」だったのはトレバー・ノアの言うようにナチス自身が被害者の数を正確に記録していたから、というのもあるのだろうけど、被害者が主に白人だったから、というのも大きな要因なのではないかな、と思ってしまう。
でも最近銅像が今倒されたり撤去されたりしている面子を見てみると「Born A Crime」で名前を挙げられていた人たち全員がいるし、白人以外の被害にも以前より目が向けられるようになってきたのがわかる。良い変化だと思う。
銅像の引き倒しや撤去、本当は日本だってやったほうがいいと思うんだ。伊藤博文の像とか。でも今の状況ではとても無理だろう。海外で銅像が倒されたニュースの反応もあの通りだし、日本は全く何も変わっていない。むしろ逆行すらしようとしているような気もする。
ついこの間の選挙では、関東大震災で虐殺された朝鮮の人たちへの追悼文を送ることすら拒否する歴史修正主義者がこの国の首都の知事に再選された。それも圧倒的大差で。かつて無理矢理日本人にされ、労働力として連れて来られた人たちやその子孫には選挙権すらない。
新しい一万円札に植民地から搾取して設けたらしい渋沢栄一を選ぶセンスも最悪。次の大河ドラマの主人公にも起用されるらしいしな。そして多くの人はそれになんの疑問も感じない。「韓国に文句を言われてうるさい」くらいにしか思っていなさそう。渋沢の所業を知ったところできっと同じだろう。
今の一万円札は福沢諭吉だし。「天は人の上に人を造らず」とか言ってたくせに征韓論者なんだよな。福沢にとっては韓国の人たちは人ではなかったのかな。
植民地支配していたことを本気で反省していたら、渋沢栄一を一万円札の肖像画になんてできないはずだ。それどころか自称愛国者の人たちは日本が植民地支配をしていたという事実すら認めたがらない。かれらが大好きな台湾についても。それに遠慮してか多くのテレビ番組も「植民地支配」という言い方を頑なに避けるしな。「植民地支配なんかしていない、統治しただけだ」なんて、馬鹿じゃないの。