昭 和 の 風 雪
昭和七年に父が生まれ、八年に母が生まれた。
若さにまかせた熱愛の末に長女の私と、弟ふたりがこの世に生をいただきました。
運良く嫁いだその先も「同じ姓」です。
今まで、父母からどれほどの戦時中の思い出を聞きかじってきたかわからない。
それもそのはず、父母が生まれてすぐに、アメリカの戦略のカモとなった真珠湾攻撃を背景に、父母は中学を卒業する寸前まで、戦時下の灰色の空の下。
思い出そのものが戦争と直結しているのも無理はないのです。
物資もままならぬ生活、教育勅語を学校で読まされ、軍国少年少女として父は特に教師に何度びんたを張られたかわからないと言います。
そんな昭和三十九年の春。
私が中学一年生に入学したその日、父は客間に私を呼び、お互いに正座しながらおもむろに慎重にゆっくり言葉を選びながら、「○○子、中学入学おめでとう!
お前は今日からは立派な大人だ。
父さんの中学校時代は、戦争中で学徒動員と言って、戦地に行っている兵隊さん達のために芋を作ったり掘ったりして、お国の為に立派に働いたものだ。
父さんは中学を卒業したら航空隊に入隊しようと思っていたけれど、卒業前に終戦になったんだ。
だから、中学生というのはいいか・・・もう子どもじゃないんだ。
お国を支えられる立派な大人だ!いいか・・・父さんはお前を信じている。
だからこれからは何も言わない。
いいか自分で責任の取れることだけをしろ。
それから人間に一番大切なのは生涯、学ぶということだ。
学校の成績の問題じゃない。学び続けることが教養として大切なのだ・・・。」
父が私に教えてくれた四十六年前の出来事を忘れた事がありません。
十三歳の私が大人として見てくれる父の眼差し、父の背中がぐーんと二回りも大きく見えた瞬間でもありました。
それにしても、もし父が特攻隊で命を落としていたなら、私は存在していないので「戦争が無くなった」という事実には感謝しなければなりません。
そんな尊い私の想い出も母に最近聞いたら、両親がその前日、朝の光が寝室に差し込むまで私に、中学生の自覚をどう持たせるか喧々諤々と話し合い、父が母の助言の元に出来たシナリオだったということがわかりました。
娘を想う父母の愛は年を重ねるごとに、しみじみと嬉しいものです。
平成二十三年の今、親殺し、子殺し、教師殺しに生徒殺し。
何が彼らをそのような行動に走らせるのか心が痛むばかりです。
父母が本当の青春を迎えたのは、奇しくも六十歳の定年日。
それから十五年余り、母の肺がんを克服すると同時に、自宅では、食事と睡眠を主として旅行・パークゴルフ・毎日の温泉通い、町内会のボランティア、親戚との交流・冠婚葬祭エトセトラと・・・。
死んじゃうのじゃないかと思うほど、今までできなかった本当の青春を探していたのだと思います。
そう言えば、今、入院加療中で、ガンと壮絶に闘っている○○主幹も昭和七年生まれ。
父母の生き様。主幹の生き様。
必死に、ただ、必死に上を向いて、歯を食いしばって生きてきたんだなーと、
昭 和 の 風 雪 を 想 う。
<2011・3月号 吟社 寄稿>