水戸街道(江戸街道)は、文政5年(1822)には23藩の大名が参勤交代で通行したそうです。幕末の混乱期には、封建時代には無謀ともいえた、自らの考え方を伝えようと、多くの士民、農民が江戸へ押し出すといった行動をとったそうで、なんでも通る水戸街道ということばにもなったようです。
一里塚(元吉田町 県道180号線)
水戸街道は約30里(約120km)あって、30か所の一里塚があったそうです。普通は道の両側に小高い盛り土があって、そこにエノキやケヤキが植えられていたたそうですが、今、ここでは一方にしかなく、エノキ(樹齢100年)が植えられています。また、阿夫利(あふり)神社が祀られ、石仏が並んでいます。
銷魂橋(たまげばし)
紺屋町から七軒町(本町側)にゆく備前堀を渡る橋で、農村から城下への境界と思われていたそうです。元禄3年にこの名になったそうで、このあたりは広小路ともいって古着市がたったそうです。
宿場跡碑(本町2)
碑のあるあたりが、水戸本町(ほんちょう)の宿場の中心だったそうです。宿場だけでなく商業・流通の多くが本町に集まっていたようです。明治以降、特に鉄道の開通以後、駅と離れた本町は衰退に向かったそうです。多くの都市で、鉄道火災を心配して反対運動がおこったことがあるようですが、本町でもそれがあったのかもしれません。
桝形(元台町1(写真左)、元吉田町2(写真右))
城下への軍勢の侵入を妨げようとする桝形は、水戸に街道が入ってから、二か所あるようです。ともに見事に屈折しています。
本陣(本町)
本陣があったことは安永7年(1778)の入用書き上げがあるので確かだそうですが、それがどの家だったかは分からないそうです。問屋は原則2軒だったそうで、その役料は1年で、モミ10俵というわずかなものだったそうです。この当時、藩政の末端をこなす町民への報酬は、名誉だったようです。