江戸時代中期以降、一般の人々の生活環境が多少なりとも向上したことから、生地を離れて各地の霊地を参拝する信仰行事が広く行われるようになっていったようです。当然多額の費用がかかることなので、多くは参拝を実現させるために講が結成されて、その積立金で実行されたようです。伊勢、西国、富士山といった一か所にしぼった参拝から、出羽三山、伊勢・金刀比羅、西国・四国、板東・西国・秩父などといった霊地巡礼まで、いろいろなかたちがあったようです。それを導く御師といった信仰職業もあったようで、詳しく見ると面白そうです。また、碑を見ると、「伊勢・金刀比羅」、「西国・四国」、「板東・西国・秩父」がそれぞれセットになっているようで(もちろん例外はありますが)、これも何か歴史的意味があるのでしょう。明治以降の碑が多いこともこうした種類の碑の特徴なのでしょう。
伊勢参拝記念碑(香取稲荷神社 東大野158)
昭和15年に皇紀2600年を記念して行われたようです。
昭和15年に皇紀2600年を記念して行われたようです。
西国四国巡礼碑(観音堂 かがやき授産施設(下大野町6743-1)南西約100m)
廃寺になって残った観音堂ですが、ここにはいくつかの巡拝碑があります。西国・四国は三十三か所、八十八か所の観音、大師巡りですから、残った観音堂の意味が大きかったということなのでしょう。
大山富士山高尾登山記念(香取稲荷神社 東大野158)
昭和11年とあります。これは、山の霊地を巡拝しているようですが、こうした碑は水戸ではここだけで見ました。