北原白秋は水戸市歌の依頼を受けて昭和10年に水戸を訪問し、偕楽園等各所を巡って構想をねるとともに、歌も詠んだそうです。白秋没後の昭和18年に出版された「渓流唱」の中にある「水戸頌」がそれだそうです。「昭和十年二月、市歌作成のため水戸に赴く、即ちこの数聯成る」というただし書きがあるそうです。その中のいくつかをご紹介します。
これより前、市会では「一体この白秋とは文壇上どの地位にいる人か、白秋はこの水戸市に、さらに水戸学にどれだけ交渉のあった人だったのか。新聞にはにわか造りの水戸通になるために徹宵水戸市を駆歩いたと報道している。…眉つば物だと私は信ずる」などといった議論がおこなわれたそうです。それを聞いたであろう白秋は不愉快だったのでしょう、その時もらった制作費を水戸で払いきって飲んでしまい、大荒れしたそうです。もっとも歌とトラブルは別のようです。
水戸弘道館
梅おほ(多)き ここの月夜の うら庭は ひとり明らかに 歩を移すべし
(弘道館は、昭和20年の戦災に耐えて、上市で残った希少な文化財で、徳川斉昭の代表的遺跡なのでしょう。)
志士墓地(常磐共有墓地)
月あかり 杉の一樹に くだりゐて 東湖先生の 墓どころここは
(斉昭の改革をを支えた藤田東湖の墓です。写真上部の「表誠之碑」という題字は、斉昭の筆だそうです。)
清香亭から見た千波湖
千波沼 ひろき明りの 上にゐて 国思ふ心 今朝ももちつぐ
(清香亭は、かつてあった偕楽園直近の料亭で、伊藤博文も歓を尽くしたこともあったそうです。千波湖は、千波沼とも言われていたようです。写真は夕暮れの千波湖です。)
好文亭楽寿楼
円刈(まるがり)の 幾むら躑躅(つつじ) 春あさし 早や開(あ)けはなつ 楽寿楼見ゆ
(好文亭の3Fを楽寿楼というようです。俯瞰して見えるツツジの大樹の満開は、水戸を代表する絶景といっていいでしょう。)
好文亭梅の間
梅の間よ 今は眺めて しづかなり 一際(ひときわ)にしろ(白)き 梅の花見ゆ
(明治維新後に、斉昭の正妻・吉子が数年間住まいした部屋だそうです。現在の梅の絵は、昭和33年に好文亭が復元された際に、須田珙中が描いたものだそうです。)