活字が発達しなかった日本では、出版は版木が使われたようです。たくさんの漢字活字を用意して拾うより、手の器用な日本人には、彫った方が早かったのでしょうか。文字をつないで書く草書体が一般的だったことも理由の一つなのでしょう。嘉永4年(1851)に出版された本紀・列伝を記した大日本史の版木は、昭和20年の空襲でほとんど焼けてしまい、今残っているのは2枚だけだそうです。
弘道館記(弘道館 三の丸1-6-29)
徳川斉昭の名前で藤田東湖が描いた弘道館記は、弘道館が出版して広く読まれたようです。弘道館記碑は、弘道館北側にある八卦堂の中にあります。その拓本は弘道館本庁の床の間に軸装されて飾られています。写真の下方にあるのは、弘道館記と書いた外題(げだい 表紙に貼る書の題名)のようです。
弘道館学則(弘道館 三の丸1-6-29)
「一、凡(およ)そ学館に出入する者、当(まさ)に親製記文(斉昭の弘道館記)を熟読し、審(つまびら)かに深意の在(あ)る所を知るべし。神道、聖学(儒学)の其の致(むね)を一にする、忠孝の其の本を二ツにせざる、文武岐(わか)つべからざる、学問事業の其の効を殊(こと)にすべからざる、皆宜(よろ)しく記文の意を奉承し、黽勉服膺(びんべんふくよう 励んで忘れずに行う)すべし。」と第1条にあります。写真下方に学則の文字が見えます。
喪祭式(弘道館 三の丸1-6-29)
斉昭は、神葬祭を奨励し、仏教式を排して、神道式による簡素化を図ったそうです。これは、明治2年に弘道館蔵版として板行されたものの版木だそうです。今の弘道館東側の弘道館公園のあたりで弘道館出版事業は行われたようです。「弘道館施設の現在との比較」の中で11「文館」中の下あたりのようです。
水戸拓(水戸市立博物館 大町3-3-20)
幕末水戸藩で咸章堂岩田健文が始めた拓本技術や出版事業が北沢家に継承されて、水戸の名物になったそうです。写真は水戸拓の版木で、彫りが逆になっていないので、上に紙を置いてたたいて押して、墨をぬったのでしょう。火災で焼け残った版木だそうです。
秋葉神社(城東5-12)
坂田暁風が書いた写真の新聞記事には、「于時(ときに)天保七丙申(ひのえさる)(1787)六月吉日再版」と裏書きされた、秋葉大権現神体の版木が神社内にあると書かれています。印刷した札を氏子に配ったのでしょうか。以前境内に展示されていた新聞の写真です。
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