写真は、助川海防城跡(日立市助川町5-10-3)です。
徳川斉昭が家老・山野辺義観(よしみ)に住まわせた、海防のために海を見渡せる城だそうです。当時全国的に類例はなかったそうです。
海防の必要性を強く感じていた斉昭は、天保3年(1832)には、江戸で、船上から鯨を銃撃させるという訓練を行ったそうです。
天保12年(1841)頃、現・日立市の高鈴山を越えて、助川の海防城へ、さらに那珂湊の夤賓閣(いひんかく)へ行ったそうです。距離にして70km超で、従った人たちは疲れきって立つこともできない状態だったそうです。斉昭は42歳だったそうですが、ふだんと変わらない様子だったそうです。
謹慎処分が解けた後の弘化3年(1846)に、斉昭は「明訓一班抄」(めいくんいっぱんしょう 先代将軍の教訓を書いたものだそうです)を書いて、老中・阿部正弘を通して将軍・家慶(いえよし)に呈したそうです。家慶は感心して、上層部に読ませ、また、それを筆の立つ臣下に書かせて江戸城・鷹の間にかけさせたそうです。
安政3年(1856)頃、「自分は引退した身なので、アメリカへ渡らせてくれ、誰でも3,4万人を召し連れていって、交易をしたい、たとえその地で殺されても日本の不利益にはならないだろう」といった書を、老中・堀田正睦(まさよし)に送ったそうです。藤田東湖死後のことのようです。
南部産の1頭100両という良馬を勧める人がいたそうですが、斉昭は、それくらいならもっと安い馬を何頭も買う方がよいし、一人が良馬に乗ってたところで戦場の役には立たないだろうといって買わなかったそうです。
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