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水戸出身・藤田東湖の話(1)

2021-08-21 19:19:16 | 水戸

 徳川斉昭好文亭で酒宴を開いたとき、和歌を一首詠むようにいわれた東湖が、「自分は歌ができません、大嫌いです」と答えたそうです。 斉昭は、「それではその「大嫌い」を歌の題にしたらどうか」というので、東湖は「大嫌い 仏坊主に 薩摩芋 のらくら者に 利口ぶる人」といったそうです。 写真は好文亭で、左は楽寿楼のある建物、右は奥殿です。 

 

 立原翠軒(すいけん)と藤田幽谷の対立は、その後の水戸藩混乱のはじまりだったというのが通説のようです。 幽谷の子である東湖は、翠軒の子・甚太郎(杏所)に対して、「扨(さて)は貴意(きい)御故障(ごこしょう)も無レ之候(これなくそうら)はゞ何卒(なにとぞ)以来御心やすく被下度奉希候(くだされたく、ねがいたてまつりそうろう)。 江水(こうすい)隔絶近くには御面会の程も難計候得共(はかりがたくそうらえども)、せめては書札斗(しゅさつばかり)にても時々御様子承知仕度奉レ存候(ごようすしょうちつかまつりたくぞんじたてまつりそうろう)」という和解の書簡を送っているそうです。 「あなたにこだわりがないようでしたら、心やすく交際を願います。 お互いに江戸と水戸で会うことはできませんが、手紙でときどき近況を知りたいと思います」といったことのようです。 これが水戸藩全体の発想になっていたらと、誰もが思うでしょう。

 

 江戸での蟄居中に水戸からの東湖宛送金は、月に1両(今の感じで10万円以下でしょう)だったそうです。 月々の米代は2分2朱と300(4朱が1両です)で、これに味噌・醤油・炭などを加えるとぎりぎりの数字だったようです。 酒代は、依頼される書の代金を1点で酒1升分として、それがあてられたようです。

 

 東湖は、蟄居処分が8年間も続いたそうです。 蟄居場所を江戸から水戸に移された水戸下町時代には、禄が奪われて収入がないので、本町金物屋の帳簿付けもしたそうです。 そうしたせいもあったのか、触れれば切るといった鋭さから、円満、洒脱な性格に変わっていったそうです。

 

 同じく水戸で蟄居中に、東照宮の山車(だし)が近くを通ったとき、門外に出られないので、二人の子供が庭木や屋根に上ってそれを見たがったそうです。東湖は子供のことだから無理はないがあれだから困ると溜息をついたそうです。 

水戸出身・藤田東湖のゆかり


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