写真は徳川ミュージアムにある徳川斉昭お手植えの梅です。
徳川斉昭が藩主になる前の部屋住み時代に、江戸藩邸の後楽園で300両の費用をつかって放生会(ほうしょうえ)がおこなわれたそうです。それを聞いた斉昭は、貧しい家にこの金を分かち与えれば、それこそが何にもまさる功徳ではないかといっていたそうです。
宮家である有栖川宮家から吉子を正室に迎えるとき、斉昭は、嫁入り道具である長持、タンス、鏡台などを江戸で作らせて、水戸家の定紋が入ったおおい布をかけて何十荷かの行列をしたてて、はるばる京都まで運ばせたそうです。写真は弘道館にある、吉子の富士の図という書画だそうです。歌は「名も高く 万代(よろずよ)まても うこきなき 不二(富士)と友にや 猶(なお)栄なむ」だそうです。
弘道館の理念を広く世に知らしめようと、特大の和紙を漉かせて弘道館記碑の拓本をとり、朝廷をはじめ知り合いの大名や、藩内の郷校に頒布したそうです。朝廷へは、正室・吉子の兄を通じて光仁天皇に届けたそうです。写真は弘道館公園内八卦堂にある、高さ約3.3mある弘道館記碑です。
水戸で天然痘がはやったとき、湊村では600人が死亡したそうです。種痘は牛痘がよいが、水戸ではそこまでの研究ができていないので、次善の策として人痘ででも子供を救いたい、批難などかまっていられないと、自分の子供から接種を始めてひろめようとしたそうです。
小姓・青山勇が、斉昭の内命で江戸で高名な占い師・石竜をひそかにたずねて、ふくさに包んだ書を持ち込んだそうです。占い師は、高貴なお方の筆を見るには身を浄めないとと、内へ引っ込んで、改めて礼服を着てその書を見たそうで、心配は無用で、8月15日まで待つようにと占ったそうです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます