ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

ぶらっと歩きの風景(26)

2019-02-18 20:44:16 | 水戸

三の丸臨時庁舎解体工事(三の丸1-5-48)(2/2)
 新しい市役所ができたので、臨時に建てられていたプレハブ庁舎の解体が行われていました。

 

節分祭(水戸八幡 八幡町8-54)(2/3)
 水戸八幡では、高齢者・子供専用という豆まきの場所が指定されていました。これならケガなどを防げるし、それぞれに合わせた景品をまくことができるのでしょう。

 

塀のない茨城県公館(大町2-1-33)(2/9)
 新しい塀を建設するのでしょう、古い塀が撤去されていたので、はじめて公館敷地内を見ることができました。

 

刀剣乱舞看板撮影(水戸駅南口)(2/16)
 刀剣乱舞の看板が水戸駅南側に設置されていました。たくさんの人が自撮りなどの記念撮影をしていてびっくりました。手前の二人は、ミニチュアを置いて、看板といっしょに撮ろうとしているようでした。

 

ジャストマリード(市役所1F 水戸市中央1-4-1)(2/16)
 入口付近に、婚姻届のときに記念撮影できるスペースが作られていました。

ぶらっと歩きの風景(25)

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水戸為政者の家紋

2019-02-17 20:35:57 | 水戸

対(むか)い蝶
 馬場氏(水戸城の地に館を築いたという建久年間(1190-1198)から応永33年(1426)まで) 常陸平氏(ひたちへいし)の末である大掾(だいじょう)氏の流れという、吉田氏の一族である馬場氏の家紋です。

 

左三つ巴
 江戸氏(応永33年(1426)から天正18年(1590)まで) 藤原秀郷(ひでさと)の流れである那珂(なか)氏の出であるという江戸氏は、佐竹氏と対立したり臣下として和合したりしていたそうですが、豊臣秀吉に従わなかったこともあり、最終的に佐竹氏に滅ぼされたそうです。

 

五本骨扇に月丸
 佐竹氏(天正18年(1590)から慶長7年(1602)まで) 常陸源氏の直流で、豊臣秀吉に関東最大の54万石を与えられた佐竹義宣(よしのぶ)でしたが、関ヶ原の戦いで、態度を明らかにしなかったために、徳川家康によって秋田に大幅に減封(20万石)されて転封したそうです。この紋は、はじめ、無文の白旗を奥州征伐の際につかったところ、主君の源頼朝に自分の旗と同じなので、といわれて与えられたものだそうです。

 

武田菱
 武田氏(慶長7年(1602)から慶長8年(1603)まで) 武田信吉は、徳川家康の5男だそうです。家康は、名門武田氏がなくなるのを惜しみ、その名を残すように、信吉に武田の氏を名乗らせて武田家の遺臣をつけて、水戸25万石の城主としたそうです。病弱だった信吉は、1年ほどで死去したために、武田家は断絶したそうです。

 

三葉葵
 徳川氏(慶長8年(1603)から慶應4年(1868)まで)
 信吉の後、家康10男の賴宣(よりのぶ その後55.5万石和歌山藩主)の6年間を経て、11男である水戸徳川家初代城主頼房(よりふさ)が7才で藩主に就任したそうです。水戸徳川家は、その流れのまま、幕末、明治維新を迎えたそうです。写真は頼房が東照宮に奉納したという灯籠にある古い家紋です。

徳川頼房までの主な水戸城主
徳川頼房以降の水戸藩主

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水戸の竹(3)

2019-02-16 21:01:05 | 水戸

鹿島神社(飯島町734)
 写真は境内にある天神社にさげられたお神酒を入れる竹の徳利です。この鹿島神社には、たくさんの竹筒が下げられていました。この竹筒は、あちこちの神社で見られますが、甘酒を入れる場合もあるようです。

 

わーほい(根本町)
 小正月に行われるどんど焼のことを水戸ではわーほいというそうです。そのとき、燃える火の中にさしこんで餅を焼く竹の棒が、たくさん用意されていました。

 

六地蔵寺(六反田町767)
 去年、境内の歩道が整備されて、竹の手すりが設置されていました。竹の手すりを縦の棒杭に固定させるのにも竹が使われています。

 

水府橋斜め道向かいの崖斜面(北見町3)
 斜面が崩れるのを防ぐための防壁をつくるそうで、1月26日に竹林が伐採されていました。あっという間に竹林はなくなっていきました。竹が浅く根がはって崩れやすい崖のままより、こうした方が安全になる、と工事している人は言っていました。

 

立原翠軒杏所両先生宅址碑(柳町2-4-14)
  彰考館総裁になった立原翠軒は竹が好きで、此君堂(しくんどう)と号したそうです。此君は竹の異名だそうです。また、今は柳町ですが、翠軒の住んだ竹隈という旧地名も関係あったのでしょうか。翠軒がこの地で運営した私塾の名前も此君堂だったそうです。

 

竹串
 水戸藩の下級武士はとりわけ貧乏で、鰻の蒲焼きに使う竹串を作るのは有力な内職の一つだったそうです。まじめな水戸武士によって丁寧に作られた竹串は、江戸では評判で「鰻の串は水戸に限る」といわれたそうです。明治になってからも、「役人になれば鰻が食われるが、役人にならなければ鰻串を削らねばならぬ」と内藤耻叟(ちそう)は言ったそうです。

水戸の竹(2)

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水戸市役所の再建工事

2019-02-15 20:39:32 | 水戸

 東関東大震災で被災した水戸市役所は、多少の遅れはあったようですが、周囲の施設を残してほとんど完成したようです。その工事状況を撮ってみました。ただ、初めのうちは、撮るのをすぐ忘れてしまって、だいぶ進んだことに気がついてあわてて行ったりしていました。写真の前後のどこが変わったかくらべてみてください。どちらが正面なのか知らずに、裏側から撮っていました。最後の写真は市役所内にあったミニチュアです。開庁式挙行と、全体業務開始は、この2月4日だったそうです。

 

'16.03.20

 

'16.10.26

 

'17.03.24

 

'17.11.08

 

'18.03.04

 

'18.04.08

 

'18.05.06

 

'18.06.17

 

'18.10.14

 

'19.02.15

 

建物ミニチュア

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水戸の弓(2)

2019-02-14 20:27:55 | 水戸

吉田神社(宮町3193-2)
 水戸では節分会に、追儺(ついな)の矢を射る行事が大きな神社では行われることが多いようです。吉田神社では神楽殿で、魔という的を射ていました。

 

東照宮(宮町2-5-13)
 これも節分会の豆まき行事最初の一場面で、去年の写真です。

 

酒門神社(酒門町94)
 4月の祭礼には鏑矢(かぶらや)神事が行われます。4尺2寸(約127cm)の弓、2尺2寸(約66cm)の矢、4間2尺(約7.8m)離れた2尺2寸の的(まと)が使われて、豊凶を占うのだそうです。的の外側3方に鬼の字が書かれていました。鏑矢は使われていなかったようです。

 

内原弓友会道場(内原町)
  民間の弓道場だそうです。水戸にはほかにも同様の弓道場が数ヵ所あるようです。

 

市毛弓具店(宮町2-6-19)
  大正10年開業の弓具店だそうですが、全国的にも数少ない業種の店のようです。

 

水戸市植物公園植物館(小吹町504)
 綿弓(わたゆみ)といって、種を除いただけの綿の繊維をほぐしたり、不純物を取り除く作業をする道具だそうです。弓の弦をはじいてやわらかくしてゆくのだそうで、それを綿打ちというのだそうです。この綿弓は弦に植物繊維を使っていますが、かつては鯨の筋を使ったようです。

水戸の弓(1)

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