横浜市の動物園の1つに父のレストランがあった。
そこが、規模、売り上げ共に最大でその店を奪還
するための作戦を練り上げた。
綿密に作戦は練って挑んだのだが
想定を超える波乱が起こり、その末に
店長が電撃退社することで決着した。
かに見えたが、古参の社員が続々と
辞めていくことになり、会社が
揺さぶられることになった。
若手社員がかつての部下を
呼び寄せ、私もキーパーソンや
様々な形で体制を維持した。
新店長となった若手社員は凄まじい努力で
売り上げを伸ばした。しかし、恐ろしい展開が
待ち受けていた。辞めていったもと店長と
動物園の職員がつるんでいたのだった。
市長への手紙でレストランがひどいサービス
をしているとの告発が連発する。
動物園を運営する第三セクターの協会が
それを口実に厳しい指導を突きつけてきた。
中にはあまりにも理不尽な要求もあった。
その内容を知った父は激怒し、協会と
対峙することになる。
私は弁護士の力を借り、文章を作成し
協会、市、地元議員とやりとりをすることになる。
父は地域の諸団体に内容を拡散して
支援を仰いだ。その時の関係者達の言動ひとつひとつ
私は一生忘れない。あの時の、あの一言を私は
二度と忘れない。
翌年、公募に落選という形で私たちのレストランは
動物園から撤退することになった。その選定に対して
は疑問が多いが、しかし、最後まで全力ファイトで
戦ったことは私の人生において計り知れない経験を
与えてくれたのではないか。協会関係者、一部の議員
市の役人数名を私は一生忘れない。あの出来事を
生涯語り継いでいくだろう。一人一人、丁寧に。
動物園のレストランはまるで夜逃げかと疑われる
ような撤退を強いられた。
父、会社にとってこれ以上の屈辱はなかった。
撤退の4ヶ月後。父は心不全で倒れる。
奇跡的に一命をとりとめたが、仕事ができる
体ではなくなってしまった。
集中治療室で危篤状態が数日続いてた時から
会社の意思決定を代行で行うことになる。
その後父の意識が戻り、会社を継ぐ意思を
伝え、交代に向けて動き始めた。
つづく