Sydney Yajima


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棄民7

2011-04-28 01:42:18 | Weblog
チェルノブイリから25年がたった。
もし、あのとき産まれた赤ん坊が、いま、25歳の誕生日を迎えているとしたら、我々 大人は、彼らにどんな顔で接すればいいのだろう。
恥ずかしい話だが、25年前、何をしたのかというと、日本人はなにもしなかった。
ただ、チェルノブイリは、ロシアのウクライナ地方の事故で、彼らのずさんな管理や、それを裏付けるような資料を毎日 ニュースで見た。
「そりゃあ、ロシアだから ああなったんだな。」
その当時、20代だった私も、そう思った人間の一人だ。
そのあと、日本でもプルサーマル反対のニュースや、原発反対のニュース、裁判のニュースを何度もみた。
それで、私が何を感じ、何をしたのかといえば、ただ、スルーしただけだった。

私は、株式投資をする。
つい最近まで、あるオーストラリアのウラニウム鉱山の株で騰がったと喜んでいた。

それに、原子力発電所は、中期的には有望なエネルギー資源になる。とまで、言い切って 憚らなかった。
それが、知識が無かったからだとか、そんな程度の言い訳で済まされることではないと、今になって、思う。

小出京大助教の名前さえ、今回の3・11があるまでは、知らなかった。

私は、そんな恥ずかしい人間だ。
これまで・・・
実を言うと、もう少し、自分はマシな人間だと思っていた。

社会的にも、家族を持つ父としても、あるいは、社会的責任や、道義、さらには倫理においても、そういうものが、備わっている。
そう思っていた。
ところが、バリバリと自分の仮面が剥がれ落ちていく感じがし始めた、自分の間違いを認めたくない気さえした。
今も、心のどこかで、「悪夢を見ているのではないか? いや、そうであってほしい。明日 目覚めたら、何事もなく、3・11以前の世界に返って元通り生活できる」と願っている卑怯で、とてもじゃないが、人に見せることの出来ないほど ぶざまな 自分自身を持て余している。

管首相を、多くの自民党員が 批判している。
この自民党員の多くは、私などよりもっと 力があり多くの事が出来た人たちであって、その彼らが、54基の原発を作ってきた張本人であるのにもかかわらず、管首相を批判している。
管首相が、正しいことばかりをしているとは私も思わない。
だが、誰が首相だったら、原発を止められたのか?といえば、誰であっても無理であったろうと思う。
原発の事故をとめることができたとすれば・・・それは、過去25年間だったろう。
もしチェルノブイリを真剣に考えて 受け止めて、日本中の原発を止めることであれば、一党独裁であった自民党にならば できただろう と思う。
だが、彼らは、えんえんと推進してきた。
もちろん、利権もたくさん生んだ。
福島原発の地主だって政治家で、いかにもご意見番のようなことを言っている人である。
とんでもない話だと思う。
民主党だって、25年前はほとんどが、自民党員だった。
ならば、今の中心メンバーにしても、みんな、今回の福島には、一連の責任があるはずだ。

それに多くの官僚の天下り機関もそれにぶら下がった。
彼らにとっては、再就職先の原発だった。
今も多くの もと官僚がそこにいる。

マスコミも、広告費・・・それも巨大な・・・のために黙った。
批判はしなかった。
誰もしなかった。

そして、多くの日本の一般市民たちは、信じた。


これらは、いろんな意味で 裏切られた。
裏切られたとき、無力感に陥る。
今の、日本人は 見えない恐怖と どこかで無力感を持ち、あるいは あきらめの空気の中で 運命の審判が下るのを ただ 待っている。
いつ爆発するかもしれない原子力発電所が、4基。
それに、まだ今後事故を起こすであろう原子力発電所が プラス50基。

私が 子供の頃、宝塚という大阪のベッドタウンで育った。
宝塚は、閑静な町で、少し歩くと、甲山というかわいらしい死火山があり、そこから見下ろすと、山肌から伸びる宝塚の町が見下ろせる。
その中心には、阪神競馬場があり、それはオーバルのトラックを持ち、かなり広大な土地を占めている。
父が 少年時代には、そこは飛行機の部品工場があり、アメリカの焼夷弾が、雨アラレのように降り注いだ。と言う。
私が子供の頃、阪神競馬場の近くで、たくさんの白いビー玉を拾った。
ビー玉は、セラミック製で、時々 焦げているのもあった。

あれは、今から思えば、ベアリングの鉄球のかわりに使われていたものだったろう。
それが焼夷弾の焼け跡の土のなかから、泥とともに出てきて、私たち少年はそれを 白いビー玉だと喜んで遊んでいたのだった。
おそらく、そこには多くの焼けた死体があった場所で、そして、私たちはその人たちが製造した白いビー玉で、何も知らずに遊んでいたのだった。

土の中からは いろんなものが出てきた。
鉄くずやら、古いビンやら、多くのガラクタは、みんな、戦争中の廃材だったのだ。

今、産まれてくる子供たちも、おそらく、何も知らないまま、福島の原発をそんな眼で見るのだろう。
焼夷弾を知らないで、ただ、落ちていたビー玉を拾って遊んでいた私の少年時代のように。

多くの人が、亡くなった。
あるいは、これから 亡くなりつつある・・・。
その結果は、25年後の世界を見ることが出来たら、私はまたここに、書くつもりだ。

どんなふうに、棄民政策が2011年から後に、行われてきたのかを。
そうすることが、せめてもの、自分に出来る償いであるように思える。